その6(№6176.)から続く

今回は「『青ガエル』の変化」について取り上げます。
5000系は、新機軸を満載して登場したことから、「5000系が実質最初の自社設計車両であったこと自体が壮大な試作品とも言えなくもない」と評されています(東急車輛製造の設計者であった守谷之男の発言)。このことから、5000系の活躍の歴史そのものが、ある意味で「修繕と調整の歴史」でもいえるわけですが、同系は絶え間なく改良を繰り返してきました。
以下、特に乗客の目に触れる事項を中心に取り上げます。

【5000系の改良】
登場4年後の昭和33(1958)年には、早くもラジオ受信装置の取付けが行われました。これは「その3」で述べたとおり車内でのラジオ放送に対応するためですが、全ての乗客に好評というわけではなかったようで、車内でのラジオ放送は昭和39(1964)年に取り止められ、機器類は業務用無線に転用されました。
そして昭和38(1963)年には客室に扇風機を取り付け、夏季の居住性改善が図られています。
さらにその翌年、昭和39(1964)年以降は、見た目にも分かる変化が見られる改良が施されていくことになります。この年から側窓の更新が開始され、当初は車体色と同色だったので目立たなかったものの、後年アルミサッシ化も行われるようになり、銀色の窓桟が緑色の車体に映える姿になりました。ただし戸袋窓の更新に関しては別メニューとされ、一括施工されたわけではなかったため、開閉可能な側窓がアルミサッシ化されたのに戸袋窓が原形のまま残る車もありました。
昭和45(1970)年には客用扉の更新を開始。当初はオリジナルと同様の、窓ガラスの大きな扉に取り替えていたのですが(ただし窓ガラスの支持方法は変更されている)、昭和47(1972)年施工の車からは、窓ガラスが天地寸法の小さいものに変更されました。これは、扉に手が引き込まれる事故を防止するためでもありましたが、車内の閉塞感を助長するものでもありました。管理人個人の感想ですが、子供のころ5000系は好きな車両ではありませんでした。その理由はこの「小さなガラス窓」が理由で、ドアの脇に立っても外が見えなかったからです。もっとも、それこそが東急の「狙い」で、子供をドアの脇に立たせないようにする、少なくとも心理的にはドアの脇から子供を遠ざけさせることで、事故を減らそうという意図があったことは疑う余地がありません。
これら窓ガラスの更新、あるいは側扉の取替えなどのメニューは、統一されていたわけではなく、なおかつ一括施工でもなかったので、施工された車とそうでない車が存在しました。そして勿論、全車に波及したわけでもありません。側窓がアルミサッシ化されない車もあれば、側窓がアルミサッシ化されているのに側扉の窓は大型のままの車もある。さらに側窓のサッシ交換の有無にかかわらず戸袋窓が原形のままかそうでないかの違いもあり、「1両ごとに違う」デハ3450ほどではないものの、各車それなりの個性のあるものが多くなりました。しかし流石に、「側窓のサッシ交換をせず原形のままなのに側扉のガラス窓だけ小さい車」というのはいなかったと思います。
昭和46(1971)年からは、正面窓下に掲出していた方向板を取り止め、国鉄でいう助士席側に電照式方向幕を取り付けました。これは危険を伴う方向板の取替作業を廃止し、乗務員室で行先表示を設定・変更できるようにするという合理化の一策でもありました。この時点では、運行番号表示は板のままで、方向幕の下にぶら下げて掲出する方式でしたが、それも昭和52(1977)年から幕に変更されました。
昭和50(1975)年には、列車無線の取付けが行われ、先頭車の屋根上に逆L字型のアンテナが取り付けられました。
その他、田園都市線用編成のみですが、昭和51(1976)年には扉非扱い装置の設置を実施しております。これはホームが短かった九品仏(今もか)・戸越公園・下神明では一部の車両がホームからはみ出してしまうため、ホームからはみ出す車両については扉が開かないようにしたものです。乗客目線で見ると、該当車両の扉の窓ガラス部分に「この車のドアは〇〇駅では開きません」というステッカーが貼ってあったことで、該当車両が扉非扱い装置対応であることが分かるというわけです。
なお、一時期乗務員室の環境改善を意図してのことか、一部の車が先頭車の正面窓の上に通風孔をつけたことがありました(5011・5012)。これはやはり雨水などの侵入の問題があったのか、他車に波及することはなく、当の2両もその後この通風孔は埋められてしまいました。
昭和56(1981)年ころからは、屋根上の雨樋を撤去した車が出現、該当車は扉の上に水切りをつけています。このころ既に5000系の地方私鉄への移籍が活発化していましたので、中には地方私鉄移籍後にそのような工事を施した車もいます。

【5200系の改良】
5200系も改良(更新)が行われています。
最初に手が入れられたのが、登場から14年を経た昭和47(1972)年のこと。
まず5200系の特徴だった送風機を取り外して扇風機を取り付け、あわせて蛍光灯カバーの撤去が行われています。
外装にも大きな変化が現れ、客用扉をオリジナルのコルゲーション付きの大窓のものから、コルゲーション無し・小型の窓ガラスのものに変更されました。
そして外装の最大の変化が、側窓の「つるべ式」を止めて通常のアルミサッシに変更したこと。「つるべ式」のときは窓上段の下部と下段の上部の桟がなく、遠目には大きな一枚窓に見えたものですが、通常のアルミサッシに変更したことで、そのような特徴的な風貌は失われました。
勿論、5000系と同様に、方向板廃止・電照式方向幕取付け、列車無線取付け及び運行番号表示の幕化も行われています。デハ5117を組み込んだ5連化の際には、当然のことながら扉非扱い装置の設置も行われました。
さらにそこから11年経過した昭和58(1983)年には、さらなる変化をもたらす改良メニューが施工されました。
具体的には、前照灯をシールドビーム2灯化する、台枠を更新したことにより側板下部のコルゲーションを撤去、戸袋窓の更新です。前照灯の変更は、当時の国鉄のEF58やクハ103などで行われていたのと同じ方式で、豚の鼻に似た形状から国鉄のものは「ブタ鼻」と呼ばれたものですが、こちらはそのような呼ばれ方はしていなかったようです。

【その他】
5000系の塗装も、登場当時のそれとは異なっているとのこと。
第1編成の登場当初は、目の覚めるような若草色でしたが、この色は褪色が激しく維持するのが大変なため、後に濃い緑色に変更されています。
余談ですが、昭和41(1966)年から3000番代の吊り掛け車も、従来の紺と黄色のツートンを止めて5000系と同じ緑一色(麻雀ではない)になっています。

このように、改良工事を受けながら、姿を少しずつ変えながら活躍を続けてきた「青ガエル」と「湯たんぽ」。
しかし、彼らの中から、地方私鉄へ移籍するものが現れ始めます。
次回以降はそのあたりのお話を。

その8(№6187.)へ続く