その5(№6169.)から続く

今回からは、「青ガエル」たちの転換期を取り上げます。

前回触れたとおり、既に昭和42(1967)年の6連化以降は、東横線における主役の座を7000系に奪われてしまいました。それでも時折急行運用に就くなど、「青ガエル」の華やかな活躍の場はまだ残っていました。

昭和44(1969)年、東横線に東急初の20m4扉の大型車8000系が登場、早速4扉車ならではの収容力と乗降性の良さを発揮します。勿論7000系なども6連、翌年からは一部が8連の大編成を組み、急行や日比谷線直通列車で華やかな活躍を見せていました。
そうなると流石の「青ガエル」5000系も、東横線以外に活躍の場を求めるようになります。
8000系登場の翌年である昭和45(1970)年、「青ガエル」一族のうち、28両(4連×7本)が初めて東横線から田園都市線へ転属、住み慣れた元住吉から鷺沼へ塒を移します。既に田園都市線所属となっていた5200系と合わせると、4連8本の陣容となりました。ただし、田園都市線へ転属した5000系のうち、全てが4連貫通編成かというとそうではなく、貫通編成は5本(McMTMc)。残りの2本は、McMc+McTcの2+2の分割編成でした。
またこの年、5000系が初めて目蒲線での運用に供されたことも記憶しておくべきでしょう。ただし運転区間は目黒-田園調布間のみで、終日ではなく朝ラッシュ時のみという極めて限られたものでしたが、田園都市線用の4連ではなく、登場時と同じMcTMcの3連を組んで運用されました。このころは田園都市線用の18m車4連が、目黒-田園調布間の運用に入っていたものですが、5200系もその運用に入っていたことがあります。5200系が4連だったのに5000系がわざわざ3連を組んで運用されたのは、両者の車体長の違いが理由と思われます。
なお、5200系も含めた「青ガエル」一族は、池上線での営業運転の実績はありません(深夜に試運転で入線したことはある)。これは車両限界の関係とされています。
ちなみに、大井町発着時代の田園都市線といえば、平日朝ラッシュ時に長津田始発の「快速」が運転されていたものですが、5000系列がその運用に就いたことがあるのかは不明です。もしかしたらあったのかもしれませんが(※)。

 

※補足

ひるね様から頂戴したコメントによれば、5000系列が田園都市線の快速運用に就いたことは、何か突発的な事情でもない限り「ない」ということです。理由は、車体側面の種別サボの取付金具の仕様が6000系以前と7000系以降で異なっているところ、田園都市線の快速サボは後者の仕様のものしか用意されていなかったから。

ひるね様、ご教示ありがとうございましたm(__)m

田園都市線の輸送量の伸びは続き、昭和48(1973)年には8000系を4連で投入し、詰め込みと乗降性の改善を図りました。もともと5000系は軽量化の必要から客用扉を両端に寄せていたのですが(そうしないと台車の心皿の位置と干渉してしまいその部分の補強が必要となり、車体重量が増加するから。このことは前回記事のコメントでひるね様がご指摘だった)、それによって客用扉相互間の間隔が伸び、混雑時でも客用扉間の中央部になかなか乗客が入っていかず、そのために収容力に難が生じるという問題が顕在化しました。しかも、これは登場当初からいわれていたことですが、車体構造の関係で裾部が丸まっているため、客用扉の脇に立った場合に足の置き場がなく、これも収容力を削ぐ要因となりました。これらが、混雑が激しくなった田園都市線で、東横線以上にシビアな問題となります。
8000系の投入はその打開策でもあったのですが、その効果も焼け石に水で、結局昭和51(1976)年4月1日、5000系の5連化が実施されることになりました。ただし田園都市線の5000系全編成が5連化されたわけではなく、4連も4本(5200系編成を含めると5本)残存しました。5連の内訳は、McMMc+McTcが4本、McTMc+McMcが2本、McTMTMcが2本、McTMMMcが1本の合計9本となっています。この時点での田園都市線所属の5000系は、5連×9本と4連×4本の61両。勿論、増えた分は東横線からの転属車を迎え入れたもの。他方で東横線に残る5000系は6連7本(McMTMc+McTcが1本、McTMc+McTMcが2本、McMMc+McTMcが1本、McMTMTMcが3本)と休車のT車2両。このころになると、東横線に残った5000系も急行運用に就くことがなくなり、各停運用に専従しています。

ところで。
5000系の一部5連化後も、5200系は4連のまま残されていましたが、やはり編成としての収容力の問題はいかんともしがたく、5000系の一部5連化から3年を経た昭和54(1979)年3月14日から、5連化が実施されます。勿論今更新造車を組み込むわけはなく、5000系の中間電動車・デハ5117を下り方2両目に組み込むことで、5連化が果たされています。
これは言うまでもなく、5000系と5200系の両者が、電機品などメカニックが共通であることから実施できたものですが、編成として見た場合、あまりにも異様、ちぐはぐであることは否めません。何故なら、単なる混色編成であるにとどまらず、車体断面も異なるから。5200系は「く」の字型の直線的な車体構造を持つのが特徴ですが、その中に1両だけ5000系の丸みを帯びた、しかも緑色の車体の中間車を組み込んだものですから、その異様さは際立っていました。
東急の中の人たちも、流石にこれは問題ではないかと考えた節があったようで、いっそのことデハ5117を5200系に合わせて銀色に塗り込めてしまおうかという案も大真面目に検討されたようですが、結局実行されずに終わっています。デハ5117を銀色に塗り込めれば、少なくとも色の面での違和感は解消されていたはずですが、それが実現しなかった理由は、ことによると既にこのころ、東急の中の人たちが5000系列を今後はそう長く使うことはないだろうと考えていたのではないかと思われます。
この年の8月12日、田園都市線では運転系統の変更が実施されました。従来の大井町-二子玉川園-長津田方面での運行を、長津田方面からの列車を全て新玉川線(渋谷方面)へ振り向けるように変更し、あわせて大井町-二子玉川園間について、一部の鷺沼への出入庫便を除いて二子玉川園までの運行に封じ込め、同時に同区間の路線名を「大井町線」と改めています。厳密には「大井町線」への名称変更は以前の路線名の「復活」ですが、ともあれ、この運転系統変更によって、田園都市線の劇的な輸送力増強と都心部へのアクセスの改善が実現しました。
この時点での5000系は、田園都市線改め大井町線用として長津田検車区(この年に鷺沼に代わって開設。鷺沼は営団地下鉄半蔵門線の車両基地となる)に5連×15本の配置となりました。内訳はMcTMTMcが9本、McTMMMcが2本、McMMMMcが2本、McTMc+McMcが2本でした。それでは5200系はというと、何とデハ5117を抜いて4連化され、東横線に転属しています。東横線では下り方にデハ5000の2両(デハ5050+デハ5054)をつないで、6連で運用されました。これだと見た目には2編成併結ですから、デハ5117を中間に組み込んだときのような違和感は軽減されています。

実は田園都市線の運転系統変更が実施される2年前から、「青ガエル」5000系は長野電鉄(長電)への移籍が始まり、東横線ばかりか東急全体でも勢力を縮小し始めます。
そこで次回、時系列が多少前後しますが、5000系の車両としての内外の変化を取り上げ、次々回以降に長電をはじめとする地方私鉄へ移籍した5000系を取り上げることにいたします。

その7(№6181.)へ続く
 

【おことわり】(令和6年5月30日 03:15)
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