その4(№6168.)から続く

今週は、当ブログも「逝っとけダイヤ」発動で、異例の2本アップと参ります。


今回は、5000系列の長編成化の過程を取り上げます。
既に昭和34(1959)年、クハ5150の登場によって「青ガエル」は5連を組むことになりますが、この年で5000系列の製造は終了しているため、以後は既存車両の組替えで長編成化が図られることになります。
したがって、この年以降は長編成化がなされたとしても、勢力の拡大とイコールというわけではなく、むしろ編成数として見た場合には減少しており、逆に勢力の縮小が始まったともいえます。そういう意味では、長編成化の始まりは5000系列のフラッグシップとしての地位に影が差し始めたことをも意味し、同系列にとっては「転換期」ということもできるでしょう。
 
【5連貫通編成の登場】
昭和36(1961)年、東横線の急行列車が全面5連化されました。それにあわせて、5000系も全面的に5連化されることになりました。このとき、以前からある3+2の併結編成だけではなく、5連貫通編成も登場しています。
5連貫通編成はMT比率が統一されていたわけではなく、3M2T(McTMTMc)の編成が2本、4M1T(McMMTMc)の編成が4本存在しました(編成はいずれも右側が渋谷方。以下同じ)。これは5000系の編成構成の自由度の高さを反映したものですが、以前に取り上げたジャンパ栓の関係で、T車が2両連続して組み込まれた編成はありません。
この年の前年、車体長を17.5m(全長18m)、両開き3扉とした6000系が4連で登場、この年までに4連×5本の20両が投入されています。さらに昭和37(1962)年には、日本初のオールステンレスカーである7000系が、やはり4連で投入されました。
これら両系列は当初、各駅停車運用に専従していたため、急行運用は5000系がほぼ独占していました。したがって、この時点では、5000系の東横線での主役としての地位は揺らいでいません。

【6連登場】
昭和39(1964)年になると、渋谷駅改良工事の完成(最近まで見られた『カマボコ屋根』の渋谷駅の完成)に伴い、同年4月1日にダイヤ改正が実施されました。この改正では、6000・7000系を6連化の上急行運用に投入することになり、この時点で5連のままであった5000系は、各停運用に回されることになります。鮮烈なデビューから10年、5000系は東横線における主役としての地位をほしいままにしてきましたが、その地位が危うくなり始めたのが、まさにこのときでした。
この改正の時点で、5000系は5連×21本が在籍、内訳は5連貫通編成が12本、3+2の併結編成が9本となっていました。5連貫通編成のうち、3M2T(McTMTMc)が4本、残り8本が4M1T(McMMTMc×1、McMMTMc×7)。併結編成はMcTMc+McTcが5本、McTMc+McMcが4本となっています。
なお、この改正では、4連しか組むことができなかった5200系が、田園都市線へトレードされています。当時は溝の口以遠が未開業でしたが、開業を見据えて既に昭和38(1963)年の時点で、従来の「大井町線」が田園都市線に改称されていました。溝の口-長津田間の開業は、昭和41(1966)年4月1日のことです。
前置きが長くなりましたが、5000系の6連が登場したのは、昭和42(1967)年のこと。これは5000系を急行運用に復帰させるためではなく、各停の輸送力増強のため。この理由こそ、5000系が東横線の主役の地位から滑り落ちたことを如実に示すものといえます。登場から13年で、5000系は東横線の主役の地位を7000系に譲ることになりました。
5000系の6連は、当初は貫通編成が存在せず、4+2の併結編成のみでした。上記の5連の3+2の併結編成の3連側に中間M車を組み込んだもので、編成数も9編成と同じ。
昭和43(1968)年12月1日の時点では、5000系の6連はその9編成のみでしたが、その後の増結・組成変更により、McTMc+McTMcという3連を2本つないだ編成も登場、さらには中間に先頭車を含まない、6連貫通編成(McMTMTMc)も登場しています。
その後、東横線の5000系は、昭和48(1973)年に全て6連化されました。
なお、一度は急行運用を退いた5000系ですが、6連化されたあとは何度か急行運用に抜擢されることもあったようで、その写真も多く残されています。流石に急行8連化のあとには、5000系が急行運用に就くこともなくなったようですが、昭和47(1972)年ころまでは5000系の急行運用が存在したようです。5000系就役当初の急行の種別板は、白地に赤文字で「急行」と書かれ、さらにその周囲を赤色で囲んだ凝ったデザインでしたが、このころになると、赤字に白文字で「急行」と書かれた単純なものに変更されています。

【幻に終わった「青ガエル」の8連】
昭和45(1970)年4月1日から、一部急行列車の8連化が実施されました。これは勿論輸送力増強のためであり、実際の8連化は7000系などで実施されているのですが、実は5000系も8連化が計画されたことがあります。同時にブレーキをAMC-DEとし長編成化と応答性能の向上が計画されました。
しかし、これらはいずれも実現せずに終わっています。既に昭和44(1969)年には20m級の大型車体をもつ8000系が登場しており、5000系が完全に主役の座を降りたことも、8連化が幻に終わったことに関連しているのでしょう。次回に詳しく触れますが、5000系は昭和45(1970)年に4連×7本の28両が東横線を離れ、田園都市線へトレードされています。それと入れ替わる形で田園都市線にいた7000系が東横線へ移され、それによって7000系の8連化が実施されました。
5000系は3連で登場し、中間電動車の登場で4連化、後に5連→6連へと順次長編成化が図られてきましたが、最長編成は6連で打ち止めとなりました。
歴史に「if」は禁物ですが、もし5000系列に電磁直通ブレーキが標準装備されていたら、長編成化もより容易だったはず。その世界線であれば、「青ガエル」の8連も実現したのだろうかと思います。ただ、5000系は6000系や7000系よりも車体の全長が0.5m長いので、もし8連を組むとなれば編成長は148mとなり、6000系や7000系よりも4m長くなってしまいます。果たしてそれで各駅のホームが対応できたのかという問題も出てきますので、どこまで本気で8連化をやろうとしたのかは、今となっては分かりません。あるいは、東急が5000系の8連化を断念した本当の理由はこちらではないかとすら思えます。

次回は、5000系の田園都市線への転属劇と、その後の活躍の話題を取り上げます。

その6(№6176.)へ続く