その2(№6157.)から続く

今回は「青ガエル」の伸長期ということで、「カエル」たちの増殖の過程と、それに加えて5000系で実行された新しいサービスなどを見ていくことにいたします。

【「カエル」たちの増殖の過程】
昭和29(1954)年に3連2本が登場した「青ガエル」は、同年度の間にさらに3連2本が登場、昭和30(1955)年には3連が3本投入されました。昭和31(1956)年には3連が一挙に8本投入され、この時点で「青ガエル」は3連が15本となりました。
そして輸送力増強に合わせて4連化が計画され、以下のとおり新たな中間車が登場します。
それが5000系初の中間電動車デハ5100。形態としてはサハ5050を電装したような車両ですが、機器構成及びパンタグラフの位置はデハ5000の偶数番号車と同じとされました。したがって、デハ5100のパンタグラフは桜木町寄りに搭載されています。デハ5100はサハ5050とは異なり、編成位置の縛りは全くありません。
現車は昭和32(1957)年に登場し、同年度は一挙に12両が登場、順次既存編成に組み込まれました。翌昭和33(1958)年度にはさらに6両、34(1959)年度には2両が投入され、合計20両が登場しています。
なお、デハ5100のラストナンバーであるデハ5120は、5000系(5200系も含めて)最後の新造車両となりました(5200系に関しては次回に取り上げます)。

デハ5100の登場により、「青ガエル」にも4連が登場しましたが、さらに輸送量の伸びは続き、5連化が計画されました。こちらは中間車の増備ではなく、基本編成の3連に2連を増結する形で5連を組成する方法がとられています。
そこで昭和34年に登場したのが、5000系初の制御車となるクハ5150。
同車は桜木町向き固定の制御車として、昭和34年に5151~5155が5両だけ登場。これとデハ5000がペアを組み、3連の桜木町方に連結されることになりました。
車号は5151~5155の5両。これとペアを組むデハ5000は必ず渋谷方を向くことになりますので、本来であれば奇数車号(5051・5053・5055・5057・5059)になるはずですが、実際にはそのようにはならず、5051~5055と続番とされました。したがって、5051~5055は車号にかかわらず渋谷方向きとされ、実質的に「デハ5000の50番代」ともいえました。そのため、このペアは車号の下2桁が全て揃っています。
なお、この年の増備でデハ5051が出現し、サハ5050のトップナンバーの5051号と車号の重複が生じることになったため、サハ5050は形式を「サハ5350」に改めています(原車号に+300)。
このクハ5150、デハ5000の前頭部からパンタグラフを取り去った風貌のため、何ともユーモラスというか締まらない姿をしていた印象があります(個人的には)。

ともあれ、これら新形式の出現などにより、昭和34年の時点で5000系は105両に達し、兄弟車の5200系を含めて109両となりました。この105両(5200系を含めれば109両)という数が、5000系の最大在籍数となっています。

【5000系で実施された新しいサービス】
5000系使用列車では、それまでにはなかった新たなサービスが実施されることになりました。それが①自動放送と②ラジオ放送。これらはいずれも、5000系が静かな走行音であることを生かして実施されたものです。
まず①の自動放送ですが、当時は現在のような小型の録音媒体は勿論カセットテープすらもなく、オープンリール式という図体の大きなものでしたが、その内容は女性の声による停車駅案内のみならず、沿線の遊園地の宣伝、時には軽音楽を流すことも行われました。このような自動音声によるサービス、早くも戦前には小田急の「週末温泉急行」で「ムーランルージュ新宿座」の看板女優だった明日待子の声を吹き込んだレコード(!)によって沿線案内などを流していたことがありますが、このときは列車の揺れによるレコードプレーヤーの「針飛び」に悩まされたとか。テープはレコードと異なり「針飛び」がないので、それ故に円滑な案内ができるとして期待されました。
しかし、当時としては画期的だった自動放送も、機器のメンテナンスの困難性が仇となり、実施された期間は短かったようです。
結局、東急における電車内での自動放送が本格的に実施されるのは、5000系デビューの32年後、昭和61(1986)年の9000系デビューまで待たなければなりません。
(大手私鉄全体だと、京成が昭和50年代の一時期、当時のワンマンバスと同じようなテープによる自動放送を実施していたことがある)
そして②のラジオ放送ですが、これは昭和33(1958)年12月にラジオ関東(現ラジオ日本)が開局し、同局が朝夕のニュース番組として「ハイ朝刊」「ハイ夕刊」を放送していたのですが、その放送をそのまま走行中の電車が受信、車内で受信して流していたものです。「ハイ朝刊」は7時30分から、「ハイ夕刊」は17時45分からのそれぞれ15分間の放送でした。ニュース番組だけでなく、野球や相撲といったスポーツ中継も放送されていました。
しかし、ラジオ放送も僅か6年後の昭和39(1964)年、乗客から苦情が寄せられたことで打ち切りの憂き目に遭います。勿論、その苦情の内容は、静かに車内で過ごしたいのにラジオ放送をそのまま流されてはかなわないというもの。楽しんでいた乗客も多かったようですが、スポーツ中継の場合は一番聞きたいところで停車駅が近づいて車掌の案内に切り替わったり、下車しなければならなくなったりするという悩みもあったようです。
もっとも、ラジオ放送受信に使われた機器類は無駄にはならず、列車無線へと転用されています。

【その他~5000系を使用したネームドトレイン】
沿線に著名な観光地のない東急のこと、大手私鉄他社のような華やかな有料特急列車には無縁でしたが、それでも5000系デビューのころは、同系使用のネームドトレインがいくつか運転されています。
代表的なのが昭和30年夏の日曜日に運転されていた「さざなみ号」。これは横浜駅で京急の列車に接続する海水浴場へのアクセス列車で、停車駅は渋谷~田園調布間の各駅、あとは横浜までノンストップで走り抜けました。
他には、通常の急行が高島町に臨時停車する「鹿野山号」「勝山号」。これは房総・伊豆大島方面の航路と接続するもの。さらに夏季には途中自由が丘・田園調布のみの停車で、夕刻に渋谷-綱島間を走る納涼急行「綱島号」もありました。
これらのネームドトレインが、5000系の人気と名声を確固たるものとしたことは、勿論言うまでもありません。

次回は、5000系の兄弟車を取り上げます。予告編では5200系しか取り上げていませんが、軌道線用の200形も取り上げておきませんと、画竜点睛を欠くように思われますので。

その4(№6168.)に続く