その1(№6153.)から続く

アップが遅れてしまって申し訳ございません。
今回は、5000系の第一陣となった3連2本について、そのスペックを取り上げます。

① 車体は「張殻構造」を採用して在来車よりも大幅な軽量化を実現。
② 先頭車は正面2枚窓非貫通。
③ 車体色は鮮やかな緑色の単色。
④ 編成はMcTMcの3連、車体長は18m。先頭車はデハ5000、中間付随車はサハ5050。デハ5000は奇数番号が渋谷向き、偶数番号が横浜向き。
⑤ 車体のみならず内装や設備品、電機品に至るまで軽量化に配慮。
⑥ 台車も構造の簡略化などにより軽量化を図る。
⑦ 徹底した軽量化の結果、Mc車では28.05tと大幅な軽量化を実現。
⑧ 駆動方式は直角カルダン方式を採用、吊掛式と訣別。
⑨ 主抵抗器は強制冷却式を採用、その熱風を暖房に転用する方式。
⑩ ブレーキ装置は自動空気ブレーキ(電磁直通ブレーキは採用せず)。

5000系最大の特徴ともいえる「張殻構造」ですが、これは言うまでもなく航空機の機体に範をとったもの(①)。しかし、鉄道車両として製造・運用するためには、航空機のような円筒形に近い断面にするわけにはいかず、少なくとも床面と側面はフラットにすることになり、円筒形にするのは車体の裾部分と肩部分のみとされました。床面をフラットにするのは社内の居住性の確保と床下機器の艤装の必要、側面をフラットにするのは側窓及び客用扉の開閉の必要があるためでした。後年、新幹線500系が円筒形に近い車両断面を採用できたのは、固定窓の採用と定員乗車であることが大きく寄与しています。当時は通勤車両に空調装置を搭載するという発想がなかったので、窓の開閉は是が非でも確保する必要がありました。純然たる通勤車両の冷房車は、5000系登場の14年後、京王初代5000系まで待たなくてはなりません。
このような設計によって車両限界を有効に活用しつつ、居住性も確保しながら車体全体での強度を確保することが可能になったのですが、一方でこの構造は、車体の下部が大きく窄まっているため、扉の脇に立つ乗客の足元スペースが確保できず、ラッシュ時に扉付近での身の置き所がないという欠点ともなりました。
さらに軽量化は骨組部分にも及んでおり、強度上問題のない範囲で鋼材に穴を開けるという徹底した方法を取っています。
勿論この時代には、現代のCADのような、強度計算をコンピューターで行うようなことはできませんから、実際に車体を組み立てて強度試験を行い、そこで荷重が集中する部分を補強するという方法がとられています。
そして軽量化は内装のみならず電機品や台車についても徹底されていて(⑤⑥)、特にこの系列のために開発した「TS-301」なる台車は、溶接の多用によって台車本体の軽量化を図るのみならず、横揺れ枕を省略して大幅な軽量化を実現しています。横揺れ枕の省略は、現在のボルスタレス台車につながる発想ですが、ボルスタレス台車の実用化が昭和56(1981)年(当時の営団地下鉄8000系)ですから、実に四半世紀以上前にこの発想が現れていることには驚かされます。
これら徹底した軽量化の結果、デハ5000の自重は実に28.05t!(⑦)。5000系の前年に登場したデハ3800の自重が約38tですから、実に3割近くの軽量化が実現したことになります。
他方、極限までの軽量化を実現した代償として、後年になって冷房装置が搭載できないという問題が出てきてしまいました。これは言うまでもなく、車体が冷房装置の搭載に耐えられないからですが、このことが、5000系の寿命を縮めることにもなりました。

そして、何といっても5000系の印象を決定づけたのは、正面2枚窓非貫通・流線型の先頭形状と(②)、鮮やかな緑一色の車体色(③)。
恐らく②は当時大流行した「湘南電車」国鉄80系電車の先頭形状に範をとったものと思われますが、80系が横が長い長方形であったのに対し、こちらは縦横とも近い寸法で正方形に近く、精悍な印象のある本家と比べると、愛嬌のある顔立ちになりました。その愛嬌のある顔立ちと、緑一色の車体色。これらはまさに「カエル」の風貌。「青ガエル」のニックネームはここから来ています。

メカニックの面では、所謂「高性能車」としてカルダン駆動を採用、吊掛式との訣別がなされました(⑧)。これは、軽量化のみならず走行音の軽減にも大きく寄与しました。管理人は何度か5000系に乗車したことがありますが、起動・停止時の音がほとんどせず、それこそ「スーッと走り出してスーッと止まる」ものでした。とにかく静か。管理人は半世紀以上生きてきて色々な電車に乗っていますが、5000系ほど走行音が静かな車両を他に知りません。
ただし制御方式は旧来の抵抗制御でしたが、抵抗器の熱を強制的に冷却する方式がとられ、同時に、その廃熱を客室内の暖房に利用することとなりました(⑨)。もっともこれははっきり言えば「失敗」だったようです。というのは、走り出してしばらくしないと車内が温まらないので、走り始めは暖房効果が上がらないこと、また走っている最中には座席の下から熱風が出て熱いという乗客からの苦情があったことなど、車内の温度調節がままならないという問題もありましたが、それよりも大きな問題は、風を送る際の抵抗が大きすぎて、抵抗器が思うように冷えなかったこと。結局この方式は早々に取り止められ、車内の暖房は通常の電熱式に改められています。
ブレーキ方式は自動空気ブレーキのみとされ、電磁直通ブレーキは採用されませんでした(⑩)。これにより運転操作が難しくなるという問題があり、かつ後年の長編成化には桎梏となってしまいました。

その他、構造の簡略化を狙ったためか、あるいはMTMの3連で運用することが前提で長編成化を考慮していなかったためか、ジャンパ栓の関係でT車を2両つなぐことは不可能になっています(McTTMcのような編成が組めない)。もともと5000系はM車単独でも走行でき、ユニットなどの縛りがないので編成構成の自由度は高いのですが、これだけは編成構成上のほぼ唯一の制約となりました。

ともあれ、昭和29(1954)年10月から、「青ガエル」3連2編成は快調に走り始めます。そして翌年には増備車も登場して仲間を増やし、同年7月から復活した急行にも、満を持して導入。「青ガエル」は東急のフラッグシップ、アイコンとしての地位を確立しました。
ただし、その裏には並々ならぬ苦労があったようで、元住吉の車庫には本社の車両課員が翌年3月まで泊まり込んでいたそうですし(現場の協力が得られなかったため)、また数々の不具合が発生、機器の中でパンタグラフと連結器以外はトラブルの元になり、改造・補強・撤去したといわれます。
そのようなトラブルも何だかんだで鎮静化し、今度は輸送力増強のため「青ガエル」のさらなる増備が計画されます。同時に「青ガエル」にも新しい仲間が誕生するのですが、そのお話はまた次回。

その3(№6161.)に続く