今回から全13回(予定)にわたり、「青ガエル」こと東急5000系(初代)を取り上げる連載「The “FROGSHIP”」を開始いたしますので、よろしくお付き合いのほどを。
なお、当連載において東急5000・6000・7000の各系列に言及する際には、いちいち「初代」はつけません。

5000系の登場は、当時の東急車輛製造(現J-TRECこと総合車両製作所。以下『東急車輛』という)の状況が深くかかわっています。
東急車輛は、東急横浜製作所を前身とする鉄道車両メーカーで、「大東急」を構成した東急・京急・小田急・京王の4社が出資し、現在の横浜市金沢区にあった海軍の工廠を譲り受ける形で、戦後に発足しました。発足直後は終戦直後という不安定な世相も相まって多少の混乱もあったものの、昭和20年代半ばの朝鮮戦争特需があったこと、その後次第に世の中が落ち着いてきたことで鉄道車両の受注も増え、旧「大東急」の4社だけではなく、国鉄からも車両の受注が増えていきます。国鉄からはあの「湘南電車」こと80系電車やスハ43系客車、キハ10系気動車などを受注し、東急車輛は鉄道車両メーカーとしての実績を少しずつ積み上げていきました。
しかし、当時の東急車輛はまだ新興メーカーに過ぎず、戦前から稼働している同業他社と比べると、受注実績や技術力などではこれら同業他社の後塵を拝していました。
そこで当時の東急車輛製造の幹部は、なにがしかの技術力を示さなければ同業他社の間に割って入ることはできないと考えるに至ります。
そのような状況下、東急電鉄はある車両の投入を立案します。車両メーカーとしての東急車輛も、新興メーカーとして既存メーカーに割って入るべく、乾坤一擲の大勝負とばかり、この立案に乗ることになりました。

その「ある車両」こそ、「青ガエル」こと5000系。
この車両の最大の特徴は、車体に限らず車両重量を極限まで軽量化したこと。そして在来の車両との混用を一切考えない、全くの新系列として設計されたこと。
当時、昭和20年代後半の時点で、鉄道車輛メーカーと電機品メーカーは、戦時中の沈滞を取り戻すべく新技術の試作と導入に意欲を示していました。
そのひとつが吊掛式からの脱却。
昭和28年には日本初のカルダン駆動を採用した電動車として京阪1700形、営団地下鉄(当時)300形が世に出ていましたが、当然5000系にもカルダン駆動の採用が考えられていました。そして勿論、5000系最大の特徴である「超軽量車体」。これは航空機のボディの構造に範をとり、車体全体で強度を負担する構造を採用したもの(張殻構造)。従来の鉄道車両は、台枠をとにかく頑丈に作って、その上に車体を組み上げる方式でしたから、車体の耐久性は非常に高かった一方、重量が重くなりすぎるきらいがありました。これでは単位重量当たりの出力が小さくなりますが、だからといって吊掛駆動のままでは、電動機を大出力にするとばね下重量が重くなり路盤に与えるダメージも大きくなりますので、従来型の車体構造+吊り掛け駆動方式では、高速化には自ずと限界がありました。そこでカルダン駆動を採用することで、ばね下重量の増加という呪縛から解き放ち、さらに車体を軽量化することで、路盤に与えるダメージを大きくすることなく単位重量当たりの出力を向上させることが可能となります。
さらに、このような「単位重量当たりの出力の向上」は、乗客数あるいは運転上の最高速度が同じであれば、消費電力量は少なく済むので、消費電力量の削減にも寄与することになります。またばね下重量など車両の重量そのものを抑えることで、路盤に与えるダメージも小さくでき、保線などのコストも抑えることができます。
既にこのような車体構造の考え方は、西鉄の313系に端を発し、営団300形などでは部分的に採用されていますが、5000系はそのような考え方をもっと徹底したものとなっています。

5000形の設計思想、今でいうコンセプトについては、当時の東急電鉄の車両部長だった田中勇が東急車輛製造の担当者に言ったとされる「何処のものにも負けない様な超軽量車を作ってくれ。寿命は10年くらいと考えて良い」という発言が、全てを物語っているように思われます。
しかし流石に、当時の東急電鉄の社内では、5000系の開発・投入に懐疑的な見方をする幹部もいたようで、完全なコンセンサスが得られたわけではなかったようです。そのことを示す傍証が、昭和28年に東急がデハ3800を2両だけ投入したこと。この車両は「バス窓」と称される、上部嵌め殺し・下部のみ開閉可能にした側窓を導入するなど、車体の軽量化には一応の配慮を示してはいるものの、車体構造は従来どおりであり、なおかつ駆動方式は旧来の吊掛式と、戦前の技術の延長線上にある車両となっています。一説によると、デハ3800の導入は、5000系の導入がうまくいかなかったときの「保険」としての意味合いもあったとされていますが、それも頷ける話です。
なお、デハ3800は、東急で最後に投入された吊掛駆動の新造車両となっています。
デハ3800の投入の経緯に加えて、当時の東急電鉄の社内の「空気」が何となく読み取れるのが、田中と当時の部下であった白石安之とのやり取りです。白石は、田中に対し「この超軽量電車はあまり画期的過ぎて不明の点も多いので、もう少し在来的な考え方を入れたらどうでしょうか」と進言したのに対し、田中は「脱線や転覆をする電車では困るが、東急車輛が鉄研(国鉄の鉄道技術研究所)の援助を得てやっているのだから、お前があまりとやかく言うな」と返したという話が残っています。以下は管理人の想像ですが、田中以外の幹部から「あの車両は本当に大丈夫か」「あんなものを導入するとは正気か」などという冷ややかな反応が社内にあったのではないか、白石はそれら「懐疑派」の突き上げを食らってこのように田中に進言したのではないかと思われます。
社内でのコンセンサスが得られていない状況は、現車が落成してからも続いていました。当時の車両課員であった金澤秀雄氏の記述によれば「この革新的な車輛新造計画は極秘に進められたため、部内でも、関係者間のコンセンサスがないまま元住吉構内にシートで覆われた姿で搬入されてまいりました」とのことです。

そのような綱渡り的な状況ではあったものの、とにかく5000系は昭和29(1954)年に第一陣の3連が2本落成し、元住吉の車両基地に運び込まれます。
そして5000系は、同年東横線でのデビューを果たし、デビューとほぼ同時に東横線、否東急におけるフラッグシップの座を不動のものとしました。その理由は、従来の車両と全く異なる風貌と、目にも鮮やかなライトグリーン単色のカラーリング。そして従来の車両と全く異なる、世にも静かな走行音。従来の車両とは何から何まで違いすぎる新型車両に、利用者や沿線住民は喝采を送りました。
そして明らかになったのは、東急車輛の技術力の高さ。車両メーカーとしての東急車輛にとっても、5000系の誕生が同社をトップランナーに押し上げる原動力となりました。まさに東急車輛は、乾坤一擲の大勝負に勝ったことになります。

次回は、5000系の構造その他スペックについて詳しく取り上げます。

その2(№6157.)に続く

【おことわり】
・ 文中敬称略。
・ 田中と白石の言動及び金澤の発言については、宮田道一・守谷之男・杉山裕治著「東急5000系と伊豆急100形」(アールエムライブラリー98・34復刻版 ネコ・パブリッシング刊)によりました。