その2(№5412.)から続く

185系は、昭和56(1981)年1月から順次現車が落成し、田町電車区(当時)に搬入されました。
これまでの国鉄の車両にはなかった、白を基調としたカラーリングと、当時としては斬新な緑色の斜めストライプといういでたちは、愛好家や沿線利用者の度肝を抜きました。やはり、現車の登場によるインパクトに敵うものはなかったようです。

そして満を持して急行「伊豆」でデビュー…となるはずでしたが、185系の初営業運用は、昭和55(1980)年度の終わりを間近に控えた昭和56年3月26日。初めて充当された列車は、急行「伊豆」ではなく、何と普通列車。それも153系15連の付属編成のみを置き換えたもの。つまり、基本編成の10連ではなく付属編成の5連が、185系デビューのトップを飾ったことになります。
それにしても、185系の初充当列車が急行型153系との併結運用、それも普通列車とは!
あの183-0ですら、初運用は房総特急「わかしお」「さざなみ」であり、勝浦-安房鴨川間の普通列車運用はその間合いでしたから、いきなり普通列車からのデビュー。これには、当時の鉄道趣味界も驚かされたものです。何とも185系らしいといえば185系らしいといえますし、ある程度の皮肉を込めて見れば、「特急列車にも普通列車にも使用できる汎用型車両」という、同系のコンセプトにこれ以上忠実な初列車もなかったと思います。
急行「伊豆」でのデビューは、その翌々日の同年3月28日。こちらも編成丸ごとではなく、付属編成5連のみを置き換えたものでした。
185系による153系の置き換えは、このあとも順次行われていくことになります。

ここで余談を。
田町所属の185系には、他の特急型車両と同様、ヘッドマークの掲出を行う装置が備えられていますが、急行時代は文字のみで「急行 伊豆」、普通列車は「普通」のみ表示されていました。そして実は落成当初、特急「あまぎ」のイラスト入りヘッドマークも入っていたのです。
しかし185系は、「踊り子」登場以前に特急「あまぎ」で運用されることはなく、「あまぎ」のイラストマークもお蔵入りになってしまいました。後年、リバイバル列車として185系により「あまぎ」が運転されましたが、そのときにこのヘッドマークを掲出したのかは分かりません。
それでは登場当初の185系は、なぜ「あまぎ」への充当がなかったのか?
当時の特急「あまぎ」は、157系を置き換えた183-1000で運転されていました。183-1000といえば、当時の特急「とき」の主力を務めた、完全な特急型車両。内装のグレードも185系より上ですから、特急「あまぎ」と急行「伊豆」が2本立てになっていた当時のこと、183-1000に比べれば、明らかに一歩譲る185系を「あまぎ」に投入することは、営業政策上憚られたのかもしれません。これが、185系が「あまぎ」に充当されなかった理由と思われます。
しかしそれなら、153系置き換えに185系などという中途半端な特急型車両ではなく、完全な特急型車両を投入すべきだったのではないでしょうか。房総で使っていた183-0のリピートオーダーか、リピートオーダーが嫌でなおかつ183-1000がオーバースペックというのであれば、183-1000から耐寒耐雪装備を簡略化した「183-2000」でも投入すればよかったと思うのですが(115-1000の耐寒耐雪装備を簡略化したのが115-2000だが、それと同じ発想で)、それも現在の目から当時を見たものでしょうか。
あるいは、新造車にこだわらないのであれば、153系の使用はもう1年継続して、新幹線開業で余剰となる「とき」用の183-1000を回せばよかったのではないかとも思えます。もっとも、現在とは異なり当時は伊豆への観光客は非常に多く、「あまぎ」「伊豆」とも高い乗車率を維持していましたから(伊豆への列車の乗車率が減少傾向に入るのは平成3(1991)年度以降のこと)、「新幹線開業に伴う転用車」の充当など、考えられないことだったのでしょう。ことによると、153系の老朽化がのっぴきならないレベルまで来ていたのかもしれません。初期の新性能電車は、過度の軽量化などを図った結果、車体の老朽化が想定以上に進行したものですが、田町の153系の場合はそれに加え、小田原-熱海-伊東間と伊豆急行線で相模湾沿いを走るため、塩害によるダメージが相当蓄積されていたという話もあります。田町の153系の老朽化が、他区所の同系のそれよりも酷かったのだとしたら、理由はそれしか考えられません。

話が横道に逸れました。元に戻します。
ともあれ、昭和56年9月までには、185系は所定の両数(115両)が揃えられました。これにより、急行「伊豆」は、基本・付属編成とも185系で統一されています。185系は、153系との併結運用を前提として、153系との併結に必要なジャンパ栓が先頭車に備えられていたものですが、最後に投入された車両では、その先頭車のジャンパ栓が省略されていました(該当車両の車番はクハ185-14・15とクハ185-112・113)。これは当然のことながら、もはや153系との併結運用を考えなくてもよくなったから。勿論、153系の淘汰完了・共通運用の終了に伴って、ジャンパ栓を装備した車両も順次撤去されています。
そして153系の普通列車運用相当分の置き換えとしては、前回述べたように113系2000番代(113-2000)が新造投入され(82両)、同系を置き換えました。

それでは、185系や113-2000に置き換えられて運用を失った153系はどうなったのか。
当時は東京地区の他にも、千葉地区・中京地区・広島地区で同系が残っていましたから、状態のいい車はこれら他地区に転属してそこの状態の悪い車を置き換え、その他は退役、それも退役即廃車となりました。もっとも、200両近い両数の車両が退役するため、一時的とはいえ、退役した車両の留置場所の確保が求められました。実はこれが、153系置き換えの最大の難題と評しても過言ではなく、退役した車両の「置き場所」をどうするかは、当局もかなり頭を悩ませたようです。
そのような次第で、153系の置き換え計画は、185系の新造以前に、退役した車両の「置き場所」の確保から始まりました。これは昭和54(1979)年ころから動き出していたようですが、確保したのは、当時残っていた川崎駅の側線、あるいは東海道線の他の駅の側線など。これで初めて、車両の投入に着手することができました。

そしていよいよ、昭和56(1981)年10月1日をもって、185系は特急「踊り子」として走るようになります。
また、田町の153系を置き換えた後は、新前橋所属で中距離急行に使用されていた165系の置き換えが計画され、これにも185系が投入されます。こちらは、田町に投入された「踊り子」用0番代とは様々な相違点があり、200番代に区分されています。

次回は、特急「踊り子」の事始めを、次々回以降に200番代登場とその経緯などを取り上げます。


その4(№5425.)に続く