その3(№5418.)から続く

 

185系が115両(10連×7、5連×6、予備15両)出揃った昭和56(1981)年10月。
国鉄は満を持して、伊豆方面の優等列車の刷新を実施します。その内容は以下のとおり。

① 優等列車の種別を特急に一本化、愛称は「踊り子」とする。
② 「踊り子」は下り10本・上り11本(定期列車・季節列車合計)。うち3往復(1・2・8・9・17・18号)は183-1000を継続使用。残りは全て185系で運転。
③ 修善寺乗り入れは3往復(全て185系)。
④ 185系は「踊り子」の他、東京-伊東間、東京-沼津間など一部の普通列車にも充当。

昭和44(1969)年以来の特急・急行の並立関係が終わりを告げ、伊豆方面への優等列車は特急に一本化されます(①)。そして特急の愛称名は、それまで親しまれた「あまぎ」でも、急行でなじみ深かった「伊豆」でもなく、一般公募で決定された「踊り子」。これは、伊豆を舞台にした小説、川端康成の名作である「伊豆の踊子」にちなんだネーミングであり、国鉄では勿論、私鉄まで含めても、文学作品から列車名を取った、恐らく初めての事例となっています。もっともこの愛称、当時の一部の愛好家筋には極めて評判が悪く、「国鉄らしくない」「品がない」という批判が、当時の鉄道趣味誌の投書欄をにぎわせたことがありました。管理人は、「国鉄らしくない」はともかく、「品がない」というのは、批判する人の頭の中が文学作品ではなく、別の方向(お察しください)に凝り固まっているのではないかと思いますが。そして勿論、イラストマーク全盛の当時のこと、「伊豆の踊子」の主人公をイメージした女性のイラストが考案され、クハ185の前面を飾ることになります。
ともあれ、これによって従来から親しまれた「あまぎ」「伊豆」の愛称が消えることになりました。
ただし、このときは「踊り子」を全て185系で賄うことができず、3往復には以前「あまぎ」に充当されていた183-1000の運用が存置されました(②)。勿論、国鉄特急カラーを纏ったクハ183-1000の前面にも、185系と同じ「踊り子」のイラストマークが掲出されました。
なお、「あまぎ」時代は「L特急」ではない普通の特急でしたが、「踊り子」は「あまぎ」時代を上回る頻回運転となったことからか、「L特急」の指定を受けています。これにより「踊り子」はL特急として初めて、私鉄に乗り入れる列車となりました。特に修善寺乗り入れの特急は初めてとなり、昭和25(1950)年に準急列車が修善寺乗り入れを始めてから31年後、急行を経て遂に特急へランクアップしたことになります(③)。もっとも、乗り入れ先の伊豆箱根鉄道では線内の特急料金を徴収することも検討されましたが、伊豆急とは異なり路線が短いため、社線内独自の料金の設定は見送られています。
なお、修善寺直通の「踊り子」は全て185系で運転されました。これは、183-1000には5連の付属編成が存在しなかったためです。
その他、185系の売りであった「汎用性」を実際に発揮させようということか、特急「踊り子」だけではなく、数本の普通列車にも充当されました(④)。もっともこちらは、153系時代のようには本数は多くありませんでした。それは、以前言及したとおり、153系の置き換えの一部が、185系ではなく113系で行われたから。185系による普通列車の本数が抑えられたのは、2扉による乗降性の悪さや詰め込みの効かなさが理由ですが(あるいは当局が『上尾事件』の再来を恐れた?)、愛好家筋からは「ケチな国鉄は、特急料金を取れる列車にしか185系を使いたくないのか」などと言われていたという話もあります。
今にして思えば、高い特急料金を支払う乗客と、普通運賃よりも安い通勤・通学定期で乗車する旅客の輸送を両立させるという発想自体に無理があったのではないかと思えなくもなく。やはり153系の普通列車運用と急行運用を完全に分離し、後者には「183-2000」を投入すべきだったのではないかと思われてなりません。

昭和56年10月1日、東京・伊豆急下田両駅を発車する185系「踊り子」は、「伊豆の踊子」の主人公と同じ、当時の踊り子の衣裳に身を包んだ美女たちの華やかなお見送りを受け、華々しく始発駅を出発していきました。

もっとも、いいことばかりではありません。
「踊り子」が特急とされたことで、当然のことながら、急行時代よりは料金が高額になります。この問題は、当時のメディアや鉄道趣味誌でも批判的に取り上げられ、実質的な値上げになるという指摘がなされました。それも無理もない話で、当時の東京-伊東間は運賃1600円、急行「伊豆」であれば普通車自由席には急行券800円、指定席でもさらに指定席料金500円をプラスすれば乗ることができたのに対し、「踊り子」は特急料金が指定席の場合1800円、自由席の場合1300円となり、料金が自由席・指定席とも500円ずつ高くなるからです。勿論、特急化により多少のスピードアップこそあったものの、停車駅は急行時代の「伊豆」とほとんど同じ。しかも車両も、3往復ある183-1000充当列車を除いては、「117系にデッキを付けただけの」185系。
特急料金の問題は、当時の特急料金が全国一律であったことの現れですが、このような「料金の実質的値上げ」のお陰で、せっかく185系に乗ってくれたお客がいても、そのお客がリピーターにならず(恐らく次回以降は新幹線に流れた?)、「踊り子」の乗車率が振るわなくなるという現象が出来しました。
国鉄当局も流石にまずいと思ったのか、「踊り子」運転開始の半年後の昭和57(1982)年4月、「踊り子」に他系統よりも割安な特急料金を設定(B特急料金)、「踊り子」のみならず、房総特急などに適用するようになりました。これにより、特急料金が若干ながら値下げとなり(東京-熱海間の指定席特急料金は1800円→1600円、自由席特急料金は1300円→1100円)、185系による「踊り子」の乗客も戻ってくるようになりましたが、このあたりは「全国一律」を錦の御旗とする国鉄の限界でもあったのではないかと思います。そもそも一口に「特急」といっても、列車ごとに使命も性格も異なり、そのような使命も性格も異なる列車について、一律の料金を設定する合理性は乏しいからです。後年、JR東日本が「スーパービュー踊り子」を走らせた際、特急料金を185系使用のただの「踊り子」よりも高額に設定したのは、まさにそのような「列車ごとに異なる性格や使命」に忠実になった結果ではないかと思われます。もっとも「スーパービュー踊り子」の特急料金を高額に設定したことで、「特急料金」は何に対する対価なのか、スピードに対する対価なのか、はたまた快適性に対する対価なのかという、別の疑問も生じさせましたが。

昭和56年という年は、東北・上越新幹線の開業が見えてきた時期でもあります。しかし、上野-大宮間における建設反対運動が猖獗を極めたことから、この区間の工事が遅れ、上野開業は昭和60(1985)年までずれ込みました。
そこで国鉄は、大宮以遠を開業させてしまうこととし、上野-大宮間は専用の接続列車を運転する形態を立案します。
その「専用の接続列車」にも185系が投入されることになりますが、「踊り子」用の0番代とは様々な相違点がある車両でした。次回以降はそのあたりのお話を。

その5(№5433.)に続く