その2(№4350.)から続く

前回も申し上げましたが、京急では都営地下鉄との直通運転開始を控えた昭和43(1968)年6月、全面ダイヤ改正を行いました。実際の直通運転の開始は6月21日でしたが、ダイヤ改正はそれに先立つ6月15日に行われています。この年の6月15日は土曜日で、現在であれば土休日ダイヤでの改正実施となるところですが、当時は週休二日制ではなかったため、どこの鉄道事業者も土曜日は平日ダイヤで運転されておりました。そのため、このダイヤ改正は平日ダイヤからの実施となっています。
このダイヤ改正のときこそが、現在まで京急で最速の種別として君臨する「快速特急」が登場したときとして、記憶にとどめられるべき瞬間といえます。
現在の快特は平日・土休日問わずほぼ終日にわたって運転されていますが、運転開始当初の「快速特急」は、平日のみの運転とされていました。これは、当時の京急が夏季に海水浴客に対応するための特別ダイヤを採用・実施していたためで、休日ダイヤでは特急よりも停車駅の少ない「海水浴特急」を運転していました。そのため、休日ダイヤにおいては「快速特急」運転の必要と余裕がなかったためです。勿論、特別ダイヤ実施期間の終了とともに、休日においても「快速特急」は運転を開始しています。

「快速特急」登場の経緯は、ダイヤ改正前に10分間隔で運転されていた特急について、2本に1本を地下鉄直通としたため、品川発着のまま存置された列車について、速達性の向上を図って停車駅を減らし、長距離客の便宜を図る…といえば聞こえはいいですが、有り体に言えば「横浜以南からの乗客をできるだけ品川へ引っ張る」という目的があったことでした。ライバルの国鉄横須賀線は、あの「ヨン・サン・トオ」こと全国ダイヤ改正を前に、113系への統一と旧性能車の70系・42系の放逐を間近に控えていたので(あるいは改正前に統一は実現していた?)、「快速特急」は、「横浜以南からの乗客を品川へ引っ張る」ことで、京急の悲願であった「長距離客の増加」を実現させる望みを託した列車でもありました。その目的から、当初の「快速特急」の停車駅は、下に記すとおり、前回取り上げた「週末特急」のそれと大差がないほど絞り込まれたわけです。
ただ、「快速特急」の新設にあたっては、品川-横浜間での1駅のみの停車では乗車率が振るわないのではないかとの懸念が取締役会で示され、その是非が議論されましたが、「横浜以南からの乗客を品川へ引っ張る」ための速達性の必要と、その速達性の実現により横浜以南の分譲地の付加価値を高める要因になり得ることなどが考慮され、結局京浜間の1駅停車が実現しました。

ここでちょっとした余談を。
特急を超える最速種別の設定に関し、京急の社内でも様々な呼称の検討がなされたことは、想像に難くありません。その中で最有力候補として挙がったのは、実は「快速特急」ではなく、何と「超特急」だったと聞いたことがあります。
しかし「超特急」といえば、当時は東海道新幹線ひかり号の代名詞。実際に当時の国鉄では列車種別として「超特急」を使用していました(昭和47(1972)年に種別としては廃止)。あちらは最高時速が当時の世界最速の210km/h。確かに「快速特急」は当時の関東大手私鉄でも最速列車の部類でしたが、こちらは新幹線の半分のスピードしか出ていません。にもかかわらず「超特急」なる呼称がおこがましいと、京急の中の人が考えたのかは分かりませんが、「超特急」のネーミングの構想はいつの間にか立ち消えになり、「快速特急」という名称に落ち着きました。
しかし、もし本当にこのとき「快速特急」ではなく「超特急」という名称がつけられていたら、京急の最速列車は文字通り「路地裏の超特急」になっていたと思うと、何とも勿体ないものがあるような。また600形(Ⅱ)や1000形(Ⅰ)の前面などには「超特急」の種別表示が出たでしょうし、品川駅などで「今度の発車は超特急久里浜行き…」などという放送も聞けたでしょう。見てみたかったし、聞いてみたかった気もします。

閑話休題。
「快速特急」の停車駅は、以下のとおりです。

品川-京浜川崎(京急川崎)-横浜-上大岡-金沢文庫-横須賀中央-京浜久里浜(京急久里浜)-津久井浜-三浦海岸
(京浜久里浜-三浦海岸間は季節延長運転)

現在の快特は堀ノ内にも停車し、堀ノ内以遠の久里浜線内は各駅停車になってしまいましたから、当時の「快速特急」の停車駅の少なさは際立ちます。前回取り上げた「週末特急」の停車駅に上大岡を加えただけですから。もっとも、上大岡が「快速特急」の停車駅になったことは、前述した「横浜以南の分譲地の付加価値を高める」狙いがあったことの、余りにも明白な傍証となっています。

ちなみに、快速特急運転開始時の特急停車駅は、このようなものでした。

品川-平和島-京浜蒲田(京急蒲田)-京浜川崎(京急川崎)-神奈川新町-横浜-上大岡-金沢文庫-金沢八景-追浜-汐入-横須賀中央-横須賀堀内(堀ノ内)-湘南大津(京急大津)-馬堀海岸-浦賀
※ 久里浜線直通列車は横須賀堀内以遠各駅停車

実際には「快速特急」運転開始のダイヤ改正を機に、特急の停車駅にさらに青物横丁が追加されています。これで「快速特急」ではないただの特急が京浜間5駅停車となり、特急とは銘打っていても、大手私鉄他社の急行に値するといえるくらい、停車駅が増加してしまいました。これでは短中距離客の利便性は向上しても、長距離客のそれは今ひとつ、ということになってしまいます。それが故の「快速特急」運転開始でもあり、「快速特急」運転開始によって特急の停車駅が増やせたという面もあったわけですが。

さあ、これで2扉クロスシートの700形(Ⅰ)(→600形(Ⅱ))が停車駅の少ない最優等列車「快速特急」専用車両としてで本領を発揮するか…と思いきや、必ずしもそうはなりませんでした。
その理由は、「快速特急」について、クロスシート車のみの限定運用を組まなかった(組めなかった?)こと。乗客サイドから見れば、快適性は明らかに2扉クロスシート車の方が上ですが、現場サイドから見れば、2扉クロスシート車は混雑時の乗降性に難があり、しかも地下鉄乗り入れができないため、地下鉄乗り入れが可能な1000形(Ⅰ)に比べれば、使い勝手の面では一歩譲るものでした。そのためか、京急の最速種別にしてフラッグシップといえる「快速特急」でありながら、1000形(Ⅰ)が使用される機会が多くなってしまいました。
前回触れた、500形の4扉ロングシート化改造がこのダイヤ改正の実施と相前後する時期に行われたのですが、もしこのとき京急が「『快速特急』は原則として2扉クロスシート車で運転する」ということを宣言・確約していたら、あるいは500形は2扉クロスシートの仕様のまま更新されたのではないか、京浜間の高速運転で吊り掛けサウンドを高らかに響かせたのではないかと、変な方向への想像を巡らせてしまいます。

次回は「快速特急」運用を得た600形(Ⅱ)の冷房改造などの過程を取り上げます。

その4(№4367.)に続く