その1(№4343.)から続く

今回は、京急初の「高性能車」となる700形(Ⅰ)登場の前後の話題を取り上げます。

昭和29(1954)年3月22日、平日にも上下各1本の特急が運転を開始しました。朝のみの運転であり、停車駅は学校裏(現平和島)・京浜川崎(現京急川崎)・京浜鶴見(現京急鶴見・上りのみ)・子安・横浜・上大岡・金沢文庫・金沢八景・追浜(上りのみ)・横須賀汐留(現汐入・上りのみ)・横須賀中央・横須賀堀内(現堀ノ内・上りのみ)浦賀と、上下で変えられていました。このときが、京急において平日に「特急」が運転されるようになった始まりとなっています。「特急」の停車駅は同年7月7日付でさらに改変され、久里浜線への直通運転を開始、京浜蒲田(現京急蒲田)と馬堀海岸が停車駅に追加され、上りのみの停車だった京浜鶴見・追浜・横須賀汐留・横須賀堀内は通過となり、上下で停車駅が揃えられています。
このとき、浦賀からの伊豆大島への航路の連絡列車として、品川→浦賀間で土曜午後に下りのみ運転される特急が登場しました(週末特急)。これは、伊豆大島への1泊旅行のための列車でしたが、当時は週休二日制ではなく土曜日午前中のみ就業という企業が多く(このため、土曜午前中のみで学校や会社が終わることを『半ドン』といった)、このことが、このような列車が土曜午後に運転された理由でした。この週末特急こそ、2年後に「ラメール」「パルラータ」と命名される列車であり、前者は品川12時40分発、後者は品川13時40分発となっていて、停車駅は川崎・横浜・金沢文庫・横須賀中央の4駅のみ、現在の快特よりも少ない停車駅となっていました。
「ラメール」(La Mer)とはフランス語の「海」、「パルラータ」(Parlata)はイタリア語で「語らい」という意味ですが、60年以上も前の列車の名称とは思えない、お洒落な列車名といえます。「ラ・メール」は1943年にリリースされた同名のシャンソン曲(仏歌手シャルル・トレネの代表曲。英語名はBeyond The Sea)がありますので、「元ネタ」は恐らくこれと思われますが、「パルラータ」の元ネタは何だったんでしょうね? 
週末特急「ラメール」「パルラータ」には、前回取り上げた「ハイ特」と決定的に異なる、ある特徴がふたつありました。ひとつは、「ハイ特」が専用の乗車券などを持っていることが乗車の条件にされた座席定員制の列車だったのに対し(後に1乗車50円の座席指定料金を徴収)、こちらは誰でも乗車券・定期券だけで利用できたこと。そしてもうひとつは、「ハイ特」が季節運転あったのに対し、こちらは毎週の土曜日には必ず運転されたこと。そのため、これら列車は行楽客を対象とする列車でありながら、土曜半ドンで家路に就くサラリーマンや通学生にも大いに利用されていました。

ところでこの週末特急ですが、登場当初は500形が使用されたものの、昭和31(1956)年中に新型車両が導入されると、これら両列車は新型車両に置き換えられることになりました。その新型車両こそ、京急初となる「高性能車」700形(Ⅰ)です。

700形(以下『Ⅰ』の呼称は省く)登場の背景は以下のようなことです。
当時、「ハイ特」が隆盛を極め、週末特急運転開始とともに、京急の行楽輸送は充実の一途をたどっていたものの、戦前からの京急の悩みの種であった「主要な利用客層が短距離客であること」は、依然として解消されないままでした。勿論、「ハイ特」を利用するような行楽客(定期外旅客)は品川からの長距離利用が多かったのですが、通勤通学や日常用務などの乗客は短距離利用が多く、しかもその多くが横浜で国鉄(当時)などに乗り換えてしまっていました。また前回触れたとおり、長距離輸送は国鉄横須賀線が殆どを引き受けており、横須賀・逗子-品川間の利用では、京急は国鉄に大きく水を開けられたままでした。
そこで、京急は、そのような状況を打破すべく、終日にわたる特急の運転を計画、あわせて新車投入で大きなインパクトを与えることを意図しました。そのような考慮のもと、設計・投入されたのが700形です。
700形のスペックは以下のとおり。

① 京急では初めて吊り掛け駆動から脱却、平行カルダン駆動を採用。
② 編成はMc-Mcの2連だが、2両を1組とする電動車ユニット方式を初めて採用。
③ 車体は準張殻構造として軽量化。
④ 前面形状は500形と同じ2枚窓非貫通だが、500形とはことなり横幅が大きい長方形の窓になり、窓間が細くなってより洗練された顔立ちに。

⑤ 製造元(発注先)は500形と同様、東急車輌(当時)と川崎車輌(同)に分かれていたが、500形とは異なり形式を分けている。前者を700-750、後者を730-780として区別。台車及び電機品も両者では異なる(一部に例外あり)。
⑥ 2扉セミクロスシートだが、500形よりもクロスシートの数が増加(6ボックス24席/両→10ボックス40席/両)。

700形は昭和31年から33(1958)年までの間に20組40両が投入されましたが、それでは500形はどうなったかというと、ロングシート化その他格下げ改造を受けることなく、セミクロスシートのままで700形に伍して活躍を続けました。700形40両の投入により、京急のクロスシート車は60両に達します。
前後しますが、昭和32(1957)年には、いよいよ特急の終日運転が実施されるようになりました。京急最大のライバルであった、当時の国鉄横須賀線は、70系が主力を占める中で関西からトレードされてきた42系が脇を固めるという車両の陣容でしたが、まだ111系投入には至っておらず(横須賀線に111系が投入されたのは昭和38(1963)年のことであり、全面新性能化はそのさらに5年後だった)、横須賀線は吊り掛け駆動の旧型車ばかりでしたから、「高性能車」でありクロスシート部分の多い700形は、国鉄横須賀線との競争において、十分に切り札となり得る車両でした。ただし、それでは特急に500形や700形を優先的に充当したのかというと、そうではないようで、車両形式による運用の区別は、京急においてはそれほど厳密には行われていませんでした。
一方で、昭和33(1958)年7月7日には、特急の停車駅の見直しが図られ、一度は通過駅とされた追浜・横須賀汐留・横須賀堀内が停車駅として復活(上下とも)、加えて湘南大津を停車駅に追加、久里浜線直通列車は久里浜線内を各駅停車とするなど、停車駅が増加していきました。
そしてこの年、逸見駅の待避設備が完成、最高時速100kmの認可を得て、京急の緩急結合ダイヤが完成を見ました。現在の高速運転・緩急結合のダイヤの原型は、このときにできたものと評して間違いはないでしょう。

700形は、早くも昭和40(1965)年から42(1967)年にかけ、一部車両の運転台の撤去(中間車化)、前面方向幕取付などの工事を施行、あわせて従来型吊り掛け車両の車号を400番代に整理した結果600番代が空いたため、車号を600番代に改番、600形(Ⅱ)となりました。このとき、製造元の違いによる番代の区分は無くされ、全ての車両が601~640の連番となっています。空いた700番代はラッシュ対策用の4扉通勤車に充てられ、現車は昭和42年登場しています(700形Ⅱ)。
ちなみに、500形も4連貫通化などの工事が施されましたが、昭和42~44(1969)年にかけ、台枠から上の車体を作り替え、700形(Ⅱ)と同じような4扉の車体となり、オールロングシートに改造されてしまいました。その一方で、栄華を極めた「ハイ特」は昭和40(1965)年秋季を最後に運転されなくなり、週末特急「ラメール」「パルラータ」も昭和43(1968)年6月8日をもって運転を取りやめました。これは道路事情の悪化などの外的要因もありますが、実はこのころの京急では乗客の伸びが著しく、そのため1000形(Ⅰ)の大量増備やラッシュ対策用として700形(Ⅱ)の投入が行われました。これは、京急における輸送の比重が行楽客<通勤客となった結果でもあるといえます。
 

「ラメール」「パルラータ」運転終了から1週間後、いよいよ京急の最速種別が満を持して登場することになります。

その3(№4357.)に続く

 

【補足(平成30年01月30日付)】

① 本文に一部加筆しました。

② 当初当記事はブログナンバー4349.としていましたが、別の記事をアップしてそちらにブログナンバー4349を振ったことから、こちらのブログナンバーは4350としました。