今回から、京急の「快特」の半世紀にわたる歩みを振り返る連載をアップして参ります。よろしくお付き合いの程、お願い申し上げます。
「快特」こと快速特急が運転を開始したのは、ちょうど今から50年前の昭和43(1968)年のこと。その源流は三浦半島を目指した行楽特急、後の「ハイキング特急」こと「ハイ特」にあるといえますので、本連載では、前史としてその軌跡を初回と次回で取り上げることにいたします。

現在では、京急は「路地裏の超特急」などといわれるように、高速運転・通過運転を積極的に実施している鉄道事業者というイメージが、鉄道趣味界の内外に広く膾炙しています。恐らく、そのようなイメージは、「快特」運転開始以後に培われたものでしょう。というのも、現在の京急本線(品川-横浜-浦賀)がつながり、旧京濱電鉄線と旧湘南電鉄線とが相互直通運転を実施するようになっても、直通の急行列車が運転されるようにはなったものの、さしたるスピードアップは実施されないままで、現在の京急の路線が所謂「大東急」として東京急行電鉄に組み込まれた後も、そのような状況は大きく変わらなかったからです。
そのためか、当時、京急の路線の利用客は短距離利用者がメインであり、長距離を直通して利用する需要は決して多くはありませんでした。当時の長距離客は、国有鉄道の横須賀線を利用する人が多く、長距離客の輸送実績は、国有鉄道に大きく水を開けられていました。

そのような状況が変化する兆しが現れたのが、戦後復興が緒についた昭和24(1949)年。既に、その前年の7月1日の時点で、京急は「大東急」から分離し、新生「京浜急行電鉄」としてスタートを切っていました。この年、品川-浦賀間運転の急行列車が不定期の行楽客対象ではあるものの復活し、現在につながる高速運転の萌芽となります。この不定期急行は、「房総号」「三崎号」「剣崎号」「灯台号」「鷹取号」などの愛称が命名されましたが、スピードは品川-浦賀間が最速101分と戦前の急行よりも鈍足であり、使用車両も420形などの一般車を使用していました。現在の品川-浦賀間の所要時間は日中では堀ノ内乗り換えで1時間を切っており(55~58分)、現在の目で見るといかにも鈍足ぶりは否めませんが、現在のような緩急接続の設備を備えた駅も少なく、戦後復興に取り組む中でこのような列車を運転したことは、大いに評価すべきことと思います。
京急は、戦時中に要塞地帯とされ自由な訪問・散策がままならなかった三浦半島一帯について、終戦によりその指定が取り除かれたため、自由な訪問が可能になったことに目を付け、東京・横浜から近く行楽地に好適だとして、三浦半島の観光開発に着手しました。この不定期急行は、そのような京急の三浦半島観光開発の一環をなすものであり、三浦半島へのハイキング客などの集客のために運転を開始した列車でした。
なお、この前年には旧湘南電鉄の逗子葉山駅を復活させ逗子海岸駅を開設、横浜-逗子海岸間の不定期直通列車が運転されるようになりましたが、この列車は、昭和30~40年代に隆盛を極める「海水浴特急」の始祖となります。

そして昭和25(1950)年、前年に運転を開始した「房総号」などの行楽急行について、学校裏(現平和島)の緩急接続設備が完成したこともあって、思い切って停車駅を整理してスピードアップと所要時間の短縮を図り、列車種別も急行から特急に格上げされました。これが京急における「特急」登場の瞬間です。京急における「特急」の萌芽が行楽客輸送目的のための不定期列車だったというのは、現在の京急を見ると意外な感じもします。 ただし使用車両は420形などの一般車両のままで、その点は行楽目的とは言いながらも、やや物足りなさの残るものではありました。
その物足りなさが払拭されたのは、翌年の昭和26(1951)年のこと。この年、戦後初のクロスシート車として500形が登場したときです。500形は、一般車が片側3扉なのを片側2扉とし、扉間にクロスシート(ボックス席)を配したもので、長距離輸送に重点を置いた座席配置になっていました。もっとも、クロスシートは扉間に片側3ボックス、合計6ボックスの24席しかなく、その後に登場する700形Ⅰ(→600形Ⅱ)より少ない、ささやかなものではありましたが、それでも戦後初のクロスシートは、乗客に好評をもって迎えられました。
登場当初の500形は、Mcを2両背中合わせに連結した2連を組成しており、車体色は現在の京急の赤よりも深みのあるくすんだ赤(ワインレッド?)と窓周りレモンイエローとの塗り分けとなりました。また前面形状は、当時大流行していた国鉄80系「湘南電車」の意匠を取り入れたのか、正面非貫通の2枚窓となっています。しかし、本家の80系が横長の窓を2枚並べ、しかも窓間は狭くなっており、その狭い窓間が、鼻筋を通したように見え、全体として端整な顔立ちを作っていたのに比べると、500形は正方形に近い窓を2枚並べ、しかもその窓には横桟が入り、加えて窓の間の鼻筋が80系に比べ非常に太くなっており、同じ正面2枚窓でも80系のそれとは印象は大きく異なります。また、メカニックは従来どおりの吊り掛け駆動、車体構造も半鋼製で室内もニス塗り、そのためか自重は30t代後半と、軽量化にはあまり配慮されていなかったようです。
この500形の登場で、当然のことながら上記行楽特急にも同形が優先的に使用されるようになり、接客設備の改善が実現しています。同形は、登場当初はMcMcの2連5本というささやかな陣容だったのですが、翌昭和27(1952)年に制御車クハ550を製造、McTcを10本作り、全20両に増加しています。クハ550形は正面の窓の横桟を廃止したため、デハ500よりはやや軽快な外観となりました。ただし、デハ500形の方転はせず、クハ550は奇数車を品川向き、偶数車を浦賀向きとして編成を組みました。何となく、東武の800系と850系の関係にも似ていますが、こちらは形式区分は勿論、番代区分などはしませんでした。

上記行楽特急は、500形投入による接客設備改善のみにとどまらず、停車駅整理による大幅なスピードアップを実現しています。またこれらの列車は、このころから「ハイキング特急」略称「ハイ特」と呼ばれ、本数も下り9本・上り7本となり、特に下りの「城ヶ島号」と「三崎号」は品川-浦賀をノンストップ、65分で結びました(その他の列車は京浜川崎と横浜に停車。京浜川崎は現京急川崎)。この65分という数字、現在の堀ノ内乗り換えの55分にかなり近いものがあります。
ところで、その「品川-浦賀ノンストップ65分」の実現のために、京急はとんでもない「裏技」を駆使しています。それは、急行と普通をまとめて追い抜く「二重待避」と、本来副本線のないはずの駅(黄金町駅)で普通の追い抜きをやっていること。前者の二重待避は、2本の列車をまとめて追い抜くことであり、京急でもかなり後年、快特が普通車2本を金沢文庫駅でまとめて追い抜くということを行っていましたから、運転取扱いの複雑さはともかく、物珍しさはそれほどありません。しかし、後者は流石に驚かされます。このような追い抜きを行った黄金町駅は、相対式ホームであり、上下列車が同じホームで客扱いできる島式ホームではありません。それでは下り普通車は上りホームで例外的に客扱いをしたのかと思いきや、さにあらず。どうも文献を見ると、先行した普通車が黄金町駅下りホームで客扱いを行った後、上り線に転線してこれら列車をやり過ごしていたようで、休日の余裕のあるダイヤとはいえ、よくぞこのような軽業めいた芸当ができたものだと、驚嘆せざるを得ません。

次回は、「週末特急」として運転を開始し、後に「ラメール」「パルラータ」と命名された列車と、京急初の「高性能車」700形(Ⅰ)について取り上げます。

その2(№4350.)へ続く

 

※ その3以下を一部変更いたしますので、悪しからずご了承ください。