東武のスペーシア・りょうもうのリバイバルカラー登場という、どちらかといえば晴れがましいニュースがリリースされたのと同じ日、京急からはこんな寂しいニュースが。

かつての路線延伸計画の終点近くに位置し、多くの観光客を集めた名物水族館が、閉館することになりました。

 

京急油壺マリンパークの閉館について 2021年05月12日


2021年9月30日(木)をもって京急油壺マリンパークを閉館することといたしました。

京急油壺マリンパークは、西に相模湾が広がり、江ノ島、富士山、伊豆半島そして伊豆大島まで一望できる風光明媚な位置に、1968(昭和43)年の京急電鉄創立70周年記念事業として開業しました。開業当時、東洋一といわれた大回遊水槽をはじめ、 魚の生態をいろいろな角度から示し、魚や自然への理解を深め、かつ科学教育の一助に資するという、世界でも例を見ない水族館として運営をしてまいりました。

しかしながら、建物や設備の老朽化が著しく、これ以上の維持管理は困難であると判断し、このたび、閉館することといたしました。なお、動物類については、他の施設と受け入れに関する協議を進める一方で、閉館後も、飼育・施設管理に必要な要員・体制を維持し、すべての動物類の移譲を完了するまで、責任をもって対応してまいります。

開業から53年間、地域の皆さまをはじめ、たくさんのお客さまにご愛顧いただきましたことに、厚く御礼申し上げます。

 

京急公式より)

 

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ここから線路が伸びることはなくなった

 

「京急油壺マリンパーク」の開業が昭和43(1968)年ということは、まだ京急久里浜線が三崎口に達しておらず、油壺延伸計画が現実味をもって語られていた時期です。実際、「京急油壺マリンパーク」の開業は、油壺への延伸開業の機運を高める効果があったとか。

しかし油壺延伸は諸事情によりかなわず、とうとう平成28(2016)年、延伸事業と土地区画整理事業等による大規模宅地開発事業の凍結が決定され、延伸計画は事実上白紙となってしまいました。このときをもって、油壺延伸計画は白紙になったとみていいのでしょう(詳細はwiki『京急久里浜線#路線の延伸計画』をご参照ください)。

 

「京急油壺マリンパーク」の閉館が意味するものは、かつての私鉄が行っていた「沿線(の終点)に集客が見込める娯楽施設などを作って鉄道路線の乗客を増やす」というビジネスモデルが、終焉に至ったということです。既にモータリゼーションの展開により、このような需要拡大策は有効性を失いつつあったものの、それでも西武園ゆうえんち・西武球場(現メットライフドーム)など、一定の成功例があったのは事実です。もしかしたら、油壺という土地自体が、東京や横浜から「中途半端に遠い」ことが裏目に出たのか、あるいはしながわ水族館やすみだ水族館など「エキチカ」あるいは都心部の水族館が出現し、わざわざ油壺まで出かける必要がなくなったこともあるのかもしれません。

「京急油壺マリンパーク」の食堂には、マグロでだしを取った「マグロラーメン」があるそうですから、閉館までには是非とも実食してみたいものだと思います。いつでも食べられるとばかり思っていましたが、やはり何事も、機会あるときに・思い立ったときに実行しないと後悔するもの。今回は何とか叶えたいものですが(´・ω・`)

 

【おことわり】

当記事で使用した写真は、全て以前の記事からの転載です。また投稿日を05/14にしております。

今年は、東武のフラッグシップがDRCこと1720系から「スペーシア」100系に交代してちょうど30年の節目にあたります。同時に、「りょうもう」に200系列が投入されてからも30年となります(厳密にいうと200系投入はその前年からだし、100系もその前年からDRCに代わって入り始めていた)。

というわけで、東武は「100系・200型登場30周年」を記念して、こんなことをするということです。

以下東武大本営発表から↓

 

100系スペーシアと200型りょうもうで 3種類のリバイバルカラー車両を運行します!~第一弾として、6月5日(土)から100系スペーシアをデビュー当時のカラーリングに塗装します!~

 

以下引用開始

東武鉄道(本社:東京都墨田区)では、昨年から今年にかけて100系スペーシア、200型りょうもうがデビューから30年を迎えたことを記念し、スペーシア2種類、りょうもう1種類のリバイバルカラー車両を運行します。第一弾として、スペーシアをデビュー当時のカラーリングに塗装し、2021年6月5日(土)より運行を開始します。
引用ここまで

 

東武鉄道公式より。PDFファイル注意)

 

現在の100系のカラーリングには4種類あります。編成番号とカラーリングの関係は以下のとおり(太字はJR乗り入れ対応編成)。

 

「雅」(紫基調)102・105・107

「粋」(水色基調)101・108・109

「オレンジ」103・104・106

(103・106は『金のスペーシア』こと『日光詣』塗装に変更)

 

100系のうち2編成は、「金のスペーシア」こと「日光詣」として金・黒・オレンジのカラーパターンとなり、他の3つのカラーパターン、否登場当時のそれと比べても、圧倒的な威厳を振りまいております。

 

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しかし内装は「金」ではない

 

この「金のスペーシア」、内装は他の編成と同じなのですよ(^_^;) JR乗り入れ対応の106編成の個室について、室内に金箔を貼っているくらいの違いしかありません。

 

これらのうち、102・105・107~109の5編成が登場時の塗装に塗り替えられる予定といいますから、「雅」全編成と「粋」108・109編成が塗り替えられることになります。

それでは101編成は「粋」のまま残るのかといえば、さにあらず。101編成にについても別のカラーリングになる予定ということですから、「雅」と「粋」は消滅することになりました。

ということは、リニューアル時の3つのカラーパターンのうち、「サニーコーラルオレンジ」だけが残ることになります。

 

まさかこれが残るとは

 

このカラーパターンは「雅」「粋」に比べれば人気がないような気がしますが、これが残るとは思いませんでした。

 

ここで注目されるのは、「登場当時のオリジナルのカラーパターン」を復活させるのはあくまで「第一弾」だということ。

追って、101編成を別のカラーリングにすること、200型もリバイバルカラーにすることが合わせて発表されています。

以下上記のリンクより引用↓

 

今後、100系スペーシア(101編成)については別のリバイバルカラー塗装を実施します。また、200型りょうもうについては2編成(205、209編成)リバイバルカラー塗装を実施します。内容や時期は決定次第お知らせします。

 

この「別のリバイバルカラー」について鉄道趣味界が沸き立っているようですが、これは恐らく先代のDRCカラーでしょう。しかしあのカラーリングは、DRCのごつい車体にこそ似合っているもので、丸っこい100系に似合うのかは疑問がありますが…。

 

そして200型に対するリバイバルカラーといえば、間違いなく1800系の「赤地に白帯」カラーでしょう。流石に1800系登場以前の5700系・5310系のカラーパターンにするとは思えませんし(色使いはDRCと同じだが塗分けパターンが異なる)。…それはそれで、怖いもの見たさで見てみたい気もしますが(^_^;)

 

これが赤地に白帯になる?

 

200系列は100系とは異なり、直線的な流線型でスピード感を強調していますから、赤地に白帯というカラーはそれなりに似合いそうな気がします。

 

さて、このように100系や200系列について「リバイバルカラー」(200系列については『リアルウソ電』だが)が出てくるということは、これら両系列の退役のときが近いのではないかと思ってしまいます。既に東武は数年前に「フラッグシップ特急」の投入をアナウンスしていますし、今年の設備投資計画でも「Revaty」こと500系を6編成増備するそうですから、これが200系列の置き換えをターゲットにしていることは間違いありません。将来的には、近鉄「しまかぜ」や往年の「スーパービュー踊り子」のような「フラッグシップ特急」以外は、全て500系による特急になるものと思われます。もしそうなった暁には、東武の歴史上初めて、日光・鬼怒川と伊勢崎系統で特急用車両の完全共通化が実現することになります。

とにかく、現車の登場を楽しみに待ちたいものです。

 

【おことわり】

当記事で撮影している写真は、全て以前の記事からの転載です。また投稿日を05/13付にしています。

その14(№5499.)から続く

今回は最終回。185系の功罪を検証してみたいと思います。

【功】
・ 30年以上にわたり、関東地区の短距離特急の屋台骨を支え続けたこと
・ (185-200の場合)7連という使いやすい単位であったため運用が組みやすかったこと
・ それまでの国鉄の車両のイメージを破る斬新なカラーリングで、鉄道趣味界のみならず一般社会にもインパクトを与えたこと
【罪】
・ 特急としてはサービスレベルが低かったこと
・ 前項と相まって、183系などとは別の意味で「特急の権威」を地に堕としたこと
・ 特急と普通列車の混用というコンセプトにそもそも無理があったこと

ざっと挙げると、どうしても「功」以上に「罪」が目立ってしまいます。
確かに、30年以上にわたって関東地区の短距離特急の屋台骨を支え続けてきたのは、185系の揺るぎない功績です。勿論、その過程では「なすの」(→おはようとちぎ・ホームタウンとちぎ)や「谷川」(→水上)などが本数削減を経て廃止に追い込まれていますが、これは185系には非はなく、輸送需要の減少という外的要因によるものです。また200番代の場合、編成単位が使いやすく分割併合運用も柔軟に組めるなど、運用に柔軟性が高かったことも「功」のひとつです。それにしてはどういうわけか、「踊り子」では7連+7連の14連が実現することはありませんでしたが。
また、当時としては斬新な塗装も、一般社会に与えたインパクトが大きかったといえ、これも「踊り子」ないし目的地としての伊豆をアピールするもので、185系の「功」にカウントしてよいと思います。もっとも、21世紀、なおかつ185系登場から2度の改元を経た今となっては、あの程度では何のインパクトもありませんが、当時は車体色が用途や電気方式によって厳格に決まっており、それを破った185系はやはり大きなインパクトがありました。

他方、「罪」の面は少なからず出てきますが、恐らく最大のものは、「特急用としてはサービスレベルが低かった」ことと思われます。実際、国鉄の内部でも、急行「伊豆」などに運用されていた153系を置き換えるための車両として設計・開発がスタートした時点では、「伊豆」の特急格上げは毛頭考えていなかったようです。そのためか、設計・開発段階では、185系が「171系」と呼称されていたのは有名な話です。それが何故「特急用」となったかといえば、当時の営業サイドが「新型車両を特急列車として運行してほしい。そうすれば料金収入が増えて増収が図れる」と要望し、当局もそれを是としたからです。
つまり、185系は、183系や485系のような生粋の特急型ではなく、当局の営業上の必要で「特急用」とされたにすぎません。そのためかどうか、故・種村直樹氏は、185系について自著の中で「185系が急行用だったら素晴らしいのに…」と述べています。確かに氏の言うとおり、185系が急行型車両として世に出ていれば、あれほどの酷評はなかったように思いますし、また関東地区以外にも投入されて重用されたかもしれません。そしてそのことと相まって、「特急の権威を地に堕とした」と、鉄道趣味界では非難囂々となりました。
こういうことを言うと、では準急→急行→特急とステップアップしていった157系や名鉄キハ8000系はどうなるのかという反論がありそうですが、両系列ともあくまで登場当初「準急用」としていただけで、車内設備は特急型相当のレベルでしたし(だからこそ157系を東海道新幹線開業前に特急「ひびき」に充当しても、食堂車がないこと以外は乗客からさしたる不満は出なかった)、キハ8000に至っては固定窓で静粛性にも配慮されていましたから。

もっとも、「特急の権威がフンダララー」などと喚いているのは鉄道趣味界くらいで、一般利用者はもっと実利的なところで、185系に不満を抱いていました。それは「急行時代と比べて料金が高くなった」ということ。それも「あまぎ」に使われていたような183-1000であればいざ知らず、183-1000よりも明らかに劣る車両で、同額の特急料金を徴収していたから。
ただし、この問題は、中長距離の都市間特急も短距離観光特急も同じ特急料金を徴収していたという、国鉄の料金制度の杓子定規さ加減に起因するもので、185系には罪はないのですが、そういう議論を巻き起こしたそもそもの原因が185系の出現ですから、やはり「罪」といえるのだろうとは思います。
それよりも管理人が考える一番の「罪」は、特急用と普通用を兼ねられるという、虻蜂取らずの車両を作り上げてしまったことでしょう。これは185系を急行用としてではなく、特急用として世に出してしまったことの結果でもあるのですが、やはり料金を収受する優等列車用の車両と、料金を収受しないばかりか定期券客も乗せる普通列車用の車両を兼ねさせることには、そもそも無理があったように思われてなりません。後年、北海道の781系や房総の183系・E257系などが末端区間を普通列車として運行している事例が出現していますが、あちらはあくまで特急列車区間の余力を生かしたもの。純然たる普通列車に充当される特急型車両は、恐らく185系が初めてだろうと思います。
管理人は、「踊り子」や「新幹線リレー号」に185系を投入するくらいであれば、183-1000から耐寒耐雪装備を簡略化した「183-2000」のような車両を投入すべきだったのではないかと思います。これなら実質的には183-1000のリピートオーダーであり、新造コストはそれほどかからなかったような気がするのですが。もっと言ってしまえば、185系は「生まれてくるべきではなかった車両」であるとすらいえます。

それではなぜ、このような中途半端な車両が世に出てしまったのかといえば、それは当時の国鉄をめぐる状況でしょう。1980年代初頭において、既に急行列車のアコモデーションが時代遅れになりつつあったことは、紛れもない事実です。そのことが国鉄時代末期、非電化ローカル線を走る急行の壊滅に至る一因にもなったわけですが、それではその急行に使用されている車両を置き換えようとすれば、今度は「増収」を図りたいという思惑が生まれます。これは無理もない話で、当時の膨大な債務を考えれば、全く正しいのですが、だからといって何でもかんでも特急にするというのは、やや邪道ではなかったかと思います。いくら急行を特急に格上げして客単価を引き上げたところで、「それによって逸走する乗客」の数が「格上げ後の列車に乗ってくれる乗客」のそれを上回ってしまえば、増収の効果がなくなるからです。あるいはこれも、特急か急行かという列車種別の問題ではなく、同じ「特急」でも列車の使命や性格が異なるのに、その違いを捨象して一律に料金を定めていることの歪みが顕在化したのかもしれません。
結局、185系は、良くも悪くも「特急列車を身近なものにした」183系や485系などとは異なり、全てにおいて中途半端な車両だったという評価をせざるを得ません。そしてその中途半端な性格は、当時の国鉄が置かれていた状況が色濃く反映されたものだろうと思います。そういう意味では、185系は国鉄時代末期の徒花であり、今後このような車両が出てくることはないでしょう。もしかしたら引退間際になって同系の人気が俄かに高まったのは、同系のそのような出自あるいは境遇に対する、愛好家のシンパシーのような感情もあったのではないかと思います。

「功罪」を検証するつもりが、185系の出自や境遇について、言葉とは裏腹にかなり同情的に見てしまったように思います。この辺りは、読者諸兄姉の評価に委ねざるを得ません。
しばらくは臨時列車での活躍が見込まれますが、これも来年まで。最後まで無事故で走り切ってくれることを祈念し、本連載を終えます。
長らくのお付き合い、ありがとうございました。

-完-
 

【おことわりとお詫び】

いただいたコメントは、明日(05/12)以降に順次返信いたしますので、しばらくお待ちください。

 

地元の本屋で見かけて即買い。

東急の懐かしい写真が見られるとあって、ほとんど衝動買いでした。管理人が子供のころの写真がたくさんあって、懐かしさと共に読みました。

 

しかし。

この本には、以前話題になった、ある「写真の取り違え」があります。

それが、以下のツイートのとおり。

 

 

 

そうなんです。

この本は「東急の」本であるにもかかわらず、同名にして異なる駅である、「神戸市営地下鉄の大倉山駅」の写真を載せているのですよ。しかも、「大時計がついたモニュメント」っておい…。大倉山駅は丘陵地の途中にある駅で、改札部分は線路の下にある準高架駅です。ましてこちらの大倉山駅には、「大時計がついたモニュメント」などありません。

 

この話はTwitterでかなり騒がれていましたが、まさかそれから半年後、管理人がこの本を手にすることになろうとはw

 

それと、内容にも誤りがあります。

その誤りとは、デハ3150・3200(初代)をそれぞれ「元池上電気鉄道のモハ200・モハ300形」としていること。デハ3150・3200はいずれも、目黒蒲田電鉄が投入した車両です。

旧池上電気鉄道が導入した車両は、木造国電の払下げ車(これは後のデハ3300などの種車になった)の他で純然たる新車といえば、デハ100形5両とデハ200形3両しかありません。しかもこのデハ100・デハ200は、昭和17(1942)年の「東京急行電鉄」成立後にデハ3250形という形式こそ付与されたものの、同車はデッカー系の制御装置を搭載していたため、旧東横・目蒲系の車両との混用ができませんでした。そのことが仇となり、終戦後の昭和23(1948)年には8両全車が地方私鉄に譲渡されています。

確かに現役時代末期、デハ3150・3200は池上線にほぼ集結していたようですから、その印象が強かったのかもしれませんが、池上電気鉄道が投入した車両であるというのは、明白な誤りです。

 

さらに中延駅の記述についても、「都営浅草線との乗り換えは公道を渡る必要がある」との記述が出てきます。これも間違いではないですが、誤解を招く表現です。確かに「公道を渡る」必要はあるといえばありますが、それは一方通行の、商店街につながる狭い道だから。そして、もし「公道を渡る」というときの「公道」が第二京浜国道(国道1号線)を指すのだとすれば、それは誤りです。確かに駅の構外に出る必要がありますが、第二京浜国道を渡る必要はないからです。

 

大倉山駅の写真の取り違えもそうですが、こういう明白、単純な誤り、あるいは紛らわしい表現を誰も指摘しなかったというのは、どういうことなのでしょうか。ことによると、製本の過程におけるチェックが働かなくなっているのではないかとも思えます。

昨今、「作り手の劣化」が叫ばれることが多くなっていますが、単に「売らんかな」精神による粗製乱造なのか、あるいは本当に作り手の劣化がのっぴきならないところまで来ているのか、それは分かりませんが、後世に残るものを、しかもお金を取って売ろうというのなら、それなりの正確性を持ってもらわないといけません。

 

相互リンク先管理人様のご意見↓

 

 

以前に「鉄道本はどこに向かうべきなのか」を当ブログで論じたことがありますが、この体たらくでは先細りはやむを得ないでしょうな。

それ以前に、こんな本を出していては、宮田道一さんや荻原二郎さんが、草葉の陰で泣きますよ。

 

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というわけで恩田でございます。

冒頭の写真、いつもどおりに恩田駅ホームから工場を望んだものですが、8500系の顔が見えます。これが先日退役した8629Fの下り方先頭車、8529の顔です。既に編成はバラされており、2両が建屋内に運び込まれた他は、2両ずつ分割されて外に留置されているとのことでした(Twitter情報)。

 

それでは改札を出て、全体が俯瞰できる高台へ。

その前に、東急テクノシステムの中庭も見ておきましょう。

 

何もなし

 

中庭には、時折バスなどが留置されていることがあるものですが、今回は何もありませんでした。

 

それでは全体を見ていきましょう。

まずテクノシステムの8506-8606から。

 

小さいが「梶が谷」を出している

 

恩田到着前、電車内から目を凝らして眺めたのですが、黒地(種別表示なし)で「梶が谷」という表示を出していました。

「梶が谷」といえば、大井町-二子玉川園-長津田以遠を「田園都市線」と称していたころには、折り返し駅として機能していたものですが、昭和54(1979)年8月の運転系統変更以降は、梶が谷駅で折り返す電車はなくなってしまいました。それでも折り返し用の「Y線」は残されていて、非常時のバックアップ体制が整えられています。

ところで、今日はテクノシステム側の建屋の扉が珍しく開けられていて、中では5000系列と思しき車両が改造工事を受けているように見えました。もしかして、5080系の相鉄乗り入れ対応改造でしょうか。

 

こちらは編成をバラされた8629Fを望んだもの。

 

手前になぜか5007が

 

5000系の第07編成(5107F)が入場中のようで、長津田寄りには同編成の渋谷寄りの半分(5107-5207-5307-5407-5507)がアントにつながれた状態で留置されていますが、こちらはなぜか1両だけ。後の4両はどこに…と思いますが、恐らく建屋内でしょう。

しかしこのアント+5007の配置、もしかして撮影者除け?

 

こちらはその長津田寄りを眺めたもの。アントの後ろには、5107Fの半分がつながれています。

 

アントには5507がつながれている

 

車両工場の正面に回ると、5107のお顔を拝むことができます。

 

こちらは悲壮感はない

 

以前にここで、退役した8500系の顔を見たときは、どことなく寂しげに見えたものですが、今回の5000系はそんなことはありません。やはり見る側が単なる検査であることを知った上で見ているからでしょうか。

 

これから順次、8629Fの搬出が行われるのでしょう。そしてしばらく間をおいて、次の退役した編成がここに送られるものと思われます。その編成は、果たしてどれなのか。8617Fでないことを願いたいものですが。