-その13(№6354.)から続く-
所謂バブル崩壊と言われた平成4(1992)年ころから、寝台特急は明らかな退潮傾向を見せるようになります。
その翌年には、東京-九州間の寝台特急の全ての列車で食堂車の営業が取り止められました。この年、「のぞみ」が東京-博多間の直通運転を開始しており、新幹線のスピードアップが要因ともいわれました。
この年の12月にはJR東日本管内でダイヤ改正を実施、583系で運転されていた「ゆうづる」及び上野-秋田間を上越線・羽越線経由で結んでいた「出羽」が廃止されます。その他にも急行「八甲田」「津軽」廃止など、JR東日本は夜行列車に大鉈を振るったものですが、これは寝台特急全体で言えば「序章」に過ぎませんでした。
その「序章」を受けて、というわけでもないのでしょうが、翌年、平成6(1994)年12月のダイヤ改正で「みずほ」と博多発着の「あさかぜ」が廃止、東京発着の寝台特急に初めてリストラのメスが入れられました。博多発着の「あさかぜ」といえば「ブルートレイン、寝台特急の始祖」といえる列車で、これが廃止されることには鉄道趣味界でも驚きをもって受け止められましたが、「寝台特急の始祖」という「歴史の看板」だけでは商売にはならないという、冷酷な現実を突きつけられたということです。
また、この改正では同時に、583系で運転されていた「はくつる」を「あさかぜ」廃止で浮いた24系25形を使って置き換えており、「はくつる」が26年ぶりに客車に戻りました。
そしてその3年後、平成9(1997)年には3月のダイヤ改正で「あけぼの」が奥羽線経由から上越線・羽越線経由に変更され(『鳥海』の愛称を『あけぼの』に変更したともいえる)、これは鉄道趣味界では驚きをもって受け止められました。
そしてこの年の11月のダイヤ改正において、「はやぶさ」の熊本以遠と「富士」の大分以遠がそれぞれカットされ、鹿児島・宮崎には達しなくなっています。
このように、退潮傾向が鮮明になってきた寝台特急ですが、JR各社の中には、寝台特急の可能性を信じ、再生に乗り出した会社もあります。
それがJR東海とJR西日本で、両者は「寝台電車」285系「サンライズエクスプレス」を生み出します。「寝台電車」とはいっても昼夜兼行型だった583系とは全く異なり、夜行運用に特化した車両で、寝台は開放型を止め個室として構成、しかも台車間を2階建てとして定員確保にも意を用いています。そして勿論、電車故の機動性と圧倒的なスピード。これは、「北斗星」や「トワイライトエクスプレス」のような「乗ることそのものを楽しむ」というクルーズトレインに近い方向ではなく、「夜遅く出て朝早く現地に着く」という、寝台特急本来の用途に忠実に開発された車両であり、そのために考慮されたダイヤであるといえます。
285系は平成10(1998)年7月から、それぞれ客車で運転されていた「出雲」「瀬戸」を置き換え、「サンライズ出雲」「サンライズ瀬戸」として走り始めました。勿論、個室となった車内の快適性は往年の開放型寝台とは比べ物にならず、「サンライズエクスプレス」の人気は沸騰しています。
もう一つの方向はJR東日本が打ち出した「豪華寝台列車」で、「北斗星」を上回るグレードとして全車をA寝台個室で構成したE26系。この車両は「カシオペア」として上野-札幌間で平成11(1999)年から運転を開始、こちらも絶大な人気を博しました。
しかし残念だったのは、285系使用列車が他に増えなかったことと、「カシオペア」が毎日運転にならなかったこと(E26系は1編成しかなかったため)。285系は、電源車カニ24を連結してディーゼル機関車に牽引させる試運転に供されたことがあり、これは非電化区間又は交流区間にも乗り入れか?と鉄道趣味界が色めき立ったのですが、結局実現しませんでした。
285系やE26系の登場で鉄道趣味界は大いに沸いたものですが、これらの登場は逆に、旧来の寝台列車におけるサービスレベルの低さ、進歩のなさをかえって浮き彫りにしてしまったように思われます。
また、このころから「格安航空券」が登場、時間がかかることさえ厭わなければ寝台特急が長距離移動に最もリーズナブルな選択肢であったことを、完全に過去のものにしてしまいました。さらに主要駅の近辺に安価で宿泊が可能なビジネスホテルが多く立地、寝台特急で寝て行くよりは前日に新幹線か飛行機で現地入りする方が楽ではないかということになり、このようなビジネスホテルの林立も、寝台特急の利用を切り崩してしまいました。
それでも「値段に見合ったサービス」がなされていれば、まだ選択してもらうこともできたのかもしれませんが、一度乗ってしまえば飲食物は調達できず、シャワールームすら一部の列車にしかなく、しかも開放型寝台車では他のお客との仕切りがカーテン1枚だけというのでは、プライバシーは勿論のことセキュリティにすらも難があるといわざるを得ず、安いとは言えない寝台料金に見合ったサービス内容とは言えません。セキュリティの問題はJR東日本では分かっていたのか、「あけぼの」に女性専用車両を設置していましたが、どれほどの効果があったのかは分かりません。
実は「寝台特急」とはいえ、寝台車の基本的なサービスレベルは昭和戦前期の二等・三等寝台のころからほとんど変わっていないと断言しても過言ではないほど、サービスの進歩はありませんでした。かつての長距離列車は、長距離・長時間運転が不可避であり、それ故に「横になって移動できる」寝台車の需要があったのかもしれませんが、これだけ航空網が発達し、かつ鉄道自体も高速化が図られては、そもそも長距離列車というものがなくなり、あっても新幹線になってしまいますので、寝台車が必要なほどの長時間運転にはなりません。そんな状況下では、旧態依然たるサービスレベルの寝台特急が利用者からそっぽを向かれるのも、やむを得ないことです。
285系やE26系の登場にもかかわらず、寝台特急はその後も段階的な縮小が続きます。平成20(2008)年には「なは」「あかつき」が廃止され関西発着の九州方面への列車が全廃、翌平成21(2009)年には東京発着の寝台特急が全廃。
日本海縦貫線を全線走破していた「日本海」も、その3年後の平成24(2012)年に廃止、新幹線開業まで残ると思われた「北陸」も、「日本海」に先んじて平成22(2010)年に廃止されています。
そして平成26(2014)年には「あけぼの」も消え、「北斗星」も平成27(2015)年廃止、これによって残る寝台特急は「サンライズ瀬戸」「サンライズ出雲」のみとなりました。「トワイライトエクスプレス」「カシオペア」はいずれも一般臨時列車としての運転が取り止められ、前者はJR西日本管内のクルーズトレインとして運行された後車両は退役、後者のE26系客車は「カシオペアクルーズ」「カシオペア紀行」としてクルーズトレイン的な運用がなされていましたが、JR東日本の機関車全廃の方針、そして車両そのものの老朽化により、近く退役が見込まれます。
「あさかぜ」への20系充当開始から今年で67年。今にして思うと、「寝台特急」の隆盛は20系と共にあったように思われてなりません。その後は鉄道が長距離輸送の主役ではなくなってしまったことで、「寝台特急」の隆盛にも陰りが生じ、凋落に至ったということなのでしょう。
今後、新たな「寝台特急」が登場することが仮にあったとしても、それは「トワイライトエクスプレス」や「カシオペア」のような、クルーズトレインに近い形態のものにならざるを得ないのではないかと思います。そういう意味ではやはり、「寝台特急」は「昭和に咲き昭和に散った大輪の花」という思いを強くせざるを得ません。
次回は、世界に冠たる座席予約システム、「マルス」の進化を取り上げます。
-その15に続く-
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昨年11月の福岡・長崎ツアーの記事の続きです。
香椎線を訪れた後は折尾駅へ。
実はこの駅には、ちょうど12年前の平成24(2012)年に訪れたことがあります。このころには折尾駅の大改造計画が明らかになっており、その一環として歴史ある旧駅舎が取り壊されることが決定していたため、せめて写真にでも収めたいと訪問した次第。
大改造工事はちょうど、管理人の訪れた昨年に完成したとのこと。
駅前広場には見覚えのある建物が
この建物は旧駅舎を彷彿とさせますが、当時の旧駅舎を移築したものではなく、旧駅舎に似せて新たに建築したもの。つまり「レプリカ」となっています。
目を引くのは、タクシープールの中央にある線路のモニュメント。
こちらは別角度から↓
これは
これは、地平を走っていた筑豊本線の場所を示すものとのこと。
折尾駅はかつての立体交差とは異なり、外房線大網駅などのように、ハの字状に分岐する根元のところに駅設備が集約されていますが、この写真で言うと正面に見える高架が鹿児島本線と筑豊本線(福北ゆたか線)直方方面で、手前が筑豊本線(若松線)若松方面となっています。
線路のモニュメントは、若松方面へ伸びる高架橋と並行しています。
方角で旧線路と分かる
こちらは、鹿児島本線上りホームから若松方面へのホームを望んだもの。
結構離れている
駅構内には、「日本初の立体交差」を謳う案内表示が。
1895年に立体交差駅となった
1895年といえば明治28年、今年が西暦2025年ですから、ちょうど130年ということになります。
そして「線路のモニュメント」は駅構内のコンコースにも。
床下に埋め込まれている
このように、様々な形で「折尾駅の歴史」を残してくれていることは、非常に喜ばしいことです。
このような歴史的な建造物に関しては、そのまま残すかどうかという議論になりますが、やはりバリアフリーなどの現代の要請には応えざるを得ませんので、それに応えようとすれば維持するのは難しいでしょう。それが故に折尾駅の大改造に至ったわけですが、これは已むを得ません。
こちらは若松線運用に就く「DENCHA」ことBEC819系。正面と側面のロゴの2点をノーキャプションで。
香椎線と同じ車両…ですが、それもそのはずで、BEC819系は香椎線・若松線の区別なく運用されているようです。
ただし、初期の車両は若松線での使用を想定していたのに対し、後に増備された300番代車は香椎線での使用を想定して蓄電池の容量をアップしたという変更点があるとのこと。
この車に乗って若松に行こうかと思いましたが思いとどまり、門司港駅のスタバに行くことにしました。
【訪問日 令和6年11月5日】
かねてからリニューアル工事が進められていた、東急田園都市線(旧新玉川線区間)の駒沢大学駅。
4月17日、長津田・恩田の視察の帰りに見て参りました。
駅は照明を変えたようで、雰囲気が変わっています。明るさ一辺倒ではないような。しかし、駅のイメージカラーをあしらったタイルは変わっていません。
改札に通じる階段に近づくほど色の帯が太くなる
再来年(2027年・令和9年)、東急田園都市線の旧新玉川線区間は開業から半世紀を迎えます。
そして壁面にはベンチが。
木質感のある空間となっている
このベンチは本物の木材を使っているのか、あるいは木目の化粧板を貼り付けたものか。地下駅で難燃化基準が厳しいから後者だろう…と思ったら、どうも前者のようです(後記PDFファイルへのリンク参照)。恐らく難燃化加工を施しているのでしょう。
これに対して駅(電車が走る線路側)の壁はブラックアウトされていて、駅名標すらなくなった状態になっていました。
これはこれで新鮮
これには度肝を抜かれましたが、よく考えたら駅名標はホーム側にありますし、ホームドアにもステッカーが貼ってあって車内から見える。そして何より現在では車内のLCDディスプレイにより現在停車中の駅の案内表示が出る。だからここに駅名標がなくても、案内上は全く問題ないわけでして。
そしてこちらが、駅の鴨居部に設置されたデジタルサイネージ。ある意味で今回のリニューアルの目玉ともいえるもので、「RAIL VISION」の名称があります。
これが「RAIL VISION」
そしてこちらの、改札口正面にある大型のディスプレイが「STEPS VISION」
こちらは「STEPS VISION」
これら「RAIL VISION」及び「STEPS VISION」は、駒沢公園口へ通じる通路に設置された「CORRIDOR VISION」とともに、駅構内デジタルサイネージ「GUG PLATFORM」 を構成しているとのこと。
なお、リニューアルを受けているのは駒沢大学駅だけではなく、旧新玉川線区間にある他の地下駅4駅(池尻大橋・三軒茶屋・桜新町・用賀)をリニューアルする計画で、これら一連の計画を「Green UNDER GROUND」と称しています。
「Green UNDER GROUND」の概要は→こちら(PDFファイル注意)
ここでは引用することはしませんので、リンク先をご参照ください。
しかしリンク先の文章、いかにも「意識高い系」のコンサルが好みそうな感じで、旧人類の管理人は頭がクラクラしてきました。
まあ駅が綺麗になることは大いに結構だと思います。
昨年10月から走っていて、長津田検車区の視察時には目にしたことがあるものの、なかなか乗車・撮影の機会がなかった「スヌーピー電車」こと「南町田グランベリーパーク号」。
概要はこちら(東急電鉄大本営より。PDFファイル注意)
先週の長津田検車区視察時、長津田からつくし野まで乗車しました。
まずは渋谷(南栗橋・久喜)方先頭車のご尊顔。
円いヘッドマークが貼られている
車両の側面はご覧のとおり。角度を変えた写真を2点ノーキャプションで。
窓より上に、スヌーピーとチャーリーブラウン、そしてその仲間たちが描かれています。窓下にはラッピングが施されていないようですが、これはホームドアと干渉するためでしょう。
車内もこのとおり↓
壁も中吊りも全てスヌーピーの世界
これは凄い。まさに「乗ったときからそこはスヌーピーの世界」という感じです。
この「南町田グランベリーパーク」号、昨年で町田グランベリーパーク「まちびらき5周年」、及びスヌーピーの登場する漫画「PEANUTS」誕生75周年を迎えたことを記念してのものだそうです。そして季節ごとに内外の装飾が変更されるとのこと。これはファンにはたまらないのではないかと思います。
ただし、座席や床の色など内装には一切変更を加えていないので、一部の観光列車のような落ち着きのなさはありません。このあたりが、日常利用との妥協点なのでしょう。
【取材日 令和7年4月17日】
今回のタイトルの元ネタはとんねるずです。
こちらの記事で「最後を見届けてやる」などと大口を叩いておきながら、タイトルのとおりの情けない結末になりました。
それもこれも、発売日の04/21に本屋に行かなかった(行けなかった)のが悪いのですが、翌日22日の夕方まで身動きがとれず、そのため本屋にも行けず、22日夕方以降、心当たりのある本屋を3件ほど回りました。
結果はいずれも「売り切れ」。
雑誌ですから今更増刷はしないでしょうし、もはやこれまででしょう。
勿論、最終号ということで、管理人のような「お名残り購入」をする人ばかりではなく、投機目的で購入する人たちも少なからず出現したことは容易に想像できます。勿論管理人は、そのような投機目的に屈する気は微塵もありません。
というわけで、極めてマヌケな「購入失敗」の顛末のご報告でした。