-その13(№6590.)から続く-
「呑気に撮りバスの記事なんてアップしてねえで、とっとと連載記事上げろやゴルァ(# ゚Д゚)」というお叱りの声があるかと思いますので、デフォルトである05/01には4日遅れますが、アップいたします。
今回は、JR東日本が動態保存をしていた「ムーミン」ことEF55 1を取り上げます。
なお、予告編では今回のタイトルを「EF55に見る電気車・ディーゼル車の動態保存の限界」としていましたが、変えたのはアメーバブログの仕様により、タイトルの文字数制限があるので、それに対応したためです。
EF55は、当時の流線型ブームにあやかって、昭和11(1936)年に3両だけが製造された電気機関車。同時期にはSL(C53 43、C55 20~40)や電車(モハ52)、気動車(キハ43000)などがあり、まさに日本中、いや世界中を席巻していました。もっとも、メカニックは当時の標準型旅客用機関車だったEF53に倣ったもので目新しさはなかったのですが、高速性能を重視しEF53とは歯数比が変えられていました。
流線型とはいえ、直線を多用し精悍な風貌だったC55、逆に曲線を多用した優美な風貌だったモハ52などとは異なり、正方形に近い3枚窓が並び、先頭部がぷっくりと膨れた流線型は、失礼ながらカッコよさや美しさよりも、何とも言えないユーモラスな雰囲気がありました。そのためか、EF55には鉄道趣味界ではアニメのキャラクター(原作はトーベ・ヤンソンの漫画)になぞらえて「ムーミン」なるあだ名がありました。もっとも「ムーミン」なるあだ名、後述する車籍復活・イベント列車牽引に活躍するようになってからのことで(アニメとしての『ムーミン』のテレビ放映は昭和40年代後半のこと)、戦前戦後の現役時代は「カバ」「ドタ靴」、果ては「靴のお化け」などといった、辛辣かつ身も蓋もないあだ名がつけられていたとのこと。
EF55の特徴は、先頭の片側だけを流線型とし、反対側を切妻としていること。当初計画では双方とも流線型にする案もあったそうですが、そうすると先頭部と客車との間に空洞ができ空力上まずいということで、空洞ができない切妻としたとのこと。そのため、先台車も流線型の側と切妻側で差異があり、前者が2軸、後者が1軸となっています。
しかしこれによって、常に流線型の側を先頭にしなければならないことになりましたが、これは「転車台での方向転換を必要としない」という、電気機関車の運用上の大きなアドバンテージを自ら捨てることでもあり、実際にこのことは、運用上大きな桎梏となってしまいました。さらに見栄えと空力特性の向上のため、床下をスカートで覆いましたが、これが日常の整備点検に大変な手間となり、その点も嫌われる要因となりました。
戦前は東海道本線東京-沼津間で「富士」などの特急列車の牽引に従事するなど、華やかな役回りが与えられていましたが、戦争の激化に伴い特急列車の運転がなくなると、上記の運用上の桎梏はより顕著になりました。
この桎梏のためか、終戦後は東海道本線の優等列車運用に復帰することはなく、ほどなく高崎に転じ、高崎線で旅客列車の牽引にあたりました。既に戦時中、流線型やスカートなどの効果は最高速度が100km/h未満ではたかが知れているとしてスカートが撤去され、登場時の優美な姿は失われていました。
そして遂に、運用及び保守点検の煩雑さから、EF55は1960年代初頭には3両とも運用を外れ、3両の仲間は1両が解体、1両が交直両用機ED30に機器を供出して廃車。車両としては1号機のみが残存、中央鐡道学園で静態保存となりました。さらにその後高崎(高崎第二機関区)に移され、そこで留置されていました。
1号機の運命を変えたのは、昭和60(1985)年に同区で開催された機関車展示会。
このとき、上記機関区有志の手によってEF55 1が構内運転可能なまでに整備され、外板も美しく塗り直されました。これには鉄道趣味界からの大きな反響があり、その反響を知った国鉄当局が、翌昭和61(1986)年に大宮工場で動態復元の工事を行い、同年6月24日に車籍を復活させました。翌年の国鉄民営化・JR発足後はJR東日本に引き継がれ、高崎運転所に配置されています。
したがって、EF55 1はJR発足後ではなく、国鉄時代に車籍が復活していました。
車籍復活後は、上越線高崎-水上間の「EL&SL奥利根号」や「EF55奥利根号」といった、この区間の列車を中心にイベント列車の牽引に従事、絶大な人気を博しました。もっとも、このようなイベント列車の牽引に際しては、EF64 1001を補機として連結する場合が多かったようです。
平成4(1992)年にはATS-Pを搭載、同機の末永い活躍が約束されたように見えました。
EF55 1で特筆されるのは、平成18(2006)年の交通博物館の閉館イベントに駆り出されたこと。
当時の交通博物館は東京都千代田区の旧万世橋駅跡地にありましたが、当時同駅跡付近に残っていた側線を用い、そこにEF55 1を留置して展示しました(同年3月25日から4月3日まで)。都会のど真ん中で、レンガ造りの高架橋の上にたたずむ流線型の機関車は、鉄道趣味界のみならず一般社会でも話題になりました。
その後もEF55 1はイベント列車牽引に従事してきましたが、次第に経年による老朽化、故障の発生が目立つようになります。
同年12月2日、「EF55形誕生70周年記念号」が上野-高崎間で運転されました。翌年には「お座敷ゆとり水上号」の高崎-水上間を牽引予定だったものの、電動空気圧縮機 (CP) の故障により別の機関車(EF60 19)に変更を余儀なくされています。
この故障が尾を引いたのか、その後は目立った運用がなくなりました。
結局、JR東日本はEF55 1を退役させ、静態保存にする方針に変更され、平成21(2009)年1月のさよなら運転を最後に、静態保存されることとなりました。ただし、車籍はこの時点では残存していました。
そして平成27(2015)年、鉄道博物館に収蔵されることが決まり、同年4月から同所で保存展示されています。そして鉄道博物館への収蔵を機に、JR東日本はEF55 1の車籍を抹消、廃車となっています。EF55 1の動態保存機としての稼働期間は、昭和61(1986)年から平成21(2009)年までの23年間ということになりました。
さて。
EF55 1の動態保存が何故、幕引きにならざるを得なかったかですが、それはやはり「予備部品の枯渇」が問題になったからに他なりません。SLであれば、その気になれば部品を一から作ることもできますが、電気車はそうはいきません(不可能ではないが天文学的なコストがかかる場合もある)。勿論、車体と動輪という「ガワ」だけを残して、電動機や制御機器を全て最新のものに差し替えてしまうという荒業も、技術的には不可能ではないですが、それをやってしまうと「テセウスの船」どころではない、全く新しい罐になってしまいます。電気車・内燃車の場合に意味があるのは、「その当時の機器類で動くこと」。「ガワ」が旧型電機なのに、中味はVVVFインバーター制御の最新モードでは、もはや動態保存の意味がなくなるということです。
つまり、電気車・内燃車の動態保存の限界は「予備部品の確保」にあるといって過言ではなく、これらの動態保存には全てこの問題が付きまとうことになります。
次回は、大手私鉄で事例が相次いでいる「電車の動態保存」の現況と、その問題点を取り上げます。
-その15へ続く-



























