メイン機材に入っている写真だけでも、今回アップしようと思います。スマホのメモリの肥やしにしてしまうのは勿体ないので。

 

 

岡山といえば桃太郎像。

このときは駅前広場が工事中だったため、仮設の場所に置かれていました。したがってここは、本来の場所ではありません。

 

岡山といえば宇野自動車。宇野といっても、ここから伸びる宇野線の終点とは関係ないようです。

 

 

茶色を基調としたボディカラーが渋いですね。見ようによっては、チョコレートケーキかコーヒーのケーキのようにも見える。

しかし、なんで宇野自動車の一般路線車って、正面にもリアにもパイロットランプ(という名称でいいの?)があるんでしょうね。昔の「デコトラ」みたいですが。

 

両備バスや岡山電気軌道バスは、いずれも青を基調としたカラーリングなので、茶色系の宇野自動車がこの中に入るとひときわ存在感が増します。

 

こちらは正面口ではない東口で撮影した、空港連絡バス。

 

 

空港連絡バスのカラーはオレンジのようです。

 

こちらは賑やかなスペシャルバージョン。

 

 

こちらは、オリジナルカラーとスペシャルバージョンのタンデム。

 

 

岡山は市街地から空港が遠いため、対東京では新幹線が優位のようです。一応JAL・ANAのダブルトラックとなっていますが、使用機材は大半の便がボーイング737。それでも10往復と、それなりの頻度が確保されています(昨年10月のダイヤ)。

 

岡山といえば路面電車。市電ではなく民間企業(岡山電気軌道)の運営です。

こちらもせっかくなので2点ほど。

 

 

 

かつて3000形(旧東武日光軌道線の車両)が闊歩していたものですが、同形もイベント用に改装されたもの以外はいなくなり、現在は写真のようなオリジナルの車両に代わっています。

 

これだけ撮影して撤収。

岡山駅に戻り、「こだま」で博多を目指します。

実は最近ちょっと腹に据えかねていることがありましてですね…。

 

それはアメーバブログの仕様なんですけど、

 

・アクセス数アップのための案内が頻繁に来るようになった

・よそのアメーバブログを見に行くと、広告がカットインするようになった

 

のが最近の変化。特に広告のカットインは、昨年までは見られませんでした。

 

まあ、でも、アメーバブログの運営元のサイバーエージェント社も、慈善事業をやっているわけじゃない。それは管理人もよく理解しているつもりです。ですから、運営元としても、アメーバブログのユーザー(ブログ管理人)にアクセス数を稼いでもらいたいのも分かります。そして広告のカットインも、そう思えば管理人の理解の範囲内であり、愉快ではないものの、我慢できなくはない。

 

しかし、管理人が本当に腹に据えかねているのはこれ↓

 

 

別に「おまかせ広告」でブログ管理人にいくら入るという告知はいいんですよ。

問題は、「あなたの記事をもっと伸ばせるかもしれません!」なるおためごかし。

 

同じようなのを拡大↓

 

 

一言。

 

うっせぇわ

 

これってタイトルにダメ出ししてるってことだよな?

だから頭にくるんだよ。

 

管理人は別に、アクセス数アップを目的としてブログを運営しているわけではありません。勿論多くの方にご覧いただけるのであれば、それは嬉しいことであり管理人冥利に尽きますが、アクセス数アップのためにあえて刺激的なタイトルをつけたり(夕刊紙じゃないんだから)、過激なことや真偽不明なことをアップしたりはしません。アクセス数はあくまで「結果」、狙いに行くものではないと考えています。

それよりも、管理人は記事のタイトルについて、管理人なりにない頭を絞って一生懸命考えて付けているのですよ。勿論「天から降ってきた」ようにタイトルが決まったり、このテーマはこのタイトルで行こうと決めていることもありますが、多くの場合は記事をアップしながら考えています。時には、記事本文の作成よりタイトルを考える方の時間が長いことすらあります。

にもかかわらず、このように「さらなるアクセス数のUPがきたいできそうです」などと要らぬ口出しをされることは、管理人にとっては不愉快極まりないものがあります。

 

こういう要らぬ(管理人にとっては)サジェスチョンは、出すなとは言いませんから、見たくない人はミュートを可能にする仕様にしてくれませんかね? それともどこかのSNSみたいに「広告見たくなきゃ金払え」になるのかな。

当記事のタイトル、「あえてタイトルなし」にしましたが、その意図はお分かりいただけるものと思います。

 

毒吐き、お目汚し大変失礼いたしました。

 

【おことわり】

当記事は、コメントを投稿できない仕様にしております。よって、他の記事に当記事に関するコメントを投稿されることもご遠慮願います。

また、投稿日を02/05付としております。

その1(№6314.)から続く

地下鉄の次は「列車名」。その発展と変遷を取り上げます。
なお、名前を冠した列車、即ち「ネームドトレイン」は国鉄~JRのみならず私鉄にも出現しますが、今回は国鉄(国有鉄道)~JRのみを取り上げます。

日本で初めてネームドトレインが世に出たのは、昭和4(1929)年のこと。当時の鉄道省が、東京-下関間の2本の特別急行列車の愛称を公募したのが始まりです。
お堅い鉄道省がなぜこんなことをしたかというと、当時「昭和恐慌」と呼ばれる未曽有の大不況で旅行需要が落ち込んでいたため(当時は旅行需要≒鉄道の利用需要だった)、新たな需要の喚起を狙い、宣伝を兼ねて列車に愛称をつけようという発想でした。
公募の結果、2本の列車の愛称に決まったのは「富士」と「櫻」。前者は一・二等車のみで固めた国際連絡列車、後者は三等車のみで編成された大衆的な列車。言うまでもなく、これらの愛称は富士山と桜の花にちなむもの。いずれも日本国を代表する山と花の名前が、特別急行列車に名付けられたことになります。
その後、戦前のネームドトレインには、昭和5(1930)年に「超特急」として名高い特別急行「燕」、さらにその兄弟列車「鷗」が加わり、戦前の最盛期を迎えることになります。

戦争でネームドトレインの歴史は一旦途切れますが、昭和24(1949)年には東京-大阪で特別急行(特急)列車が復活、愛称は戦前のものを掘り起こすのではなく、独自に「へいわ」と名付けられました。これは終戦から4年、戦争に疲弊した国民の平和への願いが体現された列車名といえます。
そして翌年1月、この列車は「つばめ」に改称され、さらにその同じ年、兄弟列車「はと」が誕生。ここに「つばめ」「はと」の揃い踏みが実現、特に「つばめ」はその後、国鉄のフラッグシップ、エースナンバーに君臨することになります。

その後は優等列車の増発と共に列車名が増えていきますが、国鉄時代には、列車の命名に関するある原則がありました。
それは、「特急列車の名前は①鳥、又は②抽象的な事象、③その他スピード感を感じさせるものを命名する」というものです。

具体例
① つばめ、はと、かもめ、はやぶさ、はつかり、白鳥、雷鳥など
② あさかぜ、おおぞら、しおじ、まつかぜなど
③ つばさ、ひかり、こだまなど

上記①ないし③のどれにも当てはまらないのが富士、さくら(櫻)、みずほですが、これらは日本を象徴するものとして、例外的に特急に名付けられたものです。
これに対して急行・準急の場合、地域性を重視した名称が命名されることが多くありました。

旧国名などの地域名…みちのく、しなの、越後、紀州、土佐など
島…桜島、天草、佐渡、利尻など
山…八甲田、のりくら(←乗鞍岳)、立山、さんべ(三瓶=三瓶山)、阿蘇など
川…あがの(←阿賀野川)、あぶくま(←阿武隈川)、富士川、天竜など
花…すずらん、アカシア、ライラック、こまくさなど
名所旧跡…かすが(←春日大社)、高千穂(←高千穂峡)、日南(←日南海岸)など

例外は夜行列車の場合で、「銀河」を筆頭に「明星」「金星」「あかつき」など、星や夜空をイメージする愛称が多くありました。特に東京-大阪間にはそれこそ綺羅星の如く、様々な愛称の夜行列車が走っていましたが、後にこれらは多くが寝台特急の愛称に転用されました。またこれらの原則も、昭和41(1966)年の特急「あずさ」「あさま」の出現で、特急と急行・準急の境目もなし崩しになっていきます(あずさは梓川、あさまは浅間山にそれぞれ由来)。現在は新幹線にすら「あさま」「たにがわ」といった、具体的な山の名前をいただいている事例すら出現していますが。

前後しますが、昭和39(1964)年に東海道新幹線が開業すると、その列車名は速達型が超特急「ひかり」、各駅停車型が特急「こだま」となり、しかも在来線のように1本1本が別の名称となるのではなく、「ひかり」か「こだま」のいずれかに統一されています。しかも号数も下りが奇数、上りは偶数。極めてシステマティックに構成されていますが、実はこれこそが、同一系統の列車は同一愛称でまとめるという「列車群」の発想の原点でもありました。
在来線ではこのころ、優等列車の増加に伴い列車名の「元ネタ」の払底もあり、このような「列車群」の考え方が取り入れられるようになります。それが全面的に採用されたのが「ヨン・サン・トオ」こと昭和43(1968)年10月の全国ダイヤ改正。この改正では、運転区間が似通っていて同一系統とみなせる列車は特急・急行とも同一愛称でまとめるようになりました。ただし特急と急行で異なる点は、特急は昼行と夜行で別愛称にしたのに対し、急行は同一愛称にしたことです。そして号数も「第何××」と「××何号」が混在していて不統一だったものが、「××何号」と統一されました。ただし新幹線のように下り奇数・上り偶数ではなく、上下とも1、2、3号となりました。これが新幹線と同じ方式に統一されるのは、「ヨン・サン・トオ」からさらに10年後、昭和53(1978)年10月の全国ダイヤ改正のときです。
昭和56(1981)年には、東京から伊豆方面へ向かう特急列車が「踊り子」と命名されました。これは言うまでもなく川端康成の名作「伊豆の踊子」が元で、文学作品から列車名を取った初の、そして今のところ唯一の事例となっています。

昭和62(1987)年、国鉄がJRに改組されると、列車名も国鉄時代の原則にとらわれない新たな発想のものが多数出てくるようになります。
その最たるものが昭和63(1988)年に新幹線接続特急として走り始めた「かがやき」「きらめき」。その4年後に東海道新幹線に登場した「のぞみ」もこれらと同様、特急の愛称の①ないし③のどれにも当てはまらない事例となりました。いずれもイメージというか、スピリチュアルな面もある命名となっています。
その他、既存愛称に「スーパー」なる冠をつけ既存列車と差別化を図った事例(スーパーひたち、スーパー雷鳥など)、車両の愛称を副名称として列車名に取り入れた事例(ハイパー有明、ワイドビューひだなど)も出現、甚だしきは車両の愛称そのものが列車名になった事例すら出現しました(オーシャンアロー、ソニックなど)。
これに対し、平成3(1991)年に成田空港アクセス列車として運転を開始した特急「成田エクスプレス」は、これ以上なく分かりやすいド直球の命名。この3年後に関空アクセス列車として登場した「はるか」は、逆にイメージ重視。このあたりの対比も面白いところです。前後しますが、平成4(1992)年に九州で「つばめ」が復活したときには「栄光の列車名の復活!」と、大きな話題となりました。
なお新幹線では、JR発足後しばらくしてから、東海道・山陽新幹線と東北・上越新幹線では列車名の考え方が分かれるようになりました。前者は国鉄時代の原則を踏襲しているのに対し、後者は停車駅にかかわらず行先別で名称を分けるという方向になっています。この傾向が現れたのは平成7(1995)年に「なすの」が登場してからですが、北陸新幹線金沢開業後は行先別を踏襲する一方、東京-金沢間を通す列車を速達型(かがやき)と主要駅停車型(はくたか)に分け、東海道・山陽新幹線との折衷型となっています。

最後に、人名を冠した列車名について。欧州では多数事例がありますが、日本では「シーボルト」「かいおう」など多くありません。

これからの日本の鉄道には、どんなネームドトレインが登場するのでしょうか。列車名も人名と同様、あまり奇を衒ったものより、直球で分かりやすい命名の方が受け入れられやすいのでは…と思うのは、管理人が古い人間だからでしょうか。

 

次回は「動力近代化計画」。その経緯と、その過程での電化・ディーゼル化及びそれらの進化を、次回は総論として、次々回以降は各論として何回かに分けて取り上げます。

-その3に続く-

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冒頭の写真は米原駅東海道新幹線ホームです(以前の記事から転載)。写真に写るのは300系。この写真を撮影した3年後に全車退役してしまいました。

 

米原といえば、東海道方面と北陸方面を分かつ交通の要衝…そんなイメージが、鉄道ファンならずとも持たれている方は多いかと思います。道路交通でも、名神から北陸道が分岐するのが米原ジャンクションですし。

 

さて、以上は話の本題の「まくら」で、本題はこの先。

正月早々鉄道趣味界に衝撃をもたらしたこのニュースを、今更ながら取り上げようと思います。

 

 

上記リンク先から、記事本文を引用します。

以下引用開始

弁当の製造販売などを手掛け、今年で創業171年目を迎えた老舗「井筒屋」(滋賀県米原市)が、2月末で駅弁事業から撤退すると発表した。滋賀の郷土料理を織り込み、冷めてもおいしいと評判だった人気弁当がなくなることに、ファンからは「残念」「悲しい」など惜しむ声が上がっている。
同社は1日、ホームページ上に「駅弁事業からの撤退のご挨拶」と題した文書をアップ。8代目社長である宮川亜古氏の名で、食の工業品化の加速や店舗を構える米原が交通の要衝ではなくなったことなどを理由に挙げ、「手拵(こしら)えの文化も影を潜めつつある」とし、「時代の変遷に振り回されることなく、とるべき道を選び、駅弁事業からは撤退致します」と結んだ。

以上引用終了

 

一次ソースはこちら↓

 

 

現在、駅弁を販売する駅・販売業者とも減少が続いています。その理由の多くは売れ行き不振に伴う経営難ですが、中には名寄駅のように、後継者がいなかったために廃業を余儀なくされた業者もあり、このあたりは中小企業の構造的問題とも思えます。

そして現在駅弁販売業者で生き残っているところは、もはや駅弁販売一本でやっているところは少なく、「シウマイ弁当」で有名な横浜の崎陽軒のように本業が駅弁販売以外でそちらが儲かっているというところを別にすれば、千葉の万葉軒のように仕出しの方で稼いでいる例、「峠の釜めし」のおぎのやのように販売チャンネルの多様化・事業の多角化などで収益を上げている例もあります。さらに名物駅弁を多く販売する業者は、東京や大阪の百貨店で開催される「駅弁大会」などのイベントに出展し、収益と知名度を上げているところも多くあります。

しかし、これらのような同業他社の「企業努力」は、井筒屋から見れば、「食の娯楽化」「食の工業品化」に過ぎなかったということでしょう。それでそのような商売を潔しとすることなく撤退するというのであれば、それはひとつの企業判断として尊重すべきことだと思います。

食堂車がほとんど絶滅危惧種となった昨今、「最強のテツメシ」の座をほしいままにしたはずだった駅弁も凋落の一途。昨今は「車内で食事をすること」が新幹線や特急列車ですらも憚られるような雰囲気になりつつあることもあり、なおさら駅弁の売り上げが上がらなくなっているのかもしれません。そして勿論、所要時間が短縮されたことで車内で過ごす時間が短くなり、車内で食事をとる必要がなくなりつつあることも影響しているでしょう。また米原駅に限って言えば、失礼ながら仕出し事業で収益が上がるだけの人口が周囲にないので(千葉の万葉軒が仕出しで儲かっているのは周囲の人口が多く企業も多数あるから)、なおさら厳しかったのかもしれません。

 

管理人も米原駅に立ち寄ったときは、必ず「近江牛ステーキ弁当」を買い求めていました。それが食べられなくなるのは、残念ですが仕方ありません。

あと1か月の間に、もう一度食べる…というのは無理だろうな。

 

◇関連記事

 

 

 

 

今年2025年は、昭和でいうと100年の節目に当たります。
そこで当ブログでは、「昭和100年」を寿ぎ、今回から27回(予定)に分けて、昭和に始まった鉄道に関するあれこれを取り上げ、歴史的な流れを見ていくという連載「昭和100年ものがたり」をアップします。よろしくお付き合いください。

さて「昭和100年ものがたり」、記念すべき第1回は「地下鉄」。ここでは「地下鉄の路線」として認知されているものだけを取り上げ、普通鉄道の地下区間(総武快速線の東京-錦糸町間、名鉄の名鉄名古屋駅付近、阪急京都線の京都市内区間など)は取り上げません。

我が国における地下鉄は、昭和に改元されてまる1年が経過した、昭和2(1927)年12月30日にスタートしています。最初の路線は、東京地下鐡道によって建設された上野-浅草間。現在の東京メトロ銀座線の一部です。
その6年後、昭和8(1933)年には日本初の公営地下鉄として、大阪市交通局(現大阪メトロ)が梅田-心斎橋間を開業させます。これは現在の大阪メトロ御堂筋線の一部となっています。その2年後の昭和10(1935)年には難波へ達し、これで大阪のキタとミナミが地下鉄で結ばれました。
その後は東京・大阪とも路線を少しずつ伸ばし、昭和14(1939)年には現在の東京メトロ銀座線の全区間が開業、通し運転を行うようになりました(当時は渋谷-新橋間が東京高速鉄道という別会社だった)。
しかし昭和16(1941)年太平洋戦争(大東亜戦争)が始まり、この年、東京の地下鉄を運営する国策法人「帝都高速度交通営団」が設立されました。大阪では開戦後も昭和17(1942)年に現在の四つ橋線の一部である大国町-花園町間を開業させ、東京でも赤坂見附-四ツ谷間の分岐線(現在の東京メトロ丸ノ内線の一部)の工事に着手しますが、戦況の悪化と共に大阪は工事がストップ、東京でも杭を打ち込みお濠の水を抜いた段階でギブアップを余儀なくされました。
なお、国策法人であったはずの「帝都高速度交通営団」は、その後も東京の地下鉄の運営主体として終戦後も存続し、昭和が終わった後も平成16(2004)年、つまり戦後60年目に至るまで「帝都」を冠した厳めしい名称が残っていました。

戦後の地下鉄の発展は目覚ましく、昭和29(1954)年には丸ノ内線の池袋-御茶ノ水間が開業、真っ赤な電車が都民の度肝を抜きました。またその3年後には、東京・大阪に次ぐ地下鉄として名古屋市営地下鉄東山線の一部区間が開業、名古屋が地下鉄都市に名乗りを上げています。こちらは目にも鮮やかなレモンイエローで、こちらもインパクトは抜群でした。
東京では、帝都高速度交通営団の他に東京都も運営主体となって都営地下鉄が発足、昭和35(1960)年には都営1号線(都営浅草線)押上-浅草橋間が開業しました。都営1号線の特色は、郊外私鉄(京成)との相互直通運転を初めて行ったこと。都営1号線は、京成の他京急とも相互直通運転を行うことを前提に建設された路線ですが、都営1号線の建設に先立って、京成が自社の全路線を改軌したことも記憶しておくべきでしょう。これは東京においては、郊外私鉄の都心乗り入れを自社路線建設ではなく地下鉄路線との相互直通運転によって行うべきとの方針が運輸省(当時)から示されたことによるもので、その後の東京における地下鉄路線は、小断面リニア地下鉄として建設された都営大江戸線を除き、全て他社との相互直通運転を前提に建設されています。
これに対して大阪は、大阪市の交通は大阪市が賄うという「市営モンロー主義」が強く、東京のような相互直通運転は盛んにならず、大阪の中心部へは各私鉄が自社路線の建設で乗り入れる形態になりました。京阪が淀屋橋、近鉄が難波まで乗入れを果たしているのは、「市営モンロー主義」の産物とも言えます。その中でも堺筋線だけは阪急京都・千里線との相互直通運転を行っていて、大阪における郊外私鉄の地下鉄乗り入れに関してはほぼ唯一の事例となっています。その他、北大阪急行電鉄や近鉄けいはんな線の例もあるにはありますが、あれらは実質的には地下鉄路線の延長であり、堺筋線とは異なります。
なお、その他の都市で地下鉄と他の鉄道事業者が相互直通運転をしているのは、名古屋、京都と福岡。名古屋は鶴舞線が名鉄豊田新線・同犬山線と、京都は烏山線が近鉄京都線と(東西線は京阪京津線の列車が片乗入れ)、福岡は国鉄(当時)筑肥線と、それぞれ実施しています。仙台は計画があったものの実現しませんでした(南北線が架線方式なのはその名残)。

地下鉄の建設も他都市に拡大し、昭和46(1971)年には三大都市以外では初めて、札幌に地下鉄が開業しました。その翌年には横浜、さらに昭和51(1981)年には神戸、昭和56(1981)年には福岡と京都、昭和62(1987)年には仙台と、地下鉄のある都市は9都市を数えるまでになりました。これらのうち札幌だけは、通常の鉄道と異なるゴムタイヤ式で、地下鉄といっても走行システムはAGT(新交通システム)に近いものになっています。
その間には車両や建設技術なども進歩し、車両の集電方式も、当初は架線方式に比べトンネル断面が小さくできる第三軌条方式が有利とされ、戦前~戦後間もなくの間は主流だったものですが、後に相互直通運転の実施を前提に、トンネル断面の拡大は承知の上で架線方式を採用する路線も増えました。中には名古屋市営地下鉄桜通線のように、鶴舞線と規格を共通化することが車両の保守管理上有利であるとして(車両の検査・修繕などの拠点を集約できるから)、どことも相互直通運転をしていないのに架線式を採用する路線も出現しています。
建設に関しても、当初は道路上から直に掘る開削工法が主流でしたが、道路交通に与える影響や騒音などが問題視されるようになると、地上から掘る部分が少なく済み、地下深く掘り進むのに適したシールド工法が主流になりました。もっとも、東京や大阪のようにいくつも路線があると、後発の路線ほど深くトンネルを掘らざるを得ず、その結果として建設費も高騰し駅も深くならざるを得ないため、そこは後発路線の泣き所でもあります。
さらに走行方式に関しても、地上の電車と同じ方式だけではなく、リニア式も採用されるようになりました。これは小断面の車輪を採用すれば車両の車高を抑えることができ、トンネル断面を小さくできて建設費も安くできるため、大阪の鶴見緑地線(現長堀鶴見緑地線)を皮切りに、都営大江戸線や福岡市営地下鉄七隈線など他都市にも波及しました。この方式では集電方式も架線式が採用されています。ただしこの「小断面リニア地下鉄」、開業後に需要が膨張すると対応しきれなくなる弱点があり、それは都営大江戸線で顕在化しています。

地下鉄の運営主体は、その建設に莫大な費用が掛かることから、事実上公営又は特殊法人に限られてきました。例外は昭和52(1977)年に開業した東急新玉川線(現田園都市線の渋谷-二子玉川間)ですが、その27年後の平成16年、帝都高速度交通営団は民営化され「東京地下鉄株式会社(東京メトロ)」となりました。大阪でも東京メトロ誕生から14年を経た平成30(2018)年、大阪市交通局が民営化され「大阪市高速電気軌道株式会社(Osaka Metro)」となっています。したがって、現時点では名古屋市営地下鉄が公営を維持する最古の地下鉄ということになります。

今後の地下鉄は、自動運転をさらに進めた無人運転(ドライバーレス)、あるいは駅の遠隔監視システムの採用など、さらなる合理化が指向されることになるかと思われますが、新路線の開業、新たな「地下鉄都市」の出現にも期待したいところです。ただしそれには、生産人口の減少が不可避となっている中、建設費をどう調達し償却するかという難問がありますが。
東京地下鐡道の総帥・早川徳次は、娘に「いつかきっと、東京中がクモの巣のように地下鉄で張り巡らされる日が来るだろう」と語っていたそうですが、昭和100年の今年、その予言は現実のものとなっています。

次回は「列車の名前」について。

その2(№6316.)に続く