-その3(№6231.)から続く-

「ひかりは西へ」のキャッチフレーズと共に進められていた、山陽新幹線の建設工事。
国鉄当局は新大阪-博多間の全線同時開業を目指していたようですが、諸事情によりかなわず、とりあえず岡山まで開業させることになりました。
その山陽新幹線岡山開業に伴って実施された、昭和47(1972)年3月15日のダイヤ改正。
このダイヤ改正での変更点は以下のとおり(新幹線接続特急に関するもののみ)。

① 「つばめ」は岡山-博多・熊本間の列車とし、6往復。
② 「はと」は岡山-下関間の列車とし、4往復。
③ 「しおじ」は大阪-広島・下関間3往復を存置。
④ 「月光」1往復を岡山-西鹿児島間の運転に変更(他に岡山-博多の季節列車1往復)。
⑤ 「あかつき」を3往復に増発。初の熊本発着列車が登場。
⑥ 「明星」(新大阪-博多・熊本)を4往復に増発。
⑦ 「彗星」は大分発着の列車を増発、2往復化。
⑧ 岡山-出雲市・益田間で「やくも」運転開始。4往復。
⑨ 大阪-鳥取・倉吉間(播但線経由)で「はまかぜ」運転開始。2往復。
⑩ 「うずしお」は全廃。

変更点の多い改正となっていますが、一番大きかったのは「つばめ」の運転区間変更と大幅な増発でしょう(①)。それまでの名古屋-熊本間の孤高の列車から、岡山-博多・熊本間の運転に改め、「新幹線接続特急」としての使命と性格を明確にしました。この点は「はと」も同様です(②)。ただし「はと」は、改正前の運転区間の両端がカットされ、岡山-下関間の直流電化区間に封じ込められてしまいましたが。
逆に「新幹線接続特急」としての性格を薄くしたのが「しおじ」。この列車は岡山以西では「はと」と同一列車群を形成し、新幹線との接続も考慮されていましたが、大阪・神戸発着の独自の需要にも応える列車になったからです(③)。この改正では、新大阪駅が不便な場所にあること、大阪-岡山間のみでは時間短縮効果が小さいこと、それらの理由により昼行であっても大阪・新大阪発着の列車が相当数存置されました。
夜行特急では変更点が多く、やはり増発がなされていますが(⑤⑥⑦)、このころは熊本・鹿児島発着の寝台特急は、電車の「きりしま」を別にすれば、客車による列車が「あかつき」、電車による列車が「明星」となっていました。これが改められるのはこの改正から3年後、「50.3」ダイヤ改正のときです。
他方、電車寝台特急の始祖「月光」が岡山発着に改められたのは(④)、新幹線の速達効果を最大限に生かそうという目論見があってのことでしょう。
なお、岡山まで新幹線が伸びたことで、そのほとんどが並行する四国連絡特急は全廃されました(⑩)。四国方面へは、岡山-宇野間の快速列車が新幹線と接続する列車体系に改められています。このとき設定された快速列車が、現在の「快速マリンライナー」の源流となっています。

ところで、この改正では、山陽~九州方面以外にも「新幹線接続特急」が誕生しています。その列車こそが、岡山-出雲市・益田間に設定された「やくも」(⑧)。
「やくも」は、前年に運転を開始していた新大阪発着・伯備線経由の「おき」について新大阪-岡山間をカットし、岡山発着の「新幹線接続特急」に改めたもの。従来の新大阪発着・福知山線経由の「やくも」やこの「おき」は新大阪発着であり、新幹線との接続が考慮された列車ではあったものの、純然たる「新幹線接続特急」とは言い難かったものですが、今回の改正で岡山発着に改められたことにより、その性格が明確になりました。
そしてもうひとつは、大阪-鳥取・倉吉間を播但線経由で結ぶ「はまかぜ」(⑨)。
この列車は福知山線経由の「まつかぜ」の補完という役割があり、「つばめ」などのような純然たる「新幹線接続特急」ではありませんが、姫路駅での新幹線との接続が念頭に置かれていたことは事実です。そのためもあるのか、「はまかぜ」は播但線内無停車とされていました。
これらの列車、「やくも」の全列車は勿論のこと、「はまかぜ」についても倉吉発着の1往復は食堂車を連結・営業しており、当時の特急列車には食堂車がマストアイテムであったことがうかがい知れます。それでももう1往復の「はまかぜ」は食堂車を連結しないなど、「食堂車のない特急」は徐々に増えていきますが。

昭和47年という年は、1年のうちに2度の大規模なダイヤ改正が実施された年でもあります。
その2度目のダイヤ改正は、3月15日から半年ほど過ぎた10月2日に行われました。このときの改正は、所謂「日本海縦貫線」の全線電化が完成したことによるものですが、「新幹線接続特急」のラインナップにも動きがありました。
それは、「つばめ」1往復増発(7往復)、「あかつき」1往復増発(4往復)・さらにそのうち3往復に分散電源方式の14系客車を充当というものですが、山陽~九州以外では京都発着の特急として「あさしお」4往復が登場しています。
この列車の面白いところは、京都-城崎(現城崎温泉)間運転の1往復が舞鶴・宮津線(当時)経由とされたことで、舞鶴・宮津・天橋立方面への観光需要も考慮された列車となっていました。この舞鶴・宮津線経由の列車は、綾部・西舞鶴・豊岡で3度方向転換すること、しかもこの列車よりも後に京都を発車した同じ「あさしお」が先に豊岡・城崎に到着するなど、趣味的にも極めて面白い列車でした。
勿論「あさしお」は、京都での新幹線との接続が考慮された列車であることは疑いないのですが、この列車に使用することになった車両は、「白鳥」の電車化で浮いたキハ80系。つまり身も蓋もないことを言ってしまえば、「あさしお」は「白鳥」を485系電車に置き換えたことで浮いたキハ80系を有効活用するために生まれた特急であり、車両需給の都合で生まれた列車とも言えます。とはいえ、利用率の面では、往年の「あすか」のような悲惨なことにはなっていませんので、それは幸いだったのですが。

山陽~九州系統に話を戻すと、「つばめ」「はと」「しおじ」が「数自慢・かっきり発車・自由席」を売りにした「エル特急」に指定され、栄えある第一期生とされました。
その後も「つばめ」「はと」「しおじ」は増発を重ね、栄華を極めるのですが、山陽新幹線が博多に達した時点で、その栄華も終わりを告げることになります。

次回は、山陽新幹線博多開業を機に実施された、「50.3」こと昭和50(1975)年3月10日のダイヤ改正で生まれた、新たな「新幹線接続特急」を取り上げます。

-その5に続く-

その2(№6227.)から続く

管理人の体調不良等により、更新が滞ってしまい申し訳ありません。今週は2本連続のアップと参ります。なお、頂戴したコメントは明日以降に返信いたします。こちらも申し訳ありませんが、しばらくお待ちください。

 

前回言及しなかった事項について一言。

昭和39(1964)年10月のダイヤ改正で、山陽~九州系統以外にも「新幹線接続特急」といえる列車が登場しました。ただし「交通公社の時刻表」昭和39年10月号には時刻の記載がなく、しかも同名の準急列車が存在することからみると、実際の運転開始は昭和40(1965)年10月のダイヤ改正だったのではないかと思われます(Wikiによると『1964年11月から運行開始』とあるが、同じ年の12月25日から運行開始した『雷鳥』『しらさぎ』が記載されていたのに対し、こちらは時刻の記載はない)。
その列車は「やくも」。新大阪-松江間を走る「まつかぜ」の兄弟列車で、本数も1往復とささやかなものですが、この列車が後に「新幹線接続特急」にして「陰陽連絡特急」の雄「やくも」に発展していく源流となります。
他方、昭和40(1965)年から名古屋発着の特急「くろしお」「あすか」が登場し、ダイヤ上は名古屋での新幹線との接続も考慮されていますが、両者とも名古屋発着の独自の需要に応えることが主たる任務の列車と考えられるので、当連載でいう「新幹線接続特急」にはあたらないものと考えます。ただし「あすか」は利用率が低迷し、昭和42(1967)年10月のダイヤ改正で廃止の憂き目に遭います。特急列車の廃止は、戦時中の特殊事情や新幹線開業、あるいは運転系統の建て替えを除けば初の出来事でした。

では本題。
昭和42(1967)年10月のダイヤ改正で、「新幹線接続特急」に、ある画期的な列車が登場します。
その列車とは「月光」。
「月光」は世界初の寝台/座席両用車両の581系を使用し、電車ならではの健脚を生かして新大阪-博多間を走るもの。時刻は以下のとおり。

下り 新大阪2330→博多0920
上り 博多1945→新大阪0545

時刻をご覧いただいてお分かりのとおり、下りは東京2000発の最終「ひかり」を受け、上りは新大阪0600発の朝一番の「ひかり」に接続し東京に0910に到着するというダイヤで、直通の「あさかぜ」などに比べて東京・博多(福岡)での滞在時間を長く取れることが、このダイヤの売りでした。
ただし編成は、食堂車の他は二等寝台(→B寝台)のみでしたが、その二等寝台も、客車のそれに比べて居住性の改善が図られました。客車の二等寝台が幅52cmであるのに対し、581系のそれは上・中段で70cm、下段は一等寝台並みの106cm。三段式の悲しさで、頭上スペースには難があるものの、横幅が拡大されて寝返りを打てるようになったことで、居住性は大幅に向上しています。
このような居住性の改善と、東京・福岡双方からの出発時間を遅くできるというダイヤ構成のメリットと相まって、「月光」は絶大な人気を博します。
なお、この改正では「みどり」が電車化され、新大阪-大分間の運転とされました。「みどり」は「月光」とペアを組む形で581系の運用とされましたが、一等車(→グリーン車)がないことには当時の日本交通公社(現JTBパブリッシング)の時刻表編集部にも「一等車連結のマークをつけ忘れているのでは?」という声が寄せられたという話もあり、困惑する声もあったようです。それでも走り始めてしまえば、二等車(→普通車)がボックス席にせよ往年の「並ロ」並みのゆったりした座り心地で好評を博し、そのような困惑の声も消えていきました。

「月光」が走り始めて1年経過した、「ヨンサントオ」こと昭和43(1968)年10月のダイヤ改正。
この改正では、以下のとおりの変更がありました(山陽~九州系統のみ)。

① 「明星」新設(新大阪-熊本)。583系。
② 「彗星」新設(新大阪-宮崎)。20系。
③ 「あかつき」を1往復増発(新大阪-西鹿児島・佐世保)。20系。
④ 「月光」を1往復増発(新大阪-博多)。ただし季節列車とし毎日運転はしない。583系。
⑤ その他、昼行では「はと」「しおじ」「うずしお」増発。

その他「金星」(名古屋-博多。583系)の新設もありましたが、あれは名古屋地区で「『さくら』など東京発着の寝台特急のチケットが取れない」という利用者の声が寄せられていたことから、名古屋地区のお客を対象に設定した列車なので、「新幹線接続特急」とは異なる列車と思われます。
また山陽系統以外では「しなの」(名古屋-長野)、「ひだ」(名古屋-金沢。高山本線経由)も登場しましたが、これらは名古屋発着の独自の需要に応える列車であるという性格が強いと思われるので、当連載でいう「新幹線接続特急」にはあたらないものと考えます。

ともあれ、「ヨンサントオ」で、夜の「新幹線接続特急」は大いに充実しました。特に大分・宮崎方面(②)、佐世保方面(③)へのチャンネルができたことは大きく、こちらも直通列車の利用よりも所要時間短縮に寄与しています。
特に583系(581系を交流50Hzにも対応させた改良仕様)を使用した夜行特急は、改正前の1往復から3往復に増え(『金星』を除く)、こちらも勢力を拡大しています。

なお、581・583系に一等車がない問題ですが、これはこの改正までに同系の編成に一等車サロ581が組み込まれ、解消されています。
しかしこの車両、形式名でお分かりのように「ネ」がない、つまり寝台仕様ではない純然たる座席車なのですが、これは、一等車のリクライニングシートを寝台に転換するという機構が完成せず(アイデアはまとまっていたようだがモックアップなどが作られた形跡はない)、止む無く座席車の仕様にしたということです。車内には他の特急用一等車と同じリクライニングシートが展開していましたが、寝台車と合わせた車体断面のため天井が非常に高く、そのため客室の雰囲気には独特のものがありました。一等車の寝台と座席の転換が諦められてしまったのは、製造・維持のコストの問題と、仮に作り上げることができたとしても二等寝台との格差をつけにくかったことで営業上不利なことが危惧された問題があったのではないかと思います。後年、国鉄最末期にサロネ581が作られたときは、昼行でのグリーン車としての運用を半ば放棄していたものと思われます。それでも格差は寝台幅と頭上高さくらいのものでしたが。

次回は山陽~九州系統以外にも本格的な「新幹線接続特急」が整備される、昭和47(1972)年3月のダイヤ改正を見ていきます。

その4(№6232.)に続く

 

国道357号線(R357)沿いに新建屋の建設が進められている都営バス臨海車庫ですが…。

 

確かに現在の建屋は老朽化している(ように見える)。

 

 

姿を現し始めた新建屋↓

 

 

その奥にはもうひとつの建物が姿を現し始めました↓

 

 

これが新たな検修棟になるんでしょうか。

 

今回のおまけ。

新旧エルガのタンデム駐車。

 

 

今後は旧型エルガ(前の車)は数を減らします。

 

なお、L代の車の存在は確認できませんでした。

今年3月23日から稼働が開始し、日比谷線の駅としては最後にホームドアが稼働するようになった南千住駅。

去る8月12日、その様子を見て参りました。

 

ホームドアの筐体が据え付けられた

 

南千住駅は相対式ホームで、幅が必ずしも広いわけではないのですが、意外なほどホームドアによる圧迫感や閉塞感を感じることはありませんでした。これは恐らく、同駅が地上駅(高架駅)であることも大きいのでしょう。

 

かつてホームドアが設置される前に管理人が撮影していた「謎の筐体」、ホームドアとは離れた場所にありました。1枚目は中目黒方面、2枚目は北千住方面のホームを撮影したものですが、あえてノーキャプションとします。

 

 

 

この「謎の筐体」、どうやらホームドアの配電盤のようです。

 

ホームドアと一緒に車両を撮影したかったのですが、この駅でAB線双方の列車が並んでしまうようで、正面をばっちり決めるのは困難でした。

 

どうしてもこうなる

 

以前に撮影したときのように、中目黒寄りの方がよかったか?

 

カツカツなのでこんなのしか↓

 

13000系

 

13000系は44編成ありますが、3000系や03系のような製造年次による仕様差がない(搭載機器などではあるらしいが、乗っている・撮っているだけでは分からない)ので、趣味的には面白い車両ではありません。いい車両であることは確かですが。

 

車両規格変更の完了から4年後、全駅でのホームドア稼働。

これで完全に、日比谷線が新しいステージに進んだことになります。

 

最後におまけ。「THライナー」送り込み編成。

 

轟沈(^_^;)

 

はい、大失敗でございますorz

 

◇関連記事(ホームドアがなかったころの南千住駅で03系などを撮影した記事)

 

◇同上(南千住駅のホームドア整備状況を確認した際の記事)

 

 

当記事は、こちらの記事の続きとなります↓

 

 

こちらの記事では13番線にスポットを当てましたが、今回は13番線以外。

ちょうどこのとき、14番線では高崎線高崎行き851Mが発車を待っておりました。

 

分かりにくいが「高崎線」表示を出している

 

こちらは17番線。

 

常磐線特急もすっかり減った

 

かつては16・17番ホームは常磐線特急の独擅場でしたが、上野東京ライン開業に伴い、「ひたち」「ときわ」の大半が品川発着に変更されたため、これら列車の発着ホームは地上ホームに移されてしまい、地平ホームを発着するのは平日の朝の「ときわ」1往復だけとなってしまいました。

すっかり寂しくなってしまった上野駅地平ホームですが、コメント欄にご指摘を頂戴したように、ダイヤ乱れなど輸送障害発生の際に上野ー東京間の運転を取り止め、高崎・宇都宮方面へ折り返すために地平ホームを活用するということのようなので、たとえ使用頻度は少なくなっても、運転取扱い上の重要性は揺らいでいないということなのでしょう。

 

最後におまけ。

その1。北陸新幹線敦賀開業記念の横断幕。

 

まだあったんだ

 

東京から「かがやき」「はくたか」で福井に直行できるようになったことは、福井県にとっては大いにいいことです。JR西日本もそのことを分かっていて、下り朝方と上り夕刻の「かがやき」は越前たけふに停車、下りで昼前後に福井県に達する「かがやき」は芦原温泉に停車というように、時間帯で停車駅を分けています。後者の「かがやき」は鉄道趣味界で「温泉かがやき」の異名があるとかないとか。

 

その2。

敦賀開業記念のポスター。

 

右側(^_^;)

 

この「テン テン テーン」って…どう見ても(聞いても)

 

火曜サスペンス劇場のオープニング

 

だよなあ?

火曜サスペンス劇場といえば、テレ朝の「土曜ワイド劇場」と並ぶ2時間ドラマの双璧にして、日テレの看板番組だったもの。どちらも高い視聴率を誇ったものですが、TV業界があまり儲からなくなったからなのか、ロケ費用がかかるとして相次いで放送が取り止められました。しかし今でもこれら2時間ドラマは根強い人気を誇り、BSで再放送されているようです。だから案外、あのインパクトのあるオープニングも、今でも通用するのかもしれません。

これを見ていたら、管理人もまた福井に行きたくなりました。

 

【取材日 令和6年8月8日】

 

【おことわり】

当記事は08/14付の投稿とします。