さいたま市では、市の鉄道交通の拠点である大宮駅について、大改造を施す構想があるそうで。

さいたま市の構想はこちら↓

 

 

大宮駅というからには、当然のことながら東武野田線(アーバンパークライン、UPL)も例外ではありません。この計画によると、UPLの大宮駅は現在地より60mほど南側へ移動させ、現行の1面2線を2面3線に改めるとのこと。そして、これが最も注目されるのですが、今後UPLの列車を現行の6Rから5Rへ短縮する計画があるところ、大宮駅は6R対応にするとのこと。これは「スペーシアX」や「リバティ」の2編成併結など、特急列車の乗り入れを想定しているからだといわれています。

これについては、「乗りものニュース」でも取り上げています↓

 

 

というわけで、管理人もUPL大宮駅を見に行ってきました。朝霞台から武蔵野線に乗り、武蔵浦和で埼京線に乗り換えております。しかし埼京線からUPLは遠い(^_^;)

UPLへは、中央改札を出たところから一番東側にある連絡通路を通っていきます。地平からでも出入りはできなくはないのですが、その場合は東口のルミネビルを通り抜ける必要があり、やや分かりにくくなっています(管理人はうっかり外に出てしまい、見事に騙された)。

 

昭和の趣が濃厚に残る連絡通路

 

UPLの大宮駅は、駅全体の北東に位置し、JRと東武の現業の建物の敷地に挟まれ、決して広々とした場所にはありません。

そのことを示すように、駅の突端部分はホームの幅が極めて狭くなっています。

以下、1枚目は柏寄りから数えて2両目あたり、2枚目は柏寄り先頭車両の停車部分、3枚目はホームの突端部分。あえて3点をノーキャプションで。

 

 

 

 

いかがでしょうか。

突端に向かって、急激に狭くなっていくのがお分かりいただけると思います。

 

そして東側には、このとおり東武の現業の建物が。

 

これも取り壊されるのか?

 

計画では、UPLのホームは南側(JRでいうと上野方)に60m移設されるとのことなので、縦方向は確保できますが、問題は横方向。現行の1面2線を2面3線に増やそうというのですから、JRの土地を侵食しない限り、横方向への展開は必須です。そうなるとやはり、このような建物も壊さざるを得ないでしょう。

 

現時点では東武大本営からの発表はありませんが、今後の進展が気になります。

 

【取材日 令和6年9月9日】

小ネタですが、備忘録として。

 

和光市駅で乗り換えのため小休止したのですが、地下鉄有楽町線・副都心線乗場に、こんなものがやってきました。

 

青ガエル!

 

勿論「青ガエル」といっても、あの丸っこい先代ではなく、ラッピングを施した5000系編成(5122F)。

 

5122Fが和光市にいるという証拠写真。

駅名標と同一画面に収めてみた

 

やや無理があるかな(^_^;)

 

しかしこの編成、埼玉県で見かけるととてつもない違和感がありますな。

ちなみに5122Fは8Rなので相鉄に入ることはありませんが(東横線の相鉄乗り入れ可能編成は10Rのみ)、これが相鉄に入ったとしたら、そのインパクトたるや…。個人的には、JR東日本のE233-7000と並んでほしいですが。

 

【おことわり】

当記事は東急5000系を取り上げた内容となっていますので、記事カテゴリを「東武」「営団地下鉄・東京メトロ」ではなく「東急」にしています。

9月9日の東武ネタ拾いの続きです。

上板橋駅から朝霞台駅に移動し、大宮に向かおうと武蔵野線に乗り換えるべく、この駅で下車しました。

 

するとこんな掲示物が。

去る8月6日、朝霞台駅は開業50周年を迎えたとのことで、その記念の掲示物でした。

 

駅員さん手作り(多分)

 

駅の改札窓口にはこんな横断幕も。

 

こちらでも開業50周年を祝っている

 

朝霞台駅は東武東上線の開業当初にはなかった駅で、国鉄(→JR)武蔵野線との乗換駅として開設された駅です。

 

そこで管理人は疑問に思った。

 

武蔵野線の開業って昭和48(1973)年だよなあ?

なのに朝霞台駅の開業がその翌年ってどゆこと?

 

すると、確かに武蔵野線開業・北朝霞駅開設は昭和48年4月1日なのですが、その時点では東武東上線朝霞台駅は未開設でした。朝霞台駅の開設は、それから1年4か月後ということになります。

 

東武では乗り換えのために新設した駅が先発路線の駅よりも開設が遅れるという事例が他にもありまして、新越谷(武蔵野線と東武伊勢崎線との乗換駅)も朝霞台と同じように武蔵野線開業の1年後となっています。もっともこちらは、用地問題が武蔵野線開業までに決着しなかったことが理由とか。野田線新鎌ヶ谷に至っては、北総・新京成の新鎌ヶ谷駅が開設されてから実に8年後の開設となっています。

現在ではいずれの駅も、乗り換えのお客で活況を呈しており、さらに商業施設なども集積するようになっています。朝霞台駅も、当初は普通と準急しか停車しなかったものが、今や急行や快速急行は勿論、「川越特急」まで停車していますから。流石に「TJライナー」は停車しませんが。

 

おまけ。

武蔵野線北朝霞駅で撮影した、府中本町行きの電車。

 

209系500番代

 

現在の武蔵野線は、209系500番代とE231系0番代に統一されてしまいました。あれだけ沢山いた205系、さらにその前の103系を懐かしく思い出すのは、管理人がおっさんを通り越してジジイになりつつある証拠でしょうか(滝汗)。

以前に武蔵野線の205系に乗車・撮影した記事を置いておきます。

 

◇関連記事

 

 

その5(№6236.)から続く

昭和50(1975)年3月10日、新幹線博多開業を機に行われた全国ダイヤ改正「50.3」。
その「50.3」の白眉は、米原-金沢・富山間の特急「加越」の運転開始でした。

「加越」運転開始の経緯は以下のとおりです。
「50.3」前年の昭和49(1974)年、山科-近江塩津間に湖西線が開業しました。これは京都(山科)-米原-近江塩津(敦賀)間の「湖東ルート」のバイパスとなり得るもので、開業当初は普通列車と貨物列車のみの運転とされました。そのバイパスルートが、「50.3」を機に本格的に稼働を開始。特急「雷鳥」「白鳥」、寝台特急「日本海」など、関西から北陸方面へ向かう優等列車の大半が湖西線経由に改められました(急行『きたぐに』など、米原経由のまま存置された系統もある)。
「雷鳥」などが湖西線経由に移されるということは、これらの列車が米原駅を通らなくなるのとイコールですから、米原駅ではそれだけ特急列車への乗車チャンスが減少します。勿論名古屋発着の「しらさぎ」もあるにはありますが、「50.3」で増発した分を含めても、僅か6往復。これでは新幹線との乗り継ぎネットワークを構築するには、何とも心もとない本数です。
そこで、米原駅における特急列車への乗車チャンスを確保し、併せて新幹線との接続を万全のものとするために、「しらさぎ」を補完する新幹線接続特急が登場することとなりました。この列車こそが「加越」です。

「加越」は色々な意味で、それまでの国鉄の特急の常識を覆す列車とされました。それは以下のような点です。

① 国鉄の歴史上初めて、純然たる「新幹線接続特急」として設定されたこと。
② 国鉄の歴史上では最短となる(臨時列車及び併結列車の単独運転区間を除く)、食堂車のない7連(グリーン車1両)の編成を組んだこと。
③ 国鉄の歴史上初めて、優等車と普通自由席車が隣り合ったこと。

まず何と言っても特筆すべきは①。
国鉄の列車は、特急から普通列車に至るまで、1本の列車・1つの運転系統が様々な需要に応えるのが常でした。これまで「新幹線接続特急」として取り上げてきた山陽~九州の「つばめ」「はと」「しおじ」も、新幹線接続の使命があることは勿論、岡山・広島から九州地区、あるいは大阪・岡山~広島以遠といった独自の需要にも応える列車であるという顔を併せ持っていました。山陰へ向かう「はまかぜ」「あさしお」なども然り。
それが「加越」の場合、完全に新幹線接続に特化したことは明らかでした。
なぜ「加越」が「完全に新幹線接続に特化した」と言えるかというと、「しらさぎ」との比較において。「しらさぎ」が米原における新幹線との接続という使命を持っていることは勿論ですが、同時に中京圏と北陸を結ぶという独自の使命をも併せ持っているからです。それがない「加越」は、新幹線との接続に特化した列車といえます。だからこそ「加越」は、純然たる「新幹線接続特急」といえるわけで。
ちなみに、「列車の使命・性格を明確にした列車」としての初めての事例は、昭和31(1956)年11月に運転を開始した東京-博多間の夜行特急(寝台特急ではない)「あさかぜ」であると説明されることがありますが、「あさかぜ」の19年後に運転を開始した「加越」もまた、新幹線との接続に特化した列車として、その使命を明確にしています。

そして「加越」の編成は、「新幹線接続特急」として旧来の「特別急行」とは異なるということか、食堂車を連結しない7連の短編成とされました(②)。それでも優等車(グリーン車)を1両組み込んでいる点は流石といえます。もっとも、「加越」登場の1年後、さらに短い4連の特急も九州に登場しますが、あれは全区間で単独運転をするわけではない、分割編成の分割後なので、今思うとそれほど騒ぎになるものでもないような。今では四国などにグリーン車すらない、2連の特急すらありますが…。
それでも「加越」に用意された編成は、車両こそ「雷鳥」などと同じ485系ですが、新造車を中心とした車両。中でも双方の先頭車は、非ボンネット・非貫通の300番代にほぼ統一されていましたから(少なくとも運転開始当初は)、やはりそこは「特別急行」としての面目を施すべく、最低限の配慮をしたものと見ることができます。別の見方をすれば、編成両端の先頭車が非貫通型で、なおかつ中間車が新造車なのは、定員確保の要請があったからでしょうけど(非ボンネットの先頭車は、ボンネットスタイルよりも定員が8名多い。またモハ484の初期型は床置型冷房装置を搭載しているため、後期型より定員が少ない)。
もっとも、このような配慮も、昭和60(1985)年からの「しらさぎ」などの短編成化に絡んで、次第に有耶無耶になっていきますが。

それよりも鉄道趣味界を驚かせたのは、「編成中でグリーン車と自由席車(普通車)が隣り合っていること」です(③)。優等車と普通自由席車が隣り合っているのは、急行では当たり前の編成でしたが、特急では例がありませんでした。特急は長らく全席指定がデフォルトでしたし、普通車自由席が設けられるようになった後も、普通自由席車とグリーン車との間には数両の普通指定席車という「緩衝地帯」を設けていたものです。これは多客期などに、普通自由席車の喧騒にグリーン車のお客が巻き込まれないようにする配慮だったと思われますが、「加越」ではそれも破られました。

以上のとおり、従来の「特別急行」の常識からはまるで考えられない「軽装」で走り始めた「加越」でしたが、ことスピードの面では、十分に特急の面目を保っていました。表定速度は当時としては最速となる80㎞/h台を維持し、運転開始以来長らく(東北・上越新幹線開業くらいまで?)、「加越」は国鉄在来線特急の最速列車の座に君臨し続けました。

こうして「50.3」で登場した「加越」は、「しらさぎ」の間隙を埋める形で米原での新幹線との接続機会を確保し、新幹線接続特急として確固たる地位を占めるようになります。上越新幹線がなかったころは、東海道新幹線を利用して米原乗り換えで北陸へ向かうのが、ルートは遠回りでも所要時間は短かったので、かなりの利用がありました。
逆に米原を通らなくなった「雷鳥」などは、米原での新幹線との接続はなくなったものの、京都で山陽方面との新幹線と接続することになり、その限りでは新幹線接続の使命を負い続けています。

次回は特急「かもめ」「みどり」…と行きたいところでしたが、予定を変更し、「国鉄以外にもあった『新幹線接続特急』」をお送りしたいと思います。「かもめ」「みどり」については、その次に取り上げます。

その7(№6246.)に続く
 

今回の東武東上線訪問で気になったこと。

50000系列のうち、50000型の正面・側面の表示の字体(フォント)が変わったことです。

 

まずはこちらをご覧ください。

50000型による準急川越市行き。正面と側面をノーキャプションで。

 

 

 

こちらは比較の対象として、50070型による快速急行(Fライナー・副都心線からの直通列車)。こちらも正面と側面をご覧ください。同様にノーキャプションとします。

 

 

 

いかがでしょうか。

50070型は字体が明朝体であるのに対し、50000型はゴシック体になっているのですよ。

このような変更の理由として、ゴシック体の方が明朝体よりも視認性に勝ることが指摘されることがありますが、それとは別に、所謂「ユニバーサルデザイン」(リンクをクリックするとWikiの同名の項目にジャンプします)の一環としてこのように改めたとも考えられます。一説によると、視覚が不自由な場合には明朝体よりもゴシック体の字の方が視認性に優れるということがいわれていますので。

 

比較の対象として30000系の側面表示も。こちらは明朝体となっています。

 

ゴシック体にはなっていない

 

かつて東急で、行先表示のLED化を強力に推進したとき、その途上で明朝体からゴシック体に変更したことがありましたが、あれも視認性の問題があったんでしょうか。

ことによると今後、明朝体で表示される東武通勤車の行先や種別の表示も、ゴシック体に改められるかもしれません。