かつてはこの言葉に日本も欧米に優るとも劣らないものが出来た,対等になったではないか,と誇らしく思った日本人は多いのではないだろうか。
そして,以前よりも多く排出されるノーベル賞受賞者の数に,やっぱり日本はまだまだすごいんだと,世界でも上位に位置する国なのだと思っている人もいるだろう。
一方で,技術により近く,冷静に現状を見ている人は,以下の2つのワード,
および
という言葉に大いに不安をいだいているのではないだろうか。
そして,私,さすらいびともこの不安を抱く一人だ。
以降で,なぜ不安になるのか,個人的な考えを「徒然なるままに」書こうと思う。
まず,ノーベル賞について。
ノーベル賞,特に物理学や化学など理系のものは「過去」の成果が評価されている物がほとんどであるということだ。
個人的にはかなり近い馴染がある例だと,小柴先生がノーベル物理学賞を受賞したニュートリノ観測があるが,四半世紀前となるさすらいびとが学生時代にすでに論文として発表もされていたものである。
他も似たようなもので,ノーベル賞受賞が増えたのはどちらかというと「技術大国日本」の集大成であり,「最後の輝き」のようなものだ。
そして,過去の栄光が尽きたとき,そのまま日本人受賞者はでなくなるのではないかという懸念が強く感じるのだ。
続いて,その技術大国であるが,これはIT後進国とも絡むものだが,世の中の価値が変わってしまったというものだ。
かつては「質の良いものを作れば売れる」というのが当たり前だった。
そして,日本製品は品質が良かった。
もちろん,今も良いのだろうが,問題は「品質は良くすれば良くするほど売れる」というものではない,つまり,「品質が付加価値」となるのは限界があるのだ。
もちろん,同じ価格なら良い品質のものを買うだろうが,それが価格に転嫁されるなら別だ。
趣味などにかかわらないなら,不自由を感じないレベルの品質のもので十分満足してしまう。
車が好きな人はかつてのように「いつかはクラウン」と思う人もいるだろうが,
その人が同じく,カーボンファイバの100万円以上する自転車を買うだろうか。
逆もしかりである。
そして,かつて低品質と言われていたBRICSやASEAN諸国が作るものが,「日常には十分」の品質のものを低価格で作れるようになってしまった。
それに対して,日本はより高品質のものを作ることに力を注いだ。
一方,欧米,特に米国はルールを変えることにした。
それが,
サービス(そしてソフト)にこそ価値があり,物(あるいはハード)の品質はそれに見合えば良い
というものだ。
そして,それは茹でガエルのように日本に対してじわじわと効いてきた。
しかも,日本にとってはかなりまずい状況だったのは,特に日本のメーカーにとって
高価なハードを買って。
ソフトはおまけでつけるから。
というのが当たり前だったからだ。
かつてメーカーでハードは花形,ソフトは脇役だった。
そして,「技術大国」とはハードのことだった。
当然のこととして,ハードの技術者は多く供給されるように国も企業も動いた。
一方で,IT技術者は放置された。
それが,ITの位置づけを低くし続け,また,軽視する土壌となったと考えられる。
これが,IT後進国としての日本を生んだのではないだろうか。
更に,質の良い製品はユーザから「理系要素」を遠ざけることにもなった。
「三角関数なんて自分が社会に出たときに役に立たない」という人,特に数学嫌いな人がいるが,三角関数がなければ回路は作れない。
つまり,ICも作れないし,最終的にはスマホも家電も作れないのだ。
目立たないだけでめちゃくちゃ役に立っているし,必要だ。
家電のない生活など,普通の人にとってありえないだろう。
どうやら,「理科離れ」はどんどん悪化しているらしい。
以下のようなレポートが公開された。
高校生の科学への意識と学習に関する調査報告書―日本・米国・中国・韓国の比較―<令和7年7月発行> | 独立行政法人 国立青少年教育振興機構
内容については関連ニュースの記事の方を見てもらえれば良いが,このままでは四半世紀後には資源もない,技術もない,若者もいない,無い無い尽くしの国になるのではないだろうか。