御子イエスの血によって神の怒りを過ぎ越す | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Fr Lawrence Lew, O.P.

 

 

イエスの血の注ぎを受ける…。

イエス・キリストの福音において、大変に重要な概念です。
すべてのものは血によって清められます。

それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。
ヘブル9:22

主イエス・キリストにあって救われる人も、イエスの血の注ぎを受けます。

そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
ヘブル10:22

第一ペテロでは、主イエス・キリストにあって召されることが、「血の注ぎかけを受ける」ことと同義だと書かれています。

父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。
第一ペテロ1:12

主イエス・キリストを本当に信じるということは、イエス・キリストの血の注ぎかけを受け、その血を、常に自分の内に持っている人。そうして、常に、イエス・キリストの血によって、清められ続けている人だと言うことができるでしょう。

なぜなら、主イエスは、ご自身の血が「まことの飲み物」だとおっしゃっています。

イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。

ヨハネ6:53-56

キリスト教会に通っているけれども、救われた感じがしない…。
洗礼を受けたけれども、聖書でクリスチャンに約束されている事柄が自分の身において成就していない…。
そういう人は、イエスの血に関する聖句を確かめてみて、それについての信仰があるかどうかをチェックしてみると良いでしょう。

イエス・キリストにある救い。イコール、イエス・キリストの血をいただくことです。


なぜなら、イエスの血は「契約の血」でもあるからです。


これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。
マタイ26:28

イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。
マルコ14:24

食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。
ルカ22:20



そうして、そのイエスの血を内に持っている人が、世の終わりの神の怒りを過ぎ越すことができるのです。

信仰によって、初子を滅ぼす者が彼らに触れることのないように、彼は過越と血の注ぎとを行ないました。
ヘブル11:28

ユダヤ人/イスラエル人たちがエジプトの奴隷状況から脱出する際に、「過越」が行われました。過越は、エジプトの歴史始まって以来の災難である初子がすべて殺されるという、イスラエルの神から来る人知をはるかに超えた御業。この人知をはるかに超えた恐ろしい御業から、逃れることができる、それを過ぎ越すことができる、というか意味です。

その過越は、小羊の血によって可能になるのです。

それが、後代のイエス・キリストの血が持つ意味です。
この血によって、終わりの日にやってくると預言されている神の怒りから、過ぎ越すことができるのです。