Courtesy of Marcia O'Connor
経験してわかったことですが、イエス・キリストを本当に信じている人には、必ず、何らかの「しるし」が現れます。
「しるし」は、なかなかわかりにくい日本語で、漢字で書くと「徴」ですが(「印」ではないです)、つまり、「神が働いていらっしゃるということが、本人にも、周囲の人にも、はっきりとわかる、何らかの現象、出来事、展開、出会い、その他」が生じるということです。
申し訳ないですが、三位一体の神を信じている教会の中にいると、たとえ、神学をたくさん勉強した牧師であっても、このことは、理解できないです。なぜなら、人為的な神である、父と子と聖霊とが三つにして一つの神という、偶像の下では、本当の神が働くことはできないからです。従って、しるしが、全く見られません。繰り返しますが、三位一体の教会の中では、「しるしが、全く、見られません」。
それは、三位一体の神が、偶像であり、ものを言わない存在であり、何の働きをすることもできないからです。聖書で記されている神の働き…例えば癒しとか、人を自由にするとか、罪の感覚が全く消えて無くなるとか、そういうことが一切ない。起こりようがない。なぜなら、神ではなく、偶像だからです。
本当の神であれば、その人を、地獄のような状況から救い出すことができますし、イエス・キリストの名と権威により悪霊から解放することもできる(悪霊が出ていかないのは、偶像の下にあるからです)。また、毎日の生活を祝福して下さり、幸せで満たして下さいます。それがないのは、そのキリスト教会が信じている三位一体の神が、偶像に過ぎないからです。
いくら、聖書にこれこれこう書いていあると引用して見ても、偶像は偶像です。「これこれこう書いてある」という姿勢は、イエス様から何度も怒られていたパリサイ派と変わりません。
○天の父がその人を動かして御子イエスの下に連れて行く
本当に信じるとは、まず、御子をこの地の上に送って下さった、神である天の父を信じるということです。まず、それが先立ちます。御子イエスを信じるのはその先です。創造主であられる天の父がわからなければ、御子である主イエスもわかりません。以下の聖句は、そのことを言っています。御子イエスを信じる人は、御子イエスを遣わされた神、天の父をも信じるということです。
「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」
マルコ9:37
それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。
ヨハネ17:21
正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。
ヨハネ17:25
御子イエスをこの世に遣わされた神、つまり、御子の父である神を信じなくて、御子イエスがわかるでしょうか?
千数百年間、仏教の影響下にあって霊的に支配されてきたこの日本で生まれ育つと、本当の神である天の父、また、イスラエルの神でもあられる天の父を、「本当の神」として理解することが、ものすごく難しいです。
この「本当の神」がわかるためには、天の父が、自らその人を取り扱って下さって、何度も、死ぬような思いをして、それまで影響を受けていたありとあらゆる偶像から(異教の神から、悪魔崇拝の悪魔から)、脱出するように仕向けて下さり、その延長で、御子イエスによる救いしかないのだと確信させて下さる、そのような、天の父ご自身による、その人への働きかけがないと、無理です。
私は、召命を受けて、オンライン教会として始まったこの教会を5年近くやってきて、色々な「信仰がない方」に、「信仰があるように」働きかけてきましたが、「信仰を持つことができない方」がいるのだということに、だんだんと気づいてきました。残念ながら、イエス・キリストを信じる信仰を持つことができない方がいます。それが真実です。多数の事例を見ました。
○「文字(もんじ)」で論じる人達にイエス・キリストはわからない
本当に、イエス・キリストを信じることができるのは、天の父が、直接的に教えた人だけです。
それは、イエス・キリストご自身が、そのように証しをしておられます。
父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。
ヨハネ6:37
わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
ヨハネ6:44
預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。
ヨハネ6:45
つまり、天の父が、全ての物事や全ての人を用いて、その人を、イエス・キリストに出会うように、仕向けて下さることによって、初めて、その人は、イエス・キリストを本当に知ることができる、また、信じることができる。
これは、人間の集まりであるキリスト教会ができることではありません。
牧師も司祭も、その人を、イエス・キリストと出会わせることは、できないのです。ローマ教皇ですらできない。ただひたすらに、「唯一のまことの神」と御子から呼ばれている天の父のみが、できることなのです。
上の3つの聖句は、そのことを表しています。
4世紀にグノーシス/新プラトン主義の影響を色濃く受けた、それによって聖霊が下りようがない、父も子も聖霊も、新約聖書の文字面でしか知りようがない人々。そうした司教達によって(当時の司教1800名。うち325年ニカイア公会議に300名余りが参加)聖書の神が議論され、381年にニカイア・コンスタンティノポリス信条として三位一体が定まった。教義の確定では多数決が用いられたようです。
そうした人工的な神の下では、一切、本当の神である天の父は動かれない。働かれない。御子イエスによって、天の父は、隠れたところにおられると証しされています。本当にその通りです。知識だけで神を論じる人たちに、天の父は、一切、御業をなさいません。
また、知識だけで、イエス・キリストを論じている人たちも同様です。
そういう人達が、天の父に直接教えられて、イエス・キリストの下に連れていかれることなど、一切ないです。よって、その人達は、イエス・キリストを、聖書を引用して、述べたり教えたりしていたとしても、イエス・キリストの何も知らないし、知識は死んだ知識です。パウロは「文字(もんじ)」と言っています。
神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。
第二コリント3:6
○天の父に教えられた人は、イエス・キリストを経験する
そのようにして、天の父に教えられた人は、人生のどこかで、非常に不思議な形で、イエス・キリストにめぐり合います。イエス・キリストを経験するようになります。
「互いに愛し合いなさい」、本当はこういうこと(1)
https://ameblo.jp/sasuke-memo2/entry-12741947067.html
性の深刻な罪をも互いに言い表す関係 - 「互いに愛し合いなさい」、本当は…(2)
https://ameblo.jp/sasuke-memo2/entry-12743189131.html
ここの教会ブログでは、イエス・キリストによる罪の赦しを経験すると、何が起こるかということを、この一連の投稿で書いています。まだ途中です。全部書ききると、御子イエスの執り成しによって、天の父の愛が働かれて、癒しや赦しが起こる、それが奇蹟として起こる、そうしてその奇蹟が働くためには、少なくとも3名の、信仰を等しくする兄弟姉妹の互いに愛し合う関係が不可欠である、そういうことを書こうとしています。
そういう形で、イエス・キリストを経験するのです。
そうすると、イエス・キリストが本当に「生ける神の御子」であられることがわかる。これは、ペテロが言った言葉です。ペテロの信仰告白です。ペテロは、信仰告白をして、イエス・キリストが、「生ける神の御子」と言っているのです。それはつまり、「生ける神」が大前提になっているということです。
この、ペテロが言った「生ける神」とは、どなたのことだと思いますか?
三位一体の、父と子と聖霊が三つにして一つの神ですか?
ペテロが信仰告白をした1世紀には、旧約聖書しか存在しなかった。
新約聖書は存在しなかった。
当然ながら、325年のニカイア公会議も開催されておらず、381年のコンスタンティノープル公会議も開催されていなかった。
当然ながら、三位一体の教義は、影も形もなかった。
そういう中で、ペテロは、イエス・キリストを「生ける神の御子」と信仰告白しているのです。
この時の「生ける神」とは、どなたのことですか?
あなたが、エペソ1:4にあるように、生ける神ご自身によって選ばれた方であるのなら、生ける神ご自身が教えて下さいます。
○「しるし」が起こるメカニズム
そのようにしてイエス・キリストを本当に信じた人には、新約聖書に書かれている全てのことが成就します。
すなわち、「しるし」が伴うようになります。
しるしとは、上で書きましたが、「神が働いていらっしゃるということが、本人にも、周囲の人にも、はっきりとわかる、何らかの現象、出来事、展開、出会い、その他」が生じるということです。
どういうことかと言うと…。
1. 御子イエスを、天の父は、愛しておられる。
2. その御子イエスを、メシア(救い主)として、この人は信じた。
3. その人は、御子の父である天の父を、本当の神として崇めている(ヨハネの福音書4章、霊とまことによって礼拝している)
4. そういう、天の父を、本当の神として崇めている人のために、御子イエスは、メシアとして、執り成す。誰に対して執り成すのか?本当の神であられる天の父に対して執り成す。
5. 御子イエスが執り成しておられる、その人を、天の父は、ご自身の子供として扱われる(ヨハネの福音書1章)。
6. ご自身の子供であるがゆえに、その人が行く先々において、天の父が、その人の本当の父としてご自身を現され、神ならではの御業をなさる。
結果として、しるしが現れるということです。
○「しるし」とは、例えば、こういうこと
しるしは、多岐に渡ります。
マルコ最終章で述べられているしるしも、あります。
信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、
蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」
マルコ16:17-18
また、山に向かって動け、を経験するようになります。以下で主イエスがおっしゃった「山」が何であるかは、その人それぞれの信仰によります。
イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。
マタイ21:21
まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。
マルコ11:23
悪霊の追い出しや、霊的な戦いは、↑この原理です。
また、偶然の出会い、偶然の一致、「偶然の出来事が、ある文脈で整っている」(後から関係者全員が、ああ、そういうことだったのかとわかる)と言った、偶然の出来事に神が働かれていることがはっきりとわかる、自分にも周囲にいる人にもはっきりとわかる、そうした出来事もあります。
また、気象や自然の現象(鳥が鳴くなど、神の被造物を用いた現象)によって、「そこに、天の父がいらっしゃる」と、はっきりと、わからせることも、よくなさいます。
イエスが行なわれたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。
ヨハネ21:25
上の聖句に「イエスが行なわれたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい」とあります。そのように、天の父が、おそばにいて下さる。また、そのすぐ右に、主イエス・キリストが、いて下さる。そのようにして、主イエス・キリストが執り成し、天の父が、その人の本当の父として、いて下さる。そういう中で起こるしるしは、上のように、書き切れないぐらい、多種多様です。
しるしとは、そういうものです。
本当に、主イエス・キリストを信じていれば、そうしたしるしが、必ず、起こります。
なぜなら、本当の神である天の父が、その人を、ご自身の子供として認証なさるからです。