Courtesy of Ted Eytan
○「互いに愛し合いなさい」に取り組むと、自然と初代教会の回復に取り組むことになる
主イエス・キリストの新しい戒めである「互いに愛し合いなさい」。これを本気で実践しようとすると、新約聖書の各所に散りばめられている断片をつなぎ合わせて、初代教会の回復に取り組むことになります。これは、前人未到の道を歩むということでもあります。
なぜなら、三位一体を捨て去って初代教会の回復に取り組んだキリスト教会は、1世紀から2世紀にかけてパウロやペテロが死んで、初代教会がグノーシス/新プラトン主義の司教達によって駆逐されてしまって以降、記録にないからです。正確に言うと、キリスト教会史2000年の中のどこかで存在したかも知れませんが、それは異端として排斥されますから、記録が残りようがないです。異端の記録は焼却されます。よって前人未到の道を歩む形になります。
しかし、現在は、インターネットにその教会の記録は残ります。異端と見なされようが、見なされまいが、聖書に書いてある神の言葉を正確に受け取って、本当の聖霊をいただいて、天の父と主イエス・キリストと交わるならば、そこに、神の国が現れるのです。御子イエスの執り成しが生き生きと働くのです。愛の神であられる天の父の、その愛の御業を何度でも経験することになるのです。
人間の味方がいないとしても、また、既存のキリスト教会コミュニティからは全く理解が得られないとしても、私たちの父である天の父と、その御子である主イエス・キリストが味方に付いている訳ですから、何を恐れることもないのです。
そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」
ヘブル13:6
そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。
ルカ12:4
○高い所に教えを垂れる人がいると、互いに愛し合えない
前投稿で書いたように、4世紀以降の三位一体を掲げる教会群では「高い所で司祭/牧師が教えを垂れる」図式があるため、高い所にいる司祭/牧師が低い所に降りてきて兄弟姉妹と互いに愛し合うこともできないですし、低い所にいる兄弟姉妹同士で互いに愛し合うことに取り組もうとすると司祭/牧師がそれにストップをかける…なぜなら自分が実践していないことを兄弟姉妹が実践することには我慢がならない、グノーシスに端を発する神学者固有のプライドがそれを許さないところがあるから、ということがあります。
「互いに愛し合いなさい」は、同じ平面にフラットな位置関係でいる兄弟姉妹同士で初めて実践できる戒めであり、高い所に誰かがいたり、低い所に誰かがいたりする関係では、成り立たないのです。それを裏付けるものとして、主イエス・キリストは、あなた方は先生と呼ばれてはなりませんと、きつく戒めています。
しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。
マタイ23:8