日曜投稿:天の父との関係を邪魔する「孤児の霊」を追い出すために | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

 

2017年に「父親が奪われている国、日本」というタイトルでブログを書いたことがあるのですが、種々の事情があって削除してしまいました。その内容を引き継いで、ここで完成させたいと思います。当時は答えを持っていなかったのです。

削除したブログ「父親が奪われている国、日本」では、まず、ある宣教師マインドにあふれた米国人クリスチャンが作成した動画"Fatherless country, Japan"(父親のいない国日本)を紹介しました。この動画はよくできていて、見る人の心を揺さぶるものがありました。日本の「父親がいない度合」ははなはだしく、自殺、いじめ、職場での過酷な精神状況、夫婦の不和、親子関係の不和などの問題があふれている。主イエス・キリストの救いと天の父の愛を必要としていることは確かだ。だから日本へどんどん宣教に行こう!と米国人クリスチャンに熱く呼びかけていました。



日本という国に「父親がいない」とはどういうことか?
簡単に言えば、以下のようなことが起こっているということです。


・日本の社会経済の仕組みが、家庭から父親を奪っている。
・現在父親である人たちも、父親の愛を知らずに父親になっているから、父親としての適切な振る舞いができない。
・父親のモデルがない社会になっている。

霊的な意味で言えば(霊的とは聖書の文脈に照らしてという意味)、天の父の豊かな愛を個々のクリスチャン、特に男性が受け止めることができず、天の父不在の状況が見られます。

どの教会でもどのクリスチャン(男性)も、主イエス・キリストについては何か言いますが、天の父のすばらしさについて語る人はほとんどいません。これは、天の父を知らないからです。



このブログでは、天の父との交わりがいかに大切かを何度も述べてきました。

日曜投稿:神と仲良くなる(2)- 神の子どもとして天の父と話す(2019年7月)

天の父と交わるための幕屋の祈り(2019年9月)

日曜投稿:誰もが主イエスを通して天の父を礼拝できる時(2020年5月)

日曜投稿:生ける神である御父を知ると御子イエスも理解できる(2020年5月)

日曜投稿:天の父に祈るとかなえられるとはどういうことか?(2020年7月)

このようにして書きながら、自分でも祈りながら、聖霊に満たされて、御子イエスが大祭司として天におられて、天の父との交わりをとりなして下さる経験を何度も積みながら、だんだんと、天の父の愛を深く知るようになりました。

日本のプロテスタント教会では、一般的に、天の父に触れられるのは、「主の祈り」や、種々の祈りの時に「天のお父様」と呼びかける程度で、その他の時には、あまり、天の父のありがたみや愛や優れた御業が語られることはありません。

しかし、主イエス・キリスト自身、御子として、事あるごとに父なる神のことを語っていらっしゃいます。主イエスご自身よりも偉大な方であるとおっしゃっています。

『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。
(ヨハネ14:28)

また、天の父は「霊とまことによって礼拝する真の礼拝者」を求めておられるとおっしゃって、礼拝の対象は父であることを示しておられます。

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

(ヨハネ4:23-24)



パウロも、事あるごとに、主イエス・キリストとともに「唯一の神」である天の父のことを強調しています。(これは三位一体の真理をどうこう論じるというのではなく、パウロから見た「神」がどういう位置付けであるか、また、イエス・キリストがどういう位置付けであるかをはっきりと認識するのに必要です。)

ローマ:
まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。
(ローマ1:8)

パウロにとっては「私の神」とは「天の父」です。すなわちそれは熱心なユダヤ教徒だったパウロによって旧約の「主」です。

第二コリント:
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。

(第二コリント1:2-3)

ほめたたえられる対象が「天の父」であることに留意する必要があります。パウロにとっての「神」は「天の父」がまず先に来る存在です。

ガラテヤ:
キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。
どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。

(ガラテヤ1:4-5)

パウロは「私たちの神」が「天の父」であると言っています。これは熱心なユダヤ教徒であったパウロにとって、これまでずっと信じてきた「神」=旧約の「主」が、イエス・キリストの出現によって「天の父」になったことを表しています。
モーセに律法を与えた旧約の「主」が、パウロがイエス・キリストに出会って以降は「天の父」になったのです。劇的な転換です。

エペソ:
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

(エペソ1:2-4)

ここのところでは賛美の対象が「父なる神」「天の父」です。また、「私たちを祝福してくださいました」の主語は「父なる神」「天の父」です。

私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、
絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。
神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。

(第一テサロニケ1:2-4)

第一テサロニケ冒頭でパウロが感謝したり、祈っている対象の「神」は「天の父」のことです。

これらのことから、パウロにとっての「神」はまず「天の父」であり、賛美の対象は「天の父」であることがわかります。これはヨハネ3章で御子イエスが「天の父が真の礼拝者を求めておられる」とおっしゃっているのと一致します。

イエス様も人間としてはユダヤ教徒としてお生れになりました。パウロもイエス様に出会う前は熱心なユダヤ教徒でした。イエス様もパウロもユダヤ教徒的な目線で「神」を見ており、その「神」は旧約の「主」、新約の「天の父」なのです。

つまり、私たちも主イエス・キリストと同じ目線、パウロと同じ目線で神に何かを求める時、それは旧約の「主」、新約の「天の父」に対して求めるのです(ヨハネ14章〜17章)。

礼拝もまったく同じ図式です。パウロのように、主イエス・キリストを通じて天の父を賛美し、礼拝するのです。(上の第二コリント1:2-3など)

 

また、パウロは、天の父が「唯一の神」であると何度も書いています。

 

知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。
(ローマ16:27)

私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。
(第一コリント8:6)

神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。
(第一テモテ2:5)

こうしてくると、天の父の新鮮な位置付けがだんだんと理解されてくるのではないでしょうか。



私は実は、毎日毎朝、ヨハネ3章で記されている霊とまことの礼拝を行い、天の父と交わりをさせていただいています。主イエス・キリストを通じて天の父を礼拝するのです。
また、同じことはヨハネ第一の1章にも書かれています。

私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
(第一ヨハネ1:3)

こういうことも一朝一夕にできるようになった訳ではなくて、聖書を読み、書かれていることを丁寧に吟味し、祈りの時に実践したり、40日程度キリストのみことばを口ずさむことで信仰を育んだりしているなかで(末尾参照)、だんだんと、そのような天の父と交わる礼拝ができるようになりました。



本題の「父親がいない問題」に入ります。

クリスチャンにおいて、さみしい感じが常につきまとう。孤独感が抜けていかない。教会に通っても、クリスチャン同士で交わっても、それが終わって一人になると、どうしようもない孤独感が襲ってくる。それが繰り返し繰り返しある。何年経ってもそうした孤独感から脱却できない。仮に結婚したとしても、また同じような孤独感にさいなまれることがある…。

そうした繰り返し起こる問題の多くは、聖書で言う「悪霊」だと思ってほぼ間違いありません。特に救われているはずのクリスチャンにおいて、本来なら恵みと祝福の中にいるクリスチャンにおいて、そうしたさみしさや孤独感が繰り返し繰り返し襲ってくるようならば、それは「孤児の霊」と呼ばれる悪霊だと見て間違いないでしょう。

(悪霊は、人の中の目に見えない特定の「領域」に住み着きます。聖霊を内住させているクリスチャンであっても、複数の悪霊がぞれぞれの「領域」に住み着いていることはよくあります。領域とは思考、欲求、価値判断、意思決定、生活行動のルーチン、崇拝対象の選択意思など)

自分の内に孤児の霊があると、天の父との生き生きとした交流が阻害されます。いつまで経っても、天の父の愛を経験として知ることがなく、10年20年と過ぎていきます。
孤児の霊は、家族がいるいないに関わらず、結婚しているしていないに関わらず、この霊がいる時にはいます。そうして、繰り返し繰り返し孤独感にさいなまれます。

孤児の霊が行うのは、主イエス・キリストを通じた天の父との愛にあふれた関係ができあがることを、サタンから来た遣いとして否定し続けて、そこに入らせないということです。悪霊はすべてサタンから来ます。そうして結果として、盗む殺す滅ぼすをやります。主イエス・キリストが確立した「天のお父さんと神の子ども(自分・クリスチャン)」の関係を、無きものにします。

新約聖書には、主イエス・キリストを信じる人は信仰により「神の子ども」であると書かれています(ヨハネ1:12、ガラテヤ3:26)。これは「天の父の子ども」だということです。天の父がお父さんなのです。



天の父の子どもになることを邪魔してくる悪霊、孤児の霊。
孤児の霊を追い出すやり方を確認する前に、この悪霊がどういう特性を持っているか、少し研究しましょう。

悪霊は、親から入ってくるか、性交渉で入ってくるか、自分が犯した罪から入ってくるか、この3つです。例外的なものとして、悪霊に憑かれた人からの按手(頭に手を置く儀式)で入ることもあります。何らかの入信の時の宣言で入ってくることもあります。しかし多くは肉親から、あるいは性交渉から、あるいは罪をした時に入ると考えれば良いでしょう。

孤児の霊は、二代続く三代続くクリスチャンファミリーがほとんどない日本において、祖父母や両親はほぼ確実に偶像崇拝をしていますから、子どもの世代の人に、ごく一般的に入ると考えれば良いでしょう。大元は反キリスト。日本にある反キリストの霊的な土壌(仏教、神道、その他の宗教がたくさんある中で)において、生まれてきた人たちが普通に持っている反キリスト的な霊性、主イエス・キリストの救いを受け入れない霊性。それらが背景となって両親あるいは父か母のどちらかが孤児の霊を持って生まれてきており、それが子どもにも伝播して、現世代のクリスチャンが孤児の霊に悩まされる。そういう霊的な図式があると考えれば良いです。

ということは、ほとんどのクリスチャンがこの悪霊を宿している可能性があるということです。
日本の教会において、天の父のすばらしさが教えられない、天の父と交わる術を知らないというのは、おおよそ、そういう霊的背景があるからではないかと、今では、結論づけています。これは冒頭のブログ投稿「父親が奪われている国、日本」を書いた2017年にはわからなかったことです。先日もある姉妹の悪霊の追い出しをやらせてもらっていて、明確に、孤児の霊がいることがわかりました。気づけば、私にもいました。よって、それを主イエス・キリストの名によって、主イエス・キリストがクリスチャンに与えている権威(ルカ10:19)を用いて、追い出します。

例えば、次のように、口から言葉を出して、追い出します。

『主イエス・キリストの名によって、私の内にいる孤児の霊、お前に命令する!私からいますぐ出て行きなさい!』

また、出て行きにくい時は、最初に、「御国の鍵」(マタイ16:19)で縛って、それから追い出す方法もあります。

『私の内にいる孤児の霊!お前を主イエスの名により、御国の鍵によって縛る!』
その後で
『孤児の霊!がんじがらめになっているお前に主イエスの名によって命令する!私からいますぐ出て行きなさい!』
と言います。

この、口で言って、何とかするという方法は、イエス様が教えておられる、山に向かって動けと言い、言った通りになると信じれば、その通りになる、と言う原理に基づいています。

イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。
(マタイ21:21)

まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。
(マルコ11:23)

とすると、悪霊を追い出す最重要ポイントは「信仰」だと言うことになります。
マルコ16:17-18に書いてあることをそのまま信じる。マタイ21:21、マルコ11:23がその通りになると信じる。そうして信じ切って、悪霊に命令すれば、サタンや悪霊は、主イエスの名による命令を聞かなければならないことになっているので(エペソ1:21)、言われた悪霊は、言ったその通りになります。

これが悪霊の追い出しの、ごく簡単なやり方です。

(もっと詳しいやり方は、この投稿でまとめた関連投稿群に書いてあります)
 



問題は、一般的に、現代のクリスチャンは、この世の言葉を膨大に浴びて育ってきているので、神の言葉を幼子のように信じる信仰が持ちにくいことです。

悪霊を追い出す信仰は、主イエスの名によって天の父に何かを求めてかなえていただく信仰です。信仰の根本は同じです。

信仰がある → 
主イエスの名によって言う/祈る/宣言する → 
そこに神の力が働く → 
悪霊が出て行く/祈りがかなえられる

この大元の信仰を得るには、このブログで何度も書いている、
・ヨシュア記1:8、詩篇1:2に基づいて、
・キリストについてのみことば(ローマ10:17)を、
・毎日30分以上、口ずさむ(音読する)
をやるだけです。

21日間だけだと足らないようで、40日程度はやりきることが求められます。
それによって幼子のような信仰が得られます。私の周囲には何人か、これを行なって、幼子のような信仰を獲得し、祈りがかなえられるようになったり、しっかりとした信仰を確立した人たちがいます。

聖書のどの部分が良いかは、私のTwitterのここの固定ツイートとそれに続くツイート(投稿)で案内しています。

今泉のTwitter固定ツイート

 

40日間、1日30分以上、キリストについてのみことばを口ずさみ続けた後、上のように言ってみてください。悪霊は出て行きます。(もっと詳しいやり方は、この投稿でまとめた関連投稿群に書いてあります)





付録です。

孤児の霊は、聖書ではサムエル記第二のダビデと息子アブサロムの間のエピソードに原型があります。

サムエル記第二12章〜18章

・ダビデがバテシェバと罪を犯し、ウリヤを死に追いやったことで、預言者ナタンはダビデの家に起こるわざわいを預言。
・その預言が、息子アブサロムによる父ダビデに対する敵対行為として成就。
・それに先立ってダビデは、アブサロムに対して「私の顔を見ることはならぬ」と遠ざけた。これにより、霊的にはアブサロムが孤児となった。(霊的に孤児性がこびりついた格好)(サムエル第二14:24)
・アブサロムが死の前に立てた「一本の柱」(私の名を覚えてくれる息子はいないからと言いながら立てた)が、アブサロムにこびりついた孤児性の象徴となった。一種の呪いの原型となった。(サムエル第二18:18)
・サタンはここに原型がある孤児の霊を、色々な場所で、色々な人に送り込む。

以上です。