日曜投稿:天の父に祈るとかなえられるとはどういうことか? | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

ilirjan rrumbullaku

 

 

 

新約聖書の複数の箇所の記述を元にすると、祈りは、原則的に、かなえられるものだ、という理解ができます。祈りは、基本的には、かなえられるのが当然だ。聖書の記述を元にすると、素直に解釈すれば、そうなります。

 

何でも求めて、かなえていただく

例えば、ヤコブの手紙4章では、神に願っても受けられないのは、「悪い動機で願うから」だと記しています。自分勝手な思い、利己的な願い、人を踏みにじるような祈りは、聞かれないと解釈すべきでしょう。

あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。
願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。

(ヤコブ4:2-3)

しかし、こうした「祈りがかなえられない理由」ないし「祈りが聞かれないケース」がいくつかあったとしても、私たちは祈るべきです。ヨハネの福音書には「何でも求めなさい」と書いてあります。

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
(ヨハネ15:7)

私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって、神の義とされるだけでなく、神の子どもとなっています。なので、イエスの名によって祈ると、祈りがかなえられるのです(ヨハネ16:23)。

「神の義」とはどんな状態か?

実は、神の義であることも、神の子どもであることも、日常的に生きている私たちの想像の域をはるかに超えた、ものすごい事柄です。

「神の義」については、少し補足説明が必要だと思います。

「神の義」とは、神がその人を義として下さること。「義」とは英語で"Righteousness"。古くからの日本語にはなかった概念ですが、平たく言えば「神からの目線で、その人に何の罪も汚れもないこと」。「まっさらになっていること」。「責めるべきものが何もない状態になっていること」です。

この場合の「罪」とは人間が作った刑法などの法律による罪ではなく、「神から見て、的が外れた状態にあること」です(参考:聖書で言う「罪」と日本語で言う「罪」が少し異なることについて )。

 


神から見て的外れである罪とは、例えば、真の神である天の父、御子イエス、聖霊以外の神を拝んだり、祈ったり、祈願したり…などということがあれば、基本的に愛そのものであられる聖書の神から見れば、大変に悲しい行為をしているということになります。十戒の偶像崇拝の罪を持ち出すまでもなく、愛であられる神が、愛ゆえに人間を創造し、かつ御子をこの地の上に送って救いの道を開かれたのに、それでもなお別な神々を拝んでいる…。ということがあれば、神から見れば、それは「的外れ」です。神からの目線では「罪」です。たとえ刑法上の犯罪を犯していなくても、神から見れば「罪」なのです。

同様に、結婚(男女間の契約)によらない性交渉や、妻を持っている、あるいは、夫を持っている人が、結婚相手以外の人と性交渉を持つことも、神から見たら「的外れ」。神はそのように人間をお造りになさらなかったので「罪」ということになります。

イエス・キリストを信じる信仰によって神の義になっているということは、こうした神からの目線で「罪」である状態が、まったく洗われたようになって、何の「罪」も認められない。その人に「義」しか認められない。そういう状態になっているということです。

(なおこれは、人間が構成されている霊・魂・肉のうち、まず「霊」において「神の義」となるということだと解釈しています。霊が神の義となり、それによって魂(知情意)が神の義を帯び、それに続いて肉にも神の義であることが現れる。例えば癒しが起こる、という順序です。)

なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。
しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

(ローマ3:20-24)

上が、主イエス・キリストを信じる信仰による神の義に関する、鍵となる聖句です。
なお、主イエス・キリストを信じる信仰。これには、十字架とよみがえりに関する信仰が含まれます。それについては各自聖書を読んで、理解を深めることが必要でしょう。

信仰によって神の義となれるのはなぜか?

なぜ「信仰」があれば「神の義」となるのか?

これは、「聖書にそう書いてあるから、そうなのだ」と言うだけでは堂々巡りかも知れません。

ここにあるものを、紐解かなければなりません。
以下で紐解いてみましょう。

1. 信仰は、神の言葉を聞くことによって生じます。特に「キリストについてのみことば」を聞くことによって、信仰が生じます。ローマ10:17に書いてある通りです。過去の色々な人の取り組みや私の事例からも、「一定期間、神の言葉を聞き続ける必要がある」「神の言葉を一定期間聞き続けることによって、不信仰を洗い流す必要がある」ということを、何度もこのブログで述べてきています。先週の投稿をお読み下さい


2. 信仰が生じると、聖書に書いてある神の言葉、いわゆるみことばが、神の言葉として自分に響いてきます。霊・魂・肉でできている自分の「霊」の部分に生き生きと働きかけ、神の言葉が本来持っている「霊」と「命」(ヨハネ6:63)が自分の「霊」を活性化させます。簡単に言うと、そのみことばが言っていることに関する信仰が立ち上がります。神の言葉は人間の言葉とは異なり、神の力が働きますから、そういう人知をはるかに超えた働きがあるのです。「キリストについてのみことば」(ローマ10:17)が持つ力です。

3. 主イエス・キリストを信じる信仰によって神の義とされることについて記してある、上記ローマ3:20-24を何度も何度も音読して、自分の耳で聞いて、咀嚼して、理解して、音読して、耳で聞いて、咀嚼して、理解して…を繰り返しているうちに、「ああ、なるほどそうか!」「私はイエス様を信じているから『神の義』になっているんだ!」と一瞬のうちに全的にわかる時がきます。すべてが理解できる。なぜなら神の言葉の「霊」と「命」(ヨハネ6:63)が神の働きをなして、自分の「霊」を刷新し、古い考えや古い理解や凝り固まった先入観を突き崩して、神の言葉が本来持っている純粋な意味を鮮明に開示してくれるからです。「ああ、そうか!」「そういうことなのか!」「自分は『神の義』となっているんだ!ハレルヤ!」という展開です。これには聖霊の助けも大いに影響しています。こういう理解を「啓示」と言う人もいます。神の助けによる神の言葉の理解なので、啓示と言うこともできるでしょう。

そのようにして、信仰によって、自分が神の義であること、神の義とされていることがわかるのです。それは神の言葉により、信仰により、神の言葉の意味が紐解かれて、わかるのです。(現代人はまず神の言葉を一定期間口ずさみ続け、現代人固有の不信仰を洗い流すことによって、このことが起こる…ということは先週の投稿でまとめた通りです。)

わかってみると、自分が、天の父に向き合う時に、まっさらな、一点の汚れもない、聖なる者として向き合うことができる。そのことを実感できます。十字架により救って下さった主イエス・キリスト
を通じて、天の父に向き合う時に、晴れ晴れとした心で向き合うことができるのです。ハレルヤ!

◎脱線:初代教会が失われたので

私がなぜこのブログで、こうしたことを書いているかと言うと、プロテスタント教会に通っていても、神が共にいて、生き生きと働いて下さることからくる喜びをほとんど感じたことがない方が、ものすごく多いという現実をたくさん見てきたからです。祈りがかなえられたという喜びをほとんど知らない。祈りがかなえられるものだとは考えていない。神の癒しが本当にあるのだということを知らない。悪霊に対して聖書のみことばによって対処できるのだということを経験したことがない。そういう人たちが、残念ながらものすごく多いです。もちろん私もそういう一人でした。

聖書に書かれていることは真実。神のみことばは現実になる。信じる人には、マルコ16章末尾に記されているように、主イエスの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語り(これは信仰に基づく言葉を自分の口から出す=主イエスが信仰を持って山に動けと言うことを教えた、そのことです)、蛇(サタン)をもつかみ、毒を飲んでも害を受けず、病人に手を置けば病人は癒される。このような「信じていることのしるし」が伴う。これもはっきりと書いていることです。初代教会の頃には信徒が普通に行っていたことです。

これがなぜか失われてしまった。結果として、キリスト教会に通っているとしても、少なからぬ人が悪霊の問題に悩まされ(問題の根幹は実は悪霊であるケースが少なくないです)、福音がもたらす自然な喜びがほとんどなく、この世の人のように暮らしている。それは何かおかしい。

これは個々の教会がよくない、個々の会派がよくない、と言うのとは本質的に違う問題です。私も理解が浅かった時期には、色々な教会や会派に対して、かなり激しく非難していたことがありました。今は深く悔い改めています。個別の教会や会派の問題ではない。

先日祈っていて、天の父が、どのような小さな教会に対しても、どのような小さな主イエスの名によって集まる集まりに対しても、尊い想いを持たれて愛しておられるのが、よく理解できました。また、主イエスはそれらの教会や集会にいらっしゃいます。

現在ある、上に書いた問題は、たどっていくと、キリスト教会史に深く根ざした問題であるということが、だんだんと見えてきます。初代教会が歴史のどこかで断絶してしまっています。

少し資料をたどって、キリスト教史において、「使徒時代」(Apostolic Age)と呼ばれている時代と「前ニカイア期」(Ante-Nicene period)と呼ばれている時代の間に、おそらく初代教会が失われてしまったらしい、ぐらいは理解できますが、私はキリスト教史の学者ではないため、細かな推移を検証することができません。


ポイントは、聖霊に対する姿勢ではないかと考えています。
現在でも、ペンテコステの日は「教会が始まった日」としてプロテスタント教会では祝われています。教会に聖霊が降った日です。
聖霊が働いていれば、ペテロが足なえの人に対して行ったような奇跡が、できます。正確に言えば、信仰により、主イエスの名によって、何かを言う時に、そこに天の父が全知全能の御業を現して下さることによって、奇跡が起きるのです。その関連については少し前のデュナミスに関する投稿で整理しました

聖霊が降っていれば、初代教会と同じことができるのです。あえて単純に記します。

聖霊は「受ける」ものです。聖霊は「論じる」ものではありません。

使徒時代と前ニカイア期の間に、当時の教会群において、「聖霊を受ける教会」から「聖霊を論じる教会」への変質が起こったのかな、ぐらいの推察をしています。しかしそれも推察であって、正しいかどうかは確かめようがありません。

言えるのは、初代教会は、その頃に失われてしまったのです。従って、その頃から、例えばマルコ最終章に書いてある「信じる者に働くしるし」は、聖書のテキストの上にだけ存在するものになってしまった。パウロが第一コリントで書いている御霊の賜物は、第一コリントのテキストにだけ書かれているものになってしまった。誰もそれが生き生きと働くのを見たことがない。
これらに取り組んでいるごく少数の教会やミニスターがいます。けれども…、みんな初代教会というお手本が消えてしまった時代に、お手本がない中で、聖書のみを頼りに、また、聖霊の導きを頼りに進んでいるので、取り組みが部分的なように見えます。悪霊の追い出しを行うミニスターがいる。癒しに取り組むミニスターがいる。奇跡を信じる教会がある。死者をよみがえらせるミニスターがいる…。主イエスの命令に従うなら、これらは全て弟子が行うひとまとまりのものです(マタイ10:8)。

パウロが信じる者に働く神の優れた力(1:19)と書いているその優れた力、デュナミスとは、奇跡であり、癒しであり、悪霊の追い出しであり、死人がよみがえることです。これは、その人に帰属する力ではなくて、その人の信仰により、主イエスの名によって、神の力(それこそがデュナミスです)が現れて起こる、神の働きです。神の栄光の現れ、そのものです。従って、それに続いて、主イエスの御名が賛美され、天の父の栄光がほめたたえられなければなりません。(たとえ死人をよみがえらせるミニスターがいたとしても、ほめたたえられるべきは神です。主イエス・キリストです)

信じる者に働くデュナミスが、現代において必要なのかどうかという議論ももちろんあるでしょう。

信じる者に働くしるし、信じる者に働く神の優れた力。これを追い求めていくと、デュナミス教になってしまいます。デュナミスが偶像崇拝の偶像になってしまいます。

そうではなく、神のみことば。神のみことばを信仰によって、生き生きと受け止めることにより、結果として、そこでは癒しが起こり、悪霊が追い出される。そういうことではないのか、と考えています。初代教会も、新約聖書を細かく読むと、みことばを宣べ伝えていた、ということがよく理解できます。

脱線が長くなってしまいましたが、本論に戻ります。

おおそうか!天の父の子どもなんだ!

自分が、主イエス・キリストを信じる信仰によって「神の子ども」である。このことも、みことばを根拠として、それについての信仰が立ち上がることで、「ああ、私は実際に天の父の子どもなんだ!ハレルヤ!」と、全的にわかる時が来ます。

この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

(ヨハネ1:10-13)

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。
私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

(ローマ8:14-16)

あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。
(ガラテヤ3:26)

このことも、根拠となるみことばがあり(キリストについてのみことば)、信仰があることによって、生き生きと私たちに迫ってくる、自ずと理解されてくる事柄です。
(ではその信仰はと言えば、現代人は生まれてから無数のメディアによってこの世の言葉を浴びて育ってきているため、それによる不信仰がびっしりとこびり付いている状態になっています。従って、聖書のみことばに接しても、心の底では信じられません。信仰が立ち上がるためには、不信仰をみことばによって洗い流すことが不可欠。先週の投稿でまとめた内容により不信仰を洗い流して、幼子のような信仰を得るということになります。いったん幼子のような信仰が獲得できると、上のみことばについても、自然に信仰が立ち上がって、「ああ、私は天の父の子どもなんだ!」という確信が生じてきます。その確信を奪うものは何もありません)

自分が神の子どもであると理解できると、「おおそうか!天の父の子どもなんだ!すばらしい!ハレルヤ!ハレルヤ!」と、飛び上がるような喜びが沸き起こってきます。

 

神の義となり神の子として祈るなら

主イエス・キリストを信じる信仰によって、神の義とされ、神の子どもとなっている。これほどすばらしいものはありません。お金に代えがたい、何物にも代えがたい、天的な喜びです。ハレルヤ!
実はこれが、主イエスが説いた永遠の命につながっています。

その位置付けを得て、主イエスの名によって、天の父に祈るのです。この祈りの立ち位置は、ヨハネ14章から17章を繰り返し読むことで、よく理解できてきます。

その祈りはかなえられます。

時々かなえられないこともあります。そういう時には、主イエス・キリストの基本的な命令を守っていない(例えば赦していない人がいる、親兄弟を含め)、あるいは、神の御心に合わない祈りになっている、ということを学ばせられるでしょう。

何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。

(第一コリント5:14-15)

「主の祈り」で自分の立ち位置を知る

もう1つ、祈りの立ち位置について参考になる「主の祈り」について記します。

神の義とされた者として、神の子どもとして、天の父に向き合う。主イエスの教えに従って、ヨハネの福音書14章から17章で繰り返し説明されている、御子イエスと天の父との関係。御子イエスと私たちとの関係。こうした関係の理解をベースにして、主イエスの名によって、天の父に何でも求めることができる関係に立つことができます。

天の父と向き合う時、神の義とされているので、何らやましいことはありません。むしろ、主イエス・キリストの十字架によって完全に罪からあがなわれた、まっさらな存在として、晴れ晴れとして、喜びに満ちて天の父に向き合うことができます。

また、すでに神の子どもとなっています!子どもとして、天の父に求めることができるのです。これほどすばらしいみことばの保証があるでしょうか。

この時の自分の立ち位置は、主イエスが教えて下さった「主の祈り」によく表されています。どのようにして天の父に向き合えば良いのか?主イエスが教えて下さった「主の祈り」にある立ち位置で向き合えば良いのです。

主の祈りとは、ご存じでしょうけれども、マタイ6章にある、弟子たちに「どのように祈ったら良いのか?」問われて、イエス様ご自身が教えて下さった祈りです。同じ内容がルカ11章にもありますが、教会では伝統的にマタイ6章の内容を「主の祈り」として頻繁に祈ります。

だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』[国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。]

(マタイ6:9-13)

ここでの主イエスの教えは「自分たちの父に祈る」ということです。それも「父の子どもとして祈る」ということです。

「父の子どもとして祈ることができる」。このことが、本当に理解されると、なんでかんでも、とにかく天の父に求めて祈る、ということが、だんだんとできてきます。あれも祈ってみよう。これも祈ってみよう。それを主イエスの名によって祈る。そうすると、すぐにかなえていただける。感謝せざるを得ない。賛美せざるを得ない。祈る。かなえられる。ハレルヤ!祈る。かなえられる。ハレルヤ!そういう善循環に入っていきます。