何度か書いていますけれども。
聖書を貫く基本は、神の言葉に聞いて従うということです。そうすれば、祝福が来るよ、ということが、創世記から、黙示録まで、至るところに書かれています。
イエス・キリストが出現して以降は、イエス様のお言葉に従って、聞いて信じる。イエス・キリストを信じる信仰によって、イエス様が十字架とよみがえりによって達成されたものが、すべて、その信仰のゆえにいただける。基本はそうしたシンプルなものです。
イエス様ご自身も、「私を愛する者は、私の言葉を守ります」とおっしゃっています。
これも、イエス様の言葉を聞いて信じる、ということです。
また、聖書の言葉全体が、イエス・キリストでもある、ということも、いずれわかってきます。すなわち、イエス・キリストは、生きた神の言葉です。それが、人の子となって地上に下り、色々によいことをなさって、最後的には十字架に付けられることを受け入れて(これも天の父の言葉に従ったということです)、私たちの身代わりとなって罪を引き受け、罪の赦しのための道を開いて下さいました。
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この「罪」ですが、日本語で普通に考えると、どうしても、刑法上の罪のニュアンスがつきまといます。
イエス・キリストによって罪が赦された。
イエス・キリストによって罪があがなわれた。
と言われても、「私、罪を犯していないし…」という反応が、あるということを聞きます。
これは、刑法上の罪のことが念頭にあるからだと思います。
日本語の一般的な「罪」と、新約聖書で「罪」と訳されている元々のギリシャ語の「ハマルティア」とは、少し…と言いますか、かなり中身が違うのだ、ということに、今朝気づきました。
ギリシャ語「ハマルティア」の元々の意味は「的からはずれた状態」だと、よく解説されます。それは私も過去に何度も複数の教会で聴いてきたことです。
今朝、改めて、この「ハマルティア」のギリシャ語の意味を確かめていて、この「的からはずれている状態」とは、
1. 「神の言葉からはずれている状態」、
2. 「神の言葉を守っていない状態」、
3. 「神の言葉とは関係なく生きている状態」
のいずれかであることに気づきました。
上でも記したように、聖書の基本中の基本は、神の言葉に聞いて従う、ということです。
イエス様の福音書のメッセージも、骨格は、イエス様の言葉を聞いて信じると、イコール、聞いて従うと、約束されたものが来る、ということです。
神の言葉の中に入っている状態が、よい状態なわけです。パウロ書簡では「神の義」になっている状態だと表現しています。
ギリシャ語の「罪」、「ハマルティア」とは、その逆です。
改めて書きますが、次のような状態です。
1. 「神の言葉からはずれている状態」、
2. 「神の言葉を守っていない状態」、
3. 「神の言葉とは関係なく生きている状態」
これが罪だと言うのです。
旧訳聖書の冒頭にある十戒も、これらの戒めに従いなさい、ということでした。
従わないのなら、それは神の言葉からはずれた状態=罪、ということになります。
申命記28章には、祝福を受ける条件と呪いを受ける条件とが書いてあります。神の言葉に聞き従うなら、すべての祝福が臨む。神の言葉に聞き従わないのなら、すべての呪いが臨む。つまり、神の言葉からはずれた状態になると、それはすなわち、「ハマルティア」の状態であり、罪である、ということです。
(厳密に言えば、旧約聖書の原語のヘブライ語の「罪」は、もう少し違う意味を持っています)
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主イエス・キリストが十字架で罪のあがないを達成して下さったこと。
主イエス・キリストを信じれば、罪が赦されるということ。
これは、「神の言葉からはずれた状態で生きてきた私たち」が、それを白紙状態にしてもらえるということです。
そうして、なおすばらしいことに、神の子としていただけるということです(ガラテヤ3:26)。
これは、日本のわれわれにとっては、大変に大きな意味があります。
多くの日本の人たちは、聖書の神の言葉とは、縁遠い形で生きてきています。
そうした、神からはずれた状況にある私たちが、イエス・キリストの十字架によって、神の保護の中に、神の祝福の中に、神が数千年の期間をかけてご用意下さっている永遠の救いの中に、入っていけるのです。
それが、罪が赦されたということであり、罪があがなわれた、ということです。
つまり、神の言葉にぴったりと添った生き方になる、ということです。
神の言葉に聞き従うのです。神の言葉を聞いて信じるのです。
アーメン