主イエスは、誰でも私を愛する者は私の言葉を守ります、とおっしゃっています。
イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
(ヨハネの福音書14:23)
この「守る」と訳されている言葉のギリシャ語原典の意味を確かめてみると、
・見張る
・敵の攻撃から守る
という意味だそうです。
みことばは種である、という記述も聖書にありますから(マルコ4:14)、イエス様の言葉を、注意深く、手塩にかけて育てながら、敵=サタンがそれを破壊しないように防御する、という意味合いになるでしょうか。
創世記の冒頭から、神の言葉に敵対した行動をとってきたのがサタンです。
神の言葉が実を結ばないように、色々な形で邪魔をしかけてきます。
そのままストレートに信仰をもって、口ずさみ続けていれば=祈り続けていれば=告白し続けていれば、それが実現するというのが神の言葉です。また、三十倍、六十倍、百倍の実を結びます。
神の言葉には神が働きます。それをサタンが嫌って、信じさせないように邪魔をしたり、神の言葉がその人において実を結ばないように、様々なことをしてきます。
イエス様を愛する人は、そうしたサタンの動きから、イエス様の言葉を防御するという意味が、上のヨハネ14:23にはあります。
イエス様を愛する人は、そのように、イエス様の言葉を注意深く見張って、敵が何かをしないように防ぐ。そのように、イエス様の言葉を大切にする。
そういう風に、御子イエスの言葉を守る人は、天の父も愛して下さる。そうして、聖書で約束されている、すべてのよいことが、その人と家族に及ぶ。そういう関係があります。
わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。
(ヨハネの福音書14:21)
◎
また、神の言葉を大切にする姿勢を取り始めると、そこに聖霊の助けがきます。
聖霊も神であるので、人間だけでは無理な色々なことも、聖霊が助けて下さって、できるようになります。
イエス様の言葉を守ることも、聖霊の助けがあれば、しっかりと、できます。
◎
イエス・キリストを信じていない時、イエス様の言葉を知らないですから、その人は、イエス様の言葉と関係なく生きています。
イエス様の言葉を知らないと、イエス様の言葉を守ることもできません。
ひとつ前の投稿では、ギリシャ語原典の意味を調べると、「罪」の意味は、神の言葉からはずれた状態を言うのだ、という仮説をお出ししました。聖書の色々な箇所にこの仮説を適用してみると、うまく説明できるところが多々あるので、おそらくこの仮説は間違っていないと思います。
この仮説を適用すると、イエス様の言葉を知らずに生きている状態も、聖書で言う「罪」だということになります。多くの場合は、聖書の神ではない、別なものを信じています。そしてそれは聖書に照らすなら偶像であり、偶像崇拝の罪につながっていきます。
具体的に、何か悪いことをしたということがなくても、神の言葉と縁遠い生活をしている状況は、聖書で言う罪だと考えられます。
神から遠く、永遠の祝福の中にもいない…。この世のメカニズムに取り込まれている状況であり、天の父と御子イエスの統治の外にある…。それはすなわち、サタンの影響下にある状況です。神の言葉からはずれた状態=罪です。
理不尽な出来事があり、奴隷のような状態があり、自死と隣り合わせの悪夢のような生活があり、家族や配偶者との苦悩に満ちた日々がある。不眠やうつ、精神の不安定や慢性的な病苦。経済上の苦難。仕事の不遇などなど。これらは、聖書をよく理解していくなら、すべてがサタンから来たものであることがはっきりとわかってきます。すなわち、罪にまみれている状態だと解釈できます。
イエス・キリストが十字架で行ったのは、そうした「罪」から人々を解放するということです。
イエス・キリストを信じることで、神の言葉によって保護されていなかった人たち、サタンの影響下にあってこの世の奴隷の状況で様々な苦しみを経験している人たちが、天の父と御子イエスが統治する平安の中に導き入れられます。
それは、神の言葉の外にある状態から、神の言葉の内に入るということだと言えるでしょう。神の言葉の内側に入ることにより、神の言葉の守りが得られます。そこに神が働きます。
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
(ヨハネの福音書15:4)
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聖書のみことば=神の言葉=イエス様の言葉を、基本的なものを20程度選んで、毎日口ずさんでいると、聖霊が助けて下さって、段々と、どういう状態が神の言葉からはずれた状態なのか、はっきりと理解できるようになります。
神の言葉からはずれた状態=聖書で言う罪です。
旧訳聖書には、神の言葉に聞き従わないことが占いの罪である、という記述もあります。(サムエル記第一15:23)
ここで言う「占い」(divination)は、聖書の神以外のものに聞く、という大元の意味があります。神の言葉に聞き従わないことは、他の神に聞いていることにつながり、それは神の言葉の外にあること、イコール、聖書で言う罪である。そういう流れです。
神の言葉を毎日口ずさんでいると、どういう状況が神の言葉に聞き従っている状況か。どういう状況がそうでないか。それがわかってきます。
イエス・キリストは、罪のある人間の罪を赦すために、十字架にかけられました。
イエス・キリストご自身は、罪を犯したことがなかったのに、その罪なき小羊が十字架にかけられました。
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。
(コリント人への手紙第二5:21)
イエスに罪がなかったというのは、神の言葉からはずれたことが一度もなかったということを意味します。
そういう方が、進んで十字架にかかって下さったことにより、これまで神の言葉とは縁遠く生きてきた私たちも、神の言葉の内側に入れるのです。
また、神の言葉とは真逆の生き方をしてきた人が、神の平安の内に入るのです。
罪のある人=神の言葉の外で生きてきた人が、罪のない人=神の言葉を守ってきた御子イエスの十字架を見上げて信じる時、神の言葉のすべてのよい約束の中に入れるのです。
聖書の中に記されている言葉で、何かひとつ、自分の心に響く言葉があれば、それを何度も何度も口ずさんでみることです。何かがわかってくるでしょう。
なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
(ローマ人への手紙1:17)
ハレルヤ!