日曜投稿: 教会の一員として神に向き合う | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル



先週の日曜日から金曜日まで、バイオマス燃料の仕事で、インドネシアのジャカルタ、パダン、ペカンバル、ドゥマイを訪問していました。毎日飛行機か車で移動する強行軍でした。

特に大変だったのが、6月19日の朝から20日にかけて。
19日はジャカルタ・スカルノハッタ空港そばのホテルを朝3時に出て、5時25分発の国内便でリアウ州都ペカンバルの空港に7時過ぎに到着。そこで現地の協力者の方々と会い、彼らの車でドゥマイというパーム系燃料の集積地に出発。片道5時間かかりました。

ドゥマイで燃料関連の施設や港を視察し、遅い昼ごはんを軽く食べ、それからまた5時間の帰路につきました。途中、2件の関連施設の視察が加わり、ペカンバルのホテルに着いたのは夜の10時。そこで現地の協力者の方々と和やかに別れ、同行した日本のクライアントと軽くお疲れ様をして、ホテル近辺で軽食を取って寝たのが深夜1時。
翌20日は朝7時台の国内便でジャカルタへ戻る必要がありましたから、3時間だけ寝て朝4時半にはホテルを出ました。
ジャカルタへ戻る便は予約の関係で直行便ではなく、ジャンビという都市の経由便。直行便では2時間半で行くところを、4時間以上かけて戻りました。

さらに、日本に帰って来る便はマレーシアのクアラルンプールの経由便。ジャカルタからクアラルンプールまで3時間。クアラルンプールから羽田まで7時間。朝から夜までの長旅となりました。

このように毎日飛行機か車で移動する6日間が過ぎて、金曜の夜遅くに東京に帰り、昨日土曜日は昼まで寝ていました。しかし、起きてみると、あら不思議。疲れがほとんどないことに気づきました。どっとした疲れが自分のからだ中に残っているかと思ったのですが、起きてみると全然普通です。

それなので、昨日の午後には仕事関連の面談を一件こなし、近くに住んでいるクリスチャンの方と数時間の交わりを持つことができました。まことに感謝なことです。

主イエス・キリストを信じる者は、「あなたの若さは、鷲のように、新しくなる」(詩編103編)とありますから、それがそのまま成就していることを実感しました。ハレルヤ!



リアウ州都ペカンバル市内からドゥマイ市内へ向かう5時間の道沿いには、キリスト教会の建物が10分おきぐらいに見えてくる、大変に興味深い地区があります。Google Mapでは「プロテスタント教会」と明記されている教会もあるので、おそらくは、その地域にある教会はすべてがプロテスタント教会でしょう。

一つひとつの教会は、日本の典型的なプロテスタント教会と比べても、「小さい」とは言えない、むしろ、そこそこの大きさのある立派な建物です。規模感で言うと、信徒50名ぐらいで維持されている教会のように見えます。

そこは山間と言っていい地区で、人口密度がまばらなはずですから、1つの教会に信徒50名が集まるためには、地域のほぼ全世帯が集まる格好にならないといけないはずです。そういう教会が、比較的狭い地域に10程度、存在しているのです。キリスト教徒の人口密度が非常に高い、特別な地域だと言えるでしょう。

インドネシアはイスラム教の国家であり、国全体にイスラム教の伝統や文化が浸透しています。人口は2億3,000万人以上。そのうち87%がイスラム教徒です。世界最大のイスラム教人口を抱える国家だと、ウィキペディアの説明にあります。

インドネシアの色々な都市に滞在してみるとわかることですが、朝4時になると、ホテル近隣のモスクからイスラムの朗誦が響いてきます。スピーカーで流しているのですね。おおよそ1時間ぐらい続きます。
アフリカ・タンザニアの首都ダルエスサラームに滞在していた時にも、同じ早朝の朗誦を聞きました。イスラム教が浸透している国や都市ではどこでも、朝4時頃から、イスラム教の朗誦が流れてくるのでしょう。

また、世界のイスラム圏では5月頃から6月頃にかけて、1か月の断食月(ラマダン)があります。この時にはインドネシアでも、すべてのイスラム教徒が日の出から日の入りまで、何も食べない、何も飲まないという生活を送ります。断食月が国全体の習慣として定着しています。

こういう伝統・文化が浸透している国で、キリスト教徒として生活をしていくことは、おそらく並大抵のことではないと思います。人口比87%もいるイスラム教徒とは、大きく異なる生活スタイルを維持していかなければなりません。

ペカンバルからドゥマイへの道沿いに存在している10程度の教会群は、おそらくは、都市部では落ち着いたキリスト教徒としての生活を維持していくことができにくくて、新天地を求めて、その地域に定着したのではないかと思われます。

車で移動していると、連続して10分おきぐらいに現れるキリスト教会の建物には、不思議な感慨を覚えます。ああ、このようにして、イエス・キリストの信仰を守っているのなだと、素直に感動します。



聖書には、キリストは「教会」に与えられたと、はっきり書いてあります。

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

(エペソ人への手紙1章)

ここで「教会」と訳されている言葉は、ギリシャ語原典では「エクレーシア」という言葉です。意味は「人々の集まり」。聖書の文脈では「イエス・キリストが主であると信じる人々の集まり」となります。

日本語で「教会」と言うと、普通は、教会の建物を思い浮かべます。英語でも「Church」と言えば、英語圏の人は、普通は教会の建物を思い浮かべるでしょう。日本でもどこでも同じです。しかし、教会とは、イエス・キリストを信じる人の集まり。建物のことではありません。

地域に存在している一つひとつの教会も「教会」です。しかし、神は、地域教会のA教会にキリストを与え、B教会にキリストを与えないということはなさいませんから、上のエペソ1章のみことばが説く意味は、神がキリストを特定の地域教会にお与えになったのではなしに、目に見えない、世界規模の信徒の群れにお与えになった、と解釈するのが順当です。

イエス・キリストが主であると信じる人々の全体が、エペソ1章の言う教会です。

地域に存在している一つひとつの教会も、教会であることに違いはありませんが、世界全体のイエス・キリストを信じる人の集合体も目に見えない教会として存在しています。その大きな普遍的な教会に、神はキリストをお与えになったのです。

この真理は、こちらの教会ブログで特に受け手として意識している、地域教会に行けない方々、ないし、行く教会がない方々には大変に重要です。

理想は、ひとつの地域教会に結び付いていることです。しかし、色々な理由があって、教会に行くことができないという方々が多数いらっしゃることを、私はよく理解しています。
特定の地域教会に結び付けられずに、「教会から出ている」格好になっている場合、その人は多かれ少なかれ不安を感じると思います。「所属する教会がない状態の自分は、大丈夫だろうか?」と。

しかし、聖書のみことばを継続的に学び、詩編1編にあるように、朝晩それを口ずさみ、聖書のみことばの中に神が働かれることを信じて、主イエス・キリストに堅く結びついているならば(ヨハネの福音書14:23)、その人は、天から見れば、イエス・キリストを信じる世界規模の普遍的な教会の一員です。

たまたま、人生のある時期、通える教会がなくて、しんどい状況にあるとしても、主イエス・キリストを信じているならば、必ず、信仰の交わりを持つことができる兄弟姉妹が与えられます。場合によっては、このインターネットを通して与えられるということもあるでしょう。

この大きな普遍的な教会を理解する手がかりとなるのが、イエス・キリストを信じる信仰によって、アブラハムの子孫になっているという、パウロ書簡の記述です。



私たちは、旧約聖書をよく学んで、主イエス・キリストの十字架のあがないが、主なる神と信仰の父であるアブラハムとの契約をベースにしていることを、よく理解しなければなりません。

神は、アブラハムをお選びになり、ある時彼に現れて、祝福をお告げになりました。「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう」(創世記12章)と。

この後、アブラハムは、主を礼拝するようになり、主はアブラハムを祝福されて、金、銀、家畜を豊富に所有する者になりました。

しかし、アブラハムの妻サラは不妊の女であったので、アブラハムには子どもがありませんでした。アブラハムはそのことを悩み、自分に子どもがないことを神に率直に訴えました。
この状況で、神である主のことばがアブラハムに臨み、彼自身の子どもに連なる子孫が、数えきれない星のように増えるということをお告げになりました。アブラハムはこれを素直に信じました。神によって、高齢の自分に子どもが生まれ、その家系に連なる人々が無数に増えることを信じたのです。(創世記15章)

彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
(創世記15:6)

このアブラハムの素朴な信仰が、現代のわれわれにとっても、よく吟味すべき信仰の姿勢です。神の言葉を聞いて信じる。それがあるので、祝福があり、救いがあります。なお、どうすれば信仰が持てるかについては、過去2か月ほどの投稿何本かで書いていますから、お読みになって下さい。

そうして、創世記17章では、神である主は、九十九歳のアブラハムに現れて、契約を結びます。

「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」
「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ」
「わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう」
「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである」

(創世記17章)

この契約が、私たちの救いと祝福に関わる、根源的な契約となっています。
主イエス・キリストの十字架が、私たちを、この契約の中に入れて下さいます。

パウロが書いたローマ人への手紙では、「信仰による神の義」ということが強調されています。

これは、簡単に言うと、イエス・キリストを主であると信じて告白すること。すなわち、イエス・キリストが自分の神であり、救い主であり、人生において最優先の存在であると認めて、生きていくこと。そこの信仰がしっかりとあれば、その信仰によって、神が義と認めて下さるということです。

「義」とは、神の御前で正しいということ。神は聖なるお方ですから、罪に汚れた状態では、神の御前に立つことはできません。また、様々な恵みや祝福をいただくことができません。それが、神が義と認めて下さる状態になることによって、晴れて、感謝と賛美をもって、神の御前に立つことができるということです。

この「神の義」とされること。それが、イエス・キリストを信じる信仰にかかっているというのです。平たく言えば、イエス・キリストを信じさえすれば、神が義と認めて下さるのです。

聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。
働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。
何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。

(ローマ人への手紙4章)

この「聞いて、信じる」という点が、アブラハムと同じであることに留意すべきです。神の言葉を聞いて、信じるという姿勢は、アブラハムと同じ姿勢なのです。それでアブラハムは、信仰の父であると言われています。

そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。
(ローマ人への手紙4:16)

イエス・キリストは、ご自身が十字架にかかられることによって、神がアブラハムとの間に結ばれた契約を、ご自身を信じる人々に解き放たれました。主イエス・キリストを信じることによって、アブラハムの契約の中に、あわれみ深い神の恵みによって、組み入れられるのです。



このようにして、主イエス・キリストを信じる信仰によって、アブラハムの契約の中に入れられた人々が「教会」です。

神は、私たちの心の中のことはすべてご存知です。また、人間的な弱さのこともご存知です。つまづいても、主イエス・キリストにあって悔い改めるなら、赦して下さいます。
神から見れば、主イエス・キリストを信じている人は、アブラハムの子孫であり、ご自身の子なのです。(ローマ人への手紙8:15、ガラテヤ人への手紙4:5)

このアブラハムの子孫、主イエス・キリストを信じる信仰によって神の子どもとなった人たちが、エペソ1章で言われている、キリストが与えられた「教会」です。

従って、人生の一時期、所属する地域教会がなかったとしても、神から見れば、アブラハムの子孫であり、目に見えない大きな教会に属している神の子なのです。このことを忘れてはなりません。聖書にそう書いてあるから、そうなのです。



現在、ひとりでクリスチャンとして歩んでいる方々は、神に祈る時に、自分のこと以外に、大きな教会のことについても思いをはせて、祈るのがよいでしょう。

われわれは往々にして、祈る時には、自分の問題について祈りがちです。そこには、神と自分の関係はあります。しかし、神と教会の関係がある、とは言えません。エペソ1章の大きな教会について、しばらく反芻し、自分が、アブラハムの契約に連なる星の数のようなアブラハムの子孫であることに思いを致し、どのような祈りが神に喜ばれる祈りなのかを考えてみることは、大いに有益だと言えましょう。

多くの場合、自分が抱えている問題は、他のクリスチャンも抱えています。
また、ノンクリスチャンの方の場合も同様です。
祈る時には、自分と同じ問題を抱えている人のためにも祈るのがよいでしょう。

そのようにして、絶えず、目に見えない大きな教会の中の一員である自分という立場を意識して、神につながっていくならば、その人がひとりでいるということは、なくなるでしょう。
信仰を分かち合う兄弟姉妹と巡り合うチャンスも、増えてくるでしょう。

天から見れば、私たちは、アブラハムの子孫です。
イエス・キリストを主であると信じる者の群れです。
永遠の時間の流れの中では、聖書に書かれている通りに、神から選ばれた、神の子どもなのです。

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

(エペソ人への手紙1:3-7)