祈った後で賛美をすると良い理由 | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル


先日経験したことを書きます。


海外出張先で、私はクライアントにある施設を視察してもらい、その後の商談につなげる必要がありました。その日の訪問先は、現地の事情があり、急遽決まった訪問先で、私がまだ会ったことのない現地関係者の案内で、視察先に行くアレンジがなされていました。

初対面の人たち3名と、空港で落ち合い、車で移動が始まりました。

長い時間をかけて移動をして、「これが、ご要望の施設です」と案内されたところは、クライアントと私とが想像していたのとはまったく異なる、要件に満たない中身のものでした。



私も落胆しましたが、もっと大きな落胆を見せていたのはクライアントの方です。インドネシアまで来て、その都市にも飛行機で飛んできて、なお長い時間車で移動してきて、見せられたものが、まったく要件に満たないもの。温厚な方でしたが、あきれて物も言えないという感じでした。

私の落ち度というわけではなく、現地で諸々手配して下さった方のいくつかの行き違いなどがあり、現れた現象でしたが、しかし、落胆させるものであったことは確かでした。


空港から数時間かけて移動してきて、中身のない施設を見て、軽い昼食を食べていると、現地の案内役の人が「まだ、見るべきものがありますから、お連れしましょうか?」と提案してきました。そこは、この場所からまだ2時間ぐらい行った先のようで、往復の4時間を入れると、帰路の数時間と合わせて、ホテルにたどり着くのが深夜になってしまいます。

クライアントに尋ねると、「もういい、帰ろう」と一言。

あとは何も見ずに、数時間の陸路をひた走りに走って、帰ることになりました。


帰りの車中は重苦しい雰囲気でした。

離れた都市に飛行機でやってきて、何時間もかけて車で移動してきたのに、何も見るべきものはなく、そのまま帰る訳です。私はまだ良いものの、費用や時間を負担してやってきているクライアントの方の心境を思いやると、いたたまれなくなります。



私は、車中で祈りました。「主よ、ここから助け出してください。主イエスのお名前によって祈ります」


そうして、祈りがかなえられるためには、賛美が大変に重要であることに思いがいたり、詩篇の記憶している賛美のところを口ずさみ、賛美歌を小さな声で口ずさんで、1時間ぐらい、それを続けていました。

心の中では重苦しいものがわだかまっていましたが、賛美に思いを向けて、口ずさみ続けました。


車は空港のある都市に向けて一本道を走り続けています。


運転手が突然、ハンドルを右に切って、壁で囲まれた工場のようなところに入って行きました。そうして停まるとすぐに、私は車から降りて、あたりに目を見張りました。


私が過去に見たことのある、そのジャンルの施設で最大級の見事な設備と在庫とが目の前に広がっていました。視察のための写真を撮り、動画を写し、在庫のサンプルを集めました。クライアントも大いに喜んで、写真を撮っていました。実に大きな、体育館ほどもある施設でした。複数の作業員が一生懸命に働いており、重機が複数唸っていました。来たばかりのトラックからは、在庫が吐き出されていました。すばらしい光景でした。


事前にまったく予想もできないような、良い展開が、神から来るときには、必ず次の聖句が当てはまる状況になります。


まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

コリント人への手紙 第一 29


ハレルヤ!神に感謝しました。



その後しばらく走って、もうひとつ別なジャンルの施設に案内されました。そこはそこで、クライアントには初めての施設であったために、彼は喜んで視察をしていました。守秘の関係で1名しか施設に入れないというので、私は、施設内の従業員用食堂で休んでいました。


インドネシアの地方の町にある工場の従業員用食堂。木造でエアコンがなく、テーブルがいくつかと椅子があるだけの大雑把な空間です。冷蔵庫で飲料を売っており、それを買って飲んでいました。豆乳の甘いものでした。

現地の関係者2名と、同じテーブルに座り、言葉は通じないものの、お互いに満足した気持ちで、そこにゆったりと座っていました。

昼までの険悪な雰囲気は一掃されて、伸び伸びとした気持ちが各人にありました。窓から入ってきた夕方の日差しが食堂内に満ちて、そこには祝福がありました。


そこからの帰りの車中は実に和やかであり、クライアントも話が弾んで、いつまでも趣味の音楽の話を私に聞かせていました。


ホテルに着いて、案内してくれたインドネシア人の2人と別れるときには、戦場で共に戦った戦友と別れるかのように、しっかりと目を合わせて固い握手を交わしました。


主は、人の行いを喜ぶとき、その人の敵をも、その人と和らがせる。

箴言 167


彼らは「敵」ではありませんでしたが、初対面の人たち。このみことばが浮かびました。主が働かれる時、内輪の人間だけがうれしいのではなく、外部の方にもその喜びがあふれるのだということを、このみことばは言っていると思います。


ハレルヤ!


大変にすばらしい経験をしました。

どのような時にも、祈ること。また、祈った後は賛美をすること。そこに神が働かれます。