預言としての神の言葉 | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル



聖書の神の言葉には、預言としての性格もあります。

預言とは、いつか成就する言葉ということです。


昨日も書いた、基本的な聖書の言葉を20程度選んで、毎日口ずさみ続けていると、様々な変化が起こってきます。


昨日の投稿で引用した米国のキャロライン博士の説明では、脳の樹状ネットワークが刷新されて、新しい脳による新しい思考パターンが可能になるということでした。これは肉体に関する変化です。


また、脳が司る思考は、魂に関係しています。魂も刷新されると思います。


それと並行して、自分の霊も刷新されるということが起こると思います。私の経験から、このことを確信します。


イエス様は、自分が話す言葉は「霊である」とハッキリと述べています。


いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。

ヨハネの福音書 663


毎日毎日口ずさんでいる聖書の言葉は、霊でもあるのです。

従って、自分の霊にも働きかけが起こります。



これらによって、自分の肉体、魂、霊において、大きな変化が起こります。みことばを20程度、朝晩口ずさむことを続けていると、そのような大きな変化が起こるのです。


それと並行して、ある時、口ずさんでいたみことばのうちの一つとか二つが、知らぬ間に、成就していることに気づくでしょう。

毎日口ずさんできた聖句が、現実のものとなっているのです。



パウロがいた頃の初代教会が皆で集まってする礼拝とは、聖書の言葉を朗読することと、詩篇による賛美であったと言われています。

聖書の言葉を口から出すことが、礼拝になるのです。それが神の言葉だからでしょう。


この神の言葉を、天の父は、ずっと見張っておられます。


次のような主のことばが私にあった。「エレミヤ。あなたは何を見ているのか。」そこで私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」

すると主は私に仰せられた。「よく見たものだ。わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ。」

エレミヤ書 11112


神の言葉が成就するのを、神が見張っておられるのです。

口ずさみ続けていると、そういう領域に入っていきます。神との共同作業をしている格好になります。


そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。

イザヤ書 5511


アーメン