日曜投稿:天の父の栄光がほめたたえられること | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

 

聖書の神を理解する際のポイントは、御子イエスの十字架による福音や、主なる神とアブラハムとが結ばれた契約など、いくつかあります。
その一つに「天の父の栄光がほめたたえられること」があります。このことは、聖書を学んでいて、見落とされがちです。

以下は、主イエス・キリストの再臨の様を述べた節です。

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

(ピリピ人への手紙2:9-11)

人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。
(マタイの福音書16:27)

このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」
(マルコの福音書8:38)

御子イエスのことはよく学ばれています。神のことばは御子イエス・キリストであり、聖書全巻のテーマはイエス・キリストであるという捉え方は、正しいです。
しかし、そのイエス・キリストは、天の父の栄光を現すために十字架に付けられ、血を出されました。それもまた聖書的な真理です。御子イエスの背後には、天の父から来た栄光が輝いています。黙示録の終盤には次のように書かれています。

都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。
(黙示録21:23)

ここで書かれている「神の栄光」は、天の父の栄光であり、小羊とはイエス・キリストのことです。

ここで「栄光」について、その大元の意味を確認しておく必要があるでしょう。英語版聖書の翻訳訳20種を比較対象できるBible Hub
では旧約聖書のヘブライ語原典と新約聖書のギリシャ語原典を各節について確認することができ、そのヘブライ語ないしギリシャ語の一つひとつの語について、英訳辞典の形で意味を確かめることができます。日本語訳を読んでいてよくわからない時に、原典の該当箇所を探し出し、わからない部分の鍵となっているヘブライ語ないしギリシャ語を特定し、その語の英語の解説を読むことで、理解が大いに助けられます。

上掲の黙示録21:23のギリシャ語はこちら
栄光と訳されているギリシャ語"Doxa"(英語音訳)の意味はこちら


これによると、ギリシャ語の「栄光」=Doxaは、「言葉では言い表せない神の現れ・しるし・兆候」です。栄光という日本語は「光」のニュアンスが強いですが、原語のDoxaは、光以外のものをも含む、いわく言い難い「神であることのものすごい顕現」という意味を持っています。

父の栄光とは、光であると同時に、言葉では言い表せない父なる神の圧倒的な存在感、天地万物を創造したまいし唯一の神の力を帯びた現れ、だと言うことができるでしょう。



なぜ、この「天の父の栄光がほめたたえられること」をよく理解する必要があるのか?御子イエスが強調していることだからです。

御子イエスは天の父を愛しています。愛しているがゆえに、天の父のみこころを行って、十字架で私たちのあがないのための犠牲になることをよしとされました。この御子によって、天の父は栄光をお受けになるのです。

わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。

(ヨハネの福音書15:4-8)

みことばを40日以上、口ずさみ続けて、みことばによって洗われた形になって、ここのところを読んでみると、新しい理解が与えられるように思います。

まず、御子イエスはぶどうの木であるということ。
その御子イエスは、みことばであるということ(ヨハネの福音書冒頭)。
イエス・キリストに留まるということ、それは、みことばに留まるということ。みことばによって生き、みことばに従うということ。
そうすれば、何でもほしいものを求めることができ、それがかなえられるということ。

このことの内には、イエス・キリストにならう者となる、すなわち、パウロ書簡で書かれている「キリストの死にあずかるバプテスマ」を受けること、が含まれていると思います(イエス様は、天に上げられる前に、「わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」とおっしゃっています)。
キリストの死にあずかるバプテスマとは、自分の古い人がキリストとともに十字架に付けられて死に、そうして、新しい自分がキリストともによみがえる、という、きわめて霊的な道筋のことです。

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。

(ローマ人への手紙6:3-8)

ここにも「御父の栄光」が書かれています。
「古い人」とは肉としての自分、罪を犯し続けてきた自分です。聖書で言う罪とは、神の言葉から外れて生きること。神の言葉の枠の外で生き続けてきているので、古い自分は神の恩恵が受けられない状況にありました。
新しい「いのち」を得てよみがえった自分とは、聖霊を受けて、霊として刷新された自分のことです。この霊として新しくなった自分が、神の言葉が霊でもあるということをよく理解し、霊としての神の言葉を正しく用いることができるようになるのです。また、神の言葉に忠実に生きることができるようになります。そこに神の力がはたらきます。

イエス様とともに霊としてよみがえって聖霊により刷新された自分が、ヨハネ福音書15章によれば、「何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます」という恵みを受けられるのです。また、それによって、天の父が栄光をお受けになります。この、ほしいものがかなえられる恵みは、私たちのためでもありますが、最終的に、御子イエスの働きを通じて天の父が栄光をお受けになることが、聖書的な大団円です。それを御子イエスが強調しているのです。



以下の数節も、御子イエスは、天の父が栄光を受けられることについて説いています。

わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。
わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。
またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。

(ヨハネの福音書14:10-13)

ここのところも、ふだんは目に見えない霊として存在しておられる天の父。目に見える人の子として地上に来られた御子イエス。それと同時に、神のわざを果たしている御子イエスは、霊として存在している神でもあられました(御子イエスの口から出た言葉は霊でもありました)。その霊として存在している神であられた御子イエスが、「わたしが父におり、父がわたしにおられる」状態にあるのです。
そのように、目に見えない霊の部分と、目に見える部分とを区別して解釈すると、理解がしやすくなります。なお、目に見えない霊の部分に入っていくための鍵が信仰です。

信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

(へブル人への手紙11:1-3)

世界が「見えるものからできたのではない」とは、霊によってできている、という意味です。それはまた、神のことばによって造られているということにもなります。

この種の理解は、みことばを毎日口ずさんで、聖書のみことばが神の生きた言葉であることを直感的に理解できるようになると、理解がしやすくなると思います。また、聖霊がその理解を助けて下さいます。みことばを口ずさみ続けると、不信仰の覆いが洗い流されていき、上述のキリストの死にあずかるバプテスマのこともよくわかるようになります。それについてはひとつ前その前の投稿で書いています。

御子イエスは、ご自身の名によって求めることは何でも、それをして下さるとおっしゃっています。それは、天の父が御子イエスによって栄光をお受けになるためだとのことです。ここに、御子イエスの天の父に対する愛があります。御子イエスはあくまでも天の父のみこころに忠実に動かれ、十字架による全人類の罪のあがないという、全人類規模の業をなさいました。ご自身の栄光を求めたのではなく、天の父の栄光を求めて、それをなさったのです(ヨハネ7:18)。

御子によって天の父の栄光が現れるという文脈では、「イエスの名」が大きな鍵となっています。これについてはまた新しい話題ですので、別な機会に論じることができればと思います。

御子イエスが、天の父の栄光がほめたたえられるようになることを、大変に大切になさっていたということ。このことをよく理解すると、何かを祈って神に求める時に、聖書のイエス様の教えに基づいて祈る祈り方というものが、よくわかってきます。
また、御子イエスの名を用いて祈る際に、祈り方がよくわかってきます。
最終的には、天の父の栄光がほめたたえられるようになる、そのような祈りが求められています。自分のために何かがかなえられる、ということも大変に重要なことです。また、教会のために祈り、それがかなえられるということも大変に重要です。
しかしそれは、最終的には、御子イエスの働きを通じて、天の父の栄光がほめたたえられるために、祈りがかなえられるのです。

実は、イエス様は、ヨハネの福音書の14章と16章とで、ご自身の名前によって祈る祈り方について、2つのパターンを説明していらっしゃいます。私もこのことについては、最近、愛子ホーマン博士の教えの動画を見ていて明解に理解したことです。

これについても別な話題ということで、後日論じることができればと思います。

 

ハレルヤ!聖なる主の御名を賛美します!