日曜投稿:クリスチャンの難問「不信仰」をみことばで洗い流す | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Pedro Szekely

 

 

 

私が最初の教会(米国ケネス・ヘーゲンに源流がある単立教会)に通っていた頃のことを思い出すと、聖書を基にした牧師のメッセージを聞き、聖書を開き、神の言葉に触れるのは、毎週日曜日週1回だけの行為でした。仕事の用事がない限りは、比較的真面目に毎週教会に通うクリスチャンでしたが。

その時の私にとっての神は、週1回日曜日に通う教会の教会堂において、賛美の時に向き合う、何となく荘厳な感じと言いましょうか。あるいは、礼拝の最後で牧師が祈祷をする時に流れる音楽と祈祷の言葉と私たち信徒が向き合う厳粛な姿勢の中にある、何となく厳粛な感じだったり、というところではなかったかなと思います。
あの頃は、毎日祈るということはありませんでした。また、毎日聖書を読むこともありませんでした。当然ながら、生ける神について理解することもなければ、経験することもありませんでした。

天の父を知らず、主イエス・キリストの生きた姿を知らず、聖霊を知らずに生きていました。毎週教会に通ってはいても、です。

10年通いましたから、聖書のみことばの学びはかなりできているのです。毎年52週。うち仕事などで2割を休んだとして40週。毎年40回、そこの教会は牧師の説教に重点を置いており、毎週90分の説教があり、それを聞いていました。牧師の説教内容はみことばの学びであるため、信徒は必ずメモを取りながら、説教を録音しながら臨む習慣がありました。毎年40回、各90分の説教に接していると、10年も経てば、重要な部分についてはかなりの知識の蓄積量ができてきます。

主イエス・キリストの教えも、パウロ書簡のキーメッセージも、頭では理解していました。何年も教会に通うことで、そこそこの知識の蓄積量がありましたから。

しかし、生ける神を経験したことは、残念ながらありませんでした。
主イエスが説いている信仰が腹の底からわかったということは、ありませんでした。
祈りがかなえられたという経験は、なかったように記憶しています。祈りは、祈っても祈ってもかなえられない、何か難しい、とてつもなくハードルが高い何物かでした。

米国大手IT企業に職を得て良い報酬をいただきながら、その教会で知り合った妻と結婚し、息子が生まれ、大変に幸せな数年を過ごすことができたのは、まことに感謝なことです。

思い返せば、あの頃も、天の父は私を愛して下さっていらっしゃいましたし、主イエス・キリストの完全な救いは、聖書のみことばを通じて明らかにされていました。信仰がありさえすれば、目が開かれて、それらを十全に理解し、感謝し、賛美して生きられたのです。
聖霊の満たしをいただいて、毎朝毎晩祈りの時を持ち、天の父と、あるいは主イエスと交わる時を持つことができたのです。

しかし私にはそうした神の働きはわかりませんでした。

まったく、100%、この世の考え方に従って、この世のやり方で仕事の成功を求め、この世の基準で家庭の幸せを達成しようとし、つまりはこの世の神に従って生きていました。そうして、どんどん大きな過ちにはまり込んで行きました。

仕事のため、将来の収入確保のため、家族のため、ということで始めた新規事業の関連で(大手IT企業の職と新規事業とにダブルワークで取り組んでいました)、この世の神に従ったがために、罪に罪を重ね、悪に悪を重ねて、どんどん暗闇の中に入っていき、最終的にカタストロフが訪れました。妻と息子は私のもとを去り、私は教会を出され、よい報酬を得ていた職を失い、多くの人々にご協力をいただいて立ち上げていた新規事業も破綻。収入が途絶え、どうやって生きればいいのか?というところに追い込まれました。

あれからちょうど10年になります。



1つの教会に10年も通っていて、毎週毎週みことばの学びを基調とした牧師の説教を聞かせていただいていたのに、なぜ、神の働きを実感することがなかったのか。なぜ、祈りがかなえられた経験をすることがなかったのか。信仰が大切だと毎週のように教えられながら、なぜ幼子のような信仰を持てなかったのか。ローマ10:17の信仰についてのみことばを何度も何度も教えられながら、なぜ本当の信仰がなかったのか?信仰がありさえすれば、あのようなカタストロフにはならず、主イエス・キリストやパウロが説いた救いの中を歩めたはずでした。

そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
(ローマ10:17)

先日、あるクリスチャンの方とテキストメッセージでやり取りをしていて、「頭ではわかるんです」という言葉に接しました。「ああそうか、当時の私と同じだ」と思いました。

頭では聖書のみことばを理解できる。けれども…ということです。

けれども…の後に「信じることができない」が来るのか、「癒しがいただけない」「解放が起こらない」が来るのか、あるいは「救われていない今の自分がある」が来るのか。ケースバイケースでしょう。私の場合はそれらすべてだったです。

悪霊の問題も、ほぼ似たところがあります。

悪霊の追い出しに携わっていると、時々、複数のミニスターのところで悪霊の追い出しをやってもらったけれども、追い出せていない悪霊がいる。あるいは、悪霊の追い出しに取り組んだけれども、なかなか追い出せない。長いこと取り組んでいるけれども、解放が得られないというケースに接することがあります。どなたも大変に苦しんでいますから、かなり切実な問題です。

悪霊の追い出しに関する聖書のみことばはすべて十分に理解している。
どのような形でデリバランスがなされるのか、先行事例の動画などをよく見て理解している。しかし、学んだような解放が起こらない。複数のミニスターにもやってもらったけれども、自分の場合は完全な解放が起こっていない。これはなぜなのか?

簡単に言うと、「聖書には書いてある」。「しかし、そのことが起こらない」という問題です。私の過去の状況と同じです。

おそらく、現代のキリスト教会に通う多くのクリスチャンの方々も、同じような課題を抱えているのではないかと思います。過去に通った3つの教会の人たちや、Facebookで交流する色々なクリスチャンの方々を見ていても、課題を抱えている人は少なくないです。皆さん一生懸命教会に通っている。奉仕活動も行なっている。聖書も勉強している。しかし、救いや癒しや解放には遠い。。そういう方がむしろ多いのではないかと思います。

なおこれは、日本だけに限られた話ではなく、多かれ少なかれ、欧米の教会にも共通する課題だということは、ブダペストの米国人系教会とロンドンの家族的な多民族教会に3ヶ月ずつ通った経験からは、言えます。多かれ少なかれということですが。

一方で、個々の教会は大変に尊いものであり、いずれも主イエス・キリストの体を構成する一つひとつの器官であることに変わりはありません。私が最初に10年通った教会を含めて、それぞれの教会に良いところがあり、信徒が基本的なトレーニングを受ける場として機能しています。個々の教会には感謝しなければなりません。裁くことがあってはならないと思います。主イエス・キリストの教えに背くことになりますから。個々の教会を運営していく牧師や執事や奉仕者の働きは、主イエス・キリストにあって尊いものです。



問題の本質は「不信仰」にあることに気づきます。これは、主イエスの教えに照らしてもそうです。主イエス・キリストは、福音書の数カ所で、信仰があれば…できる、信仰がないから…となる、という意味の教えをおっしゃっています。後者を括れば「不信仰」です。
以下にいくつかのみことばを掲げます。どれも皆さんがよくご存知のものばかりです。

■信仰についての教え
イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。
(マタイ21:21)

しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです。
(ルカ17:6)

そのほか、五千人の給食の奇跡をなさった時の主イエスの弟子に対する姿勢は、最初は「あなた方が、あなた方の信仰によって、彼らに食べ物をやりなさい」というものでした。信仰があれば、あなた方ができる、というメッセージを読み取ることができます。

■不信仰の指摘
イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。
すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。
弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」
イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。
人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

(マタイ8:23-27)




不信仰の問題は、実は教会一般、クリスチャン全般に関わる普遍的な問題であることが、次の主イエスのちょっとした言葉からわかります。

あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」
(ルカ18:8)

主イエスは、預言者中の預言者であり、アルファでありオメガであられる方ですから(黙示録22:13)、終わりの日(正確には終わりの日々)のこともすべて見えています。ご自身が再臨される日はご存知ありませんが、再臨される時のこの地上の状況はよく見えていらっしゃるはずです。福音書の中の終わりの日ないし世の終わりに関する預言を読むと、そのことがよく理解できます。

その主イエスが、ご自身が再臨なさる時に、「はたして地上に信仰が見られるでしょうか」とおっしゃっています。つまり、信仰を持つことは簡単ではない、多くの場合は不信仰が見られる、ということをおっしゃっている。そのように解釈できます。

この、主イエスがおっしゃっている「信仰」とは、どのような信仰でしょうか?私は、マルコ最終章の末尾でおっしゃっている信仰だと思っています。

 

それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。
信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。
信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、
蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」

(マルコ16:15-18)



不信仰がなぜ生じるのか?不信仰を拭い去るのはなぜ難しいのか?
10年教会に通って聖書のみことばを学び続けても、不信仰がなくならないのはなぜなのか?

過去に試行錯誤しながら、不信仰の洗い流しと信仰の育みに取り組んできた経験から言うと、不信仰は、生まれてから今に至るまで聞き続けてきた「この世の言葉」の蓄積から来ています。ローマ10:17の逆のことが起こっています。再度引用します。

そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
(ローマ10:17)

このみことばが言っていることの逆で、「この世の神から来るこの世の言葉」を聞き続けていると、聖書的ではない信仰が形づくられる(*1)。すなわち、不信仰がその人の中にできあがる。これが、一部の牧師先生がおっしゃっている「古い思考の根」と呼ばれるものです。また、当ブログで過去何度も引用しているクリスチャンの脳科学者キャロライン・リーフ博士が以下の動画で説明している脳の樹状ネットワークの醜い萎縮した状態です。自分に不信仰の問題があるなと思われる方は、この動画をご覧になることをお勧めします。後の取り組みに対する心理的なインセンティブが大きく変化します。

*1:「この世の神から来るこの世の言葉を聞き続ける」とは、聖書をベースとしない、実に膨大な量の「子どもにとっての大人の言葉」「メディアから入ってくる言葉」「音楽、漫画、映画、ドラマ、小説などのメッセージ」「インターネットのテキスト群」などに接することを指します。生まれてから現在に至るまで、膨大な量になります。これによって、聖書の神の言葉に接しても、現代人的に反応してしまいます。すなわち、「嘘だろ」「論理的にありえない」「現代ではこのようなことは起こらない」などなど。それがすなわち不信仰です。

「脳を造り変える御言葉の力」キャロライン・リーフ博士

 

 


これが、ヨシュアのようにダビデのように、毎日みことばを素朴に口ずさみ続けることで、ローマ10:17が起こり、ヨシュア1:8の預言が成就し、詩篇1:2-3の預言が成就します。神のことばとは、そうした不思議な神の働きがあります。

この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。
(ヨシュア1:8)

まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。

その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
(詩篇1:2-3)

私は、現代の教会から失われてしまった、神のみことばを21日間なり、40日間なり、100日間なり口ずさみ続けるという、ごくごく素朴な、古代イスラエル人の習慣を素直に採り入れて、不信仰を洗い流し、幼子のようにまっさらな信仰を得るということに、誰もが取り組んでも良いと考えています。

このみことばの口ずさみには、実は、主イエスがみことばと実を結ぶことの関係について説いた内容が適合します。すなわち、実を結ぶ人は「良い地」である必要があります。その「良い地」にするために、ヨシュアのようにダビデのように、毎日みことばを口ずさみ続けるのです。

ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。
御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。
また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」

(マタイ13:18)



不信仰は、実際に、かなり深刻な問題です。
10年教会に通っても、救われたという実感が持てないというのは、素朴に考えれば、不思議なことです。

つまるところ、この世の神であるサタンが、以下のみことばにあるように「福音の光を輝かせないように」邪魔をしているのです。

その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。
(第二コリント4:4)

悪霊の追い出しや霊的な戦いに定常的に取り組んでいると、サタンや悪霊がどのように働いているかが、色々にわかるようになります。上のように「この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしている」というのは、実にリアリティがある記述であり、少なくない信徒においてこのことが起こっています。私の場合も、その一例ということでした。

不信仰は「あなたには不信仰があります」と言われても、何ともならない問題です(その前に「お前が言うな」ですが…)。
「信仰を持ちなさい。ローマ10:17に書いてあります」と教職者に教えられても、何ともなりません。言われて何とかなる問題ではないのです。
また、みことばを学ぶことを続けても、何ら解決する問題でないことは、私の経験から言えます。多くの方もそうでしょう。聖書を「勉強」するだけでは、不信仰を拭い去ることはできません。

みことばは神のことばなので、また、霊でもあるので、古代イスラエルの民のように愚直に素直に、毎日口ずさみ続けることでのみ、現代人固有の不信仰を洗い流すことができます。それによりエペソ5:26が起こります。ヨシュアに立ち返るのです(ヨシュア1:8)。ダビデに立ち返るのです(詩篇1:2)。

ごくごく素朴なことです。特定のみことばを選んで毎日30分程度、繰り返し繰り返し口ずさむ。それを21日なり40日なり続ける。先ほど関連の資料を読んでいて100日間続けると人格の変容が起こるとおっしゃっている先生がいることを思い出しました。キリストのようになるということです(第二コリント3:18)。

真の信仰を獲得するには、ローマ10:17がありますから「キリストについてのみことば」である必要があります。私はヨハネ14章〜17章ほど福音が凝縮されている箇所はないと考えているので、いつもここをお勧めしています。

私において不信仰の問題が完全に克服できたのは、実は過去1年のことです。
みことばを毎日口ずさみ続けて、何がどうなったか。昨年半ばの途中報告の投稿がこちらとこちらにありますので、ご興味のある方はお読み下さい。

2019年5月28日にFBグループに投稿した内容

 

 

”日曜投稿:クリスチャンとしてやり直す” (2019年7月14日)