日曜投稿:ジストニアその後 - 神の癒しについて | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

marneejill

 

 

聖書に基づく病の癒しについてまとめてみました。

 

目次
ジストニアが癒されたこと
信仰のあるなし:信仰があるから癒される
信仰のあるなし:不信仰があると癒されない可能性がある
癒しを祈る立場:信仰が一致した仲間と一緒に祈る
癒しを祈る立場:信仰がある人の「言葉」によって癒しが起こる
癒しを祈る立場:悪霊の追い出しと病の癒しとは同時並行
癒しを祈る立場:重要なこと。その人に対するあわれみ
癒しを受け取る立場:神の栄光が賛美されるところで癒しが起こる
癒しを受け取る立場:罪を犯していると、癒しが起こらない可能性がある
癒しを受け取る立場:人を赦していないと、病が癒されない可能性がある
癒しを受け取る立場:主イエスによる罪の赦しと病の癒しとが同時並行で起こることがある
まとめ

ジストニアが癒されたこと

私は、2013年頃に始まって2017年の終わり頃まで、ジストニアという深刻な病で悩んでいました。首都圏の神経内科の専門医に通い、この病気でよく処方される2種類の薬を飲み続けていた時期もありました。しかしそのうちに、1つの薬に物忘れがひどくなるという副作用があり、仕事に差し支えが出始めたことから、減薬・断薬に取り組み始め、最終的には薬を飲まない状態に移行しました。(なお、減薬・断薬に向く方と向かない方がいると思います。おやりになる時には、しっかりとした信仰を育んで、神に伺いつつ、医師のアドバイスもいただきつつ、慎重に歩んで下さい。)

一時期は斜頸(しゃけい)と呼ばれる首のこわばりがひどく、前を見てまっすぐに歩くことさえ困難な状況でしたが、最終的には自覚症状を感じない程度に快癒し、好きで聴いていたクラブミュージックを早いテンポで踊ることが普通にできるぐらいに身体能力が回復しました。前を向いて歩くのが大変だった頃は、週1--2回取り組んでいたジョギングも取りやめなければならない状況でしたが(まっすぐに走るには、右に旋回しようとする首を右手で押さえて修正しながら走らないといけない→つまりまっすぐに走れなかった)、現在ではウォーキングから始めて軽いジョギングもできるようになっています。歩いたり走ったりしている最中に、斜頸の症状を感じることはまったくありません。感謝なことです。

右首に軽いしこりのようなものは感じますが、首がこわばる自覚症状はまったくなく、生活への支障もまったくありません。8ビート、16ビートのクラブミュージックで細かくステップを踏んで、平衡感覚を保ったままいくらでも音楽に合わせて体を動かすこともできます。その気になればですが。

ジストニアは、知らぬ間に癒されました。
ハレルヤ!
癒し主であられる天の父に感謝します。
また、癒しの道を切り開いて下さった御子イエス・キリストに感謝します。

これは聖書的な癒しだと言ってよいと思います。神からの癒しです。イエス様と天の父に感謝します。

本投稿では、こうした聖書的な癒しがどのようなものか。聖書的な癒しをいただくにはどうすればいいのか。聖書の癒しに関するみことばを基にしつつ、自分の経験も踏まえて書きます。

それから、いくつかの機会を通じて、他の方の癒しのために祈ることがあります。奇跡的な癒しが起こることもあります。また、癒されないこともあります。こうした他の方の癒しについて祈らせていただいた経験からわかったことについても記します。

神からの癒しを求めている人の参考になれば幸いです。

信仰のあるなし:信仰があるから癒される

聖書の神に関することは、すべて「信仰」が基点になっています。
主イエス・キリストの救いの原点になっているアブラハムに神である主が現れた時、アブラハムは神の言葉を聞いて信じました。
彼が聞いて信じたことによって、その後の神と彼との関わりが始まりました。彼が信じなければ、その後の展開はありませんでした。

神の言葉を聞く。そうして信じる。そこに神の力が働く余地ができる。これが基本中の基本です。

イエス・キリストの救いも、信仰によって、生き生きとしたものになります。イエス・キリストが救い主であると信じる。イエス・キリストが十字架に付けられて死に、三日目によみがえったことを、福音書の記述をよく読んで(神の言葉を聞くことと同意)信じる。それによって、イエス・キリストを通じた神の救いが働く。

聖書の神の癒しも、信仰があることによって起こります。

以下は、重い皮膚病であるツァラアトが、「神の子であるイエスなら癒していただける」という信仰によって癒されたケースです。これはこの病を持った人たちが、「イエス」を知っており、「イエスが神の子である」「聖書で預言されていたメシア(救い主)である」ことを知っていて、「神の子ならば癒せる」「救い主ならば癒せる」という信仰を持っていたということです。その信仰に基づいて、実際にそうした癒しが起こったという展開です。

そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。
ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、
声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言った。
イエスはこれを見て言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中できよめられた。
そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。
そこでイエスは言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。
神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」
それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」

(ルカ17:11-19)

以下は、12年の長い間、長血が止まらずに深刻な状況にあった女性が、救い主であるイエスであれば癒していただけるという信仰をもってイエスの着物のふさに触ったところ、神の癒しが起こったケースです。

ときに、十二年の間長血をわずらった女がいた。だれにも直してもらえなかったこの女は、
イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった。すると、たちどころに出血が止まった。
イエスは、「わたしにさわったのは、だれですか」と言われた。みな自分ではないと言ったので、ペテロは、「先生。この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです」と言った。
しかし、イエスは、「だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから」と言われた。
女は、隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話した。
そこで、イエスは彼女に言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」

(ルカ8:43-48)

この長血の女性のケースも、事前に、このイエスがメシアであるという情報を得ていて、ユダヤ人ですからアブラハムから始まる神とイスラエルの民との歴史を聞かされており、モーセ五書や詩篇などを子どもの頃から読み、口ずさみ、聞かされて育ってきたので、「メシアが登場する」という信仰は持っていたものと思われます。「近くに来たイエスがメシアだ」、「メシアなら私の病気を必ず癒せる」という切実な信仰をもって、イエスに近づいて行って着物のふさに触った。
この行動は信仰の行動だと言えます。こうした信仰の行動をとったことにより、実際に神の力が働いた。そのことを主イエスは「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです」と言っています。信仰があったから癒しが起こったよ、ということを告げたのです。

この女性は別な福音書では、長年多くの医者にかかって、多くのお金を支出し、大変な思いをしてきた人であると記されています。つまり、メシア(救い主)による救いを強く強く求めていたのです。癒しと救いの双方が必要な状況だった。そこで信仰の行動に出た。そこに神の力が働いて奇跡が起こった、という展開です。

日本語で「奇跡」ないし「奇蹟」と訳されている言葉は、ギリシャ語原典では「デュナミス」。「神の力あるわざ」「神の力」というニュアンスを持つ言葉であることを先週述べました。

病で悩んでいる人の側に信仰があることによって癒しが起こる。奇跡が起こる。そういう原理があります。

信仰のあるなし:不信仰があると癒されない可能性がある

信仰があると癒されることの逆として、不信仰があると癒されないというパターンも聖書に記されています。
神の癒しは、神の癒しを信じているところで起こるので、神の癒しを信じていないところでは癒しが起こらない。単純にそういうことでしょう。

以下は、主イエスが郷里に行ったものの、郷里の人々は主イエスの幼い頃からのことをよく知っているので、「あのイエスが救世主であるはずがない」という思い込みがあり、それがために「あのイエスに神の癒しが起こせるはずがない」という不信仰につながり、そのために神の御業(みわざ)が現れなかったという展開です。

イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。
安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。
この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。
イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」
それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。
イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。

(マルコ6:1-6)

上で「力あるわざ」と訳されているのは、ギリシャ語原典では「デュナミス」。別な箇所では「奇跡」(奇蹟)と訳されている言葉です。信じる者に働く神の優れた力(エペソ1:19)です。この力は、周囲に不信仰があると現れないということを物語っています。「敬虔さ」があるところで癒しが起こる。「敬虔さ」がないところでは癒しは起きない、と単純化することができるような気がします。

これに近いケースとして、主イエスが死人をよみがえらせる際に、ごく限られた弟子のみを伴ってそのわざに当たられたということがあります。

イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」
イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」
そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。
彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、
中に入って、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」
人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へ入って行かれた。
そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい」という意味である。)
すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。

(マルコ5:35-42)

ここで、主イエスは、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのみを伴って、死んだ状態になっている少女をよみがえらせるわざを行われました。「〜のほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった」とは、誰も彼も一緒に行くことを認めずに、ごく限られた弟子だけを伴って行かれたということです。推測すれば、死者をよみがえらせる際には、その場にいる人々の信仰が大切であること。仮に不信仰がその場にあると、死者がよみがえる神のわざが起こらない可能性があるということです。これは、上記のイエス様の郷里で奇跡を現すのに困難があったということと同じです。そうした不信仰をその場に入れないように、弟子を限定したということだと思います。

クリスチャン生活を続けていると、瀕死の状況にある方のために祈りを求められることが多くあります。私は個人的には、この種の祈りは誰にも彼にも依頼するのではなく、ごく限られた、信仰が一致できる人とのみ、ごく少数で祈るべきだと考えています。それは上の「タリタ、クミ」とおっしゃった主イエスの行動を踏まえてのことです。

癒しを祈る立場:信仰が一致した仲間と一緒に祈る

ここからは、信仰のある方が、第三者に対して癒しが起こるように祈る、そういう時に必要な事柄について書きます。

 

例えば、あるクリスチャンの知人が病にかかっているとして、その人の病に、神の癒しが必ず起こるという健全な信仰を持っているクリスチャンが二人いたとします。癒しが必ず起こるという信仰において、これら二人の人は一致しています。疑うことを知りません。幼子のような信仰を持っています。
そういう状況で、二人で心を一つにして祈れば、その癒しが起こります。以下のみことばがあるからです。

まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。
まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

(マタイ18:18-20)

これは主イエスの預言であり、お約束です。
「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます」とありますので、これを幼子のように素直に信じて、その通りに祈るなら、その祈ったことがかなえられます。知人の病の癒しであれば、それが起こります。

ここでのポイントは、「心を一つにして祈る」ことにあります。信仰が一致している人と心を合わせて祈るのです。

別な側面から言えば、信仰が一致していない、あるいは、どちらかに「祈っても癒されることはない」という不信仰がある場合には、癒しの祈りがかなえられないことがあります。ここでも重要なのは信仰です。信仰が一致した人と一緒に祈るということです。

上の主イエスが死んだ状態になっている少女をよみがえらせた場面でも、「死者がよみがえるという信仰を一致させることができる弟子」のみを伴って行ったと解釈することができます。

ある祈祷会で数名で祈っていた時に、異言の祈りと賛美とが重ね合わさったような祈りの場となり、10分20分と祈り続けているうちに、その場にいた癒しを必要としていた人に、「あ、癒しが起こる」とハッキリとわかったことがあります。これは聖霊が教えてくれたのだと解釈しています。そうして、その人において奇跡的な癒しが起こりました。

また、オンラインでそれぞれ離れた場所にいながら、同時に祈るという祈祷会を行なっています。そこでも、ある癒しが必要な人のために祈っていると(同時に複数の兄弟姉妹が同じことを心を一つにして祈っています)、「あ、癒しが起こった」とわかることがあります。それも同じように、聖霊が教えてくれるのだと解釈しています。そのようにして実際に癒しが起こります。ハレルヤ!

癒しを祈る立場:信仰がある人の「言葉」によって癒しが起こる

聖書的な癒しに取り組んでいる教会や、教職者や、クリスチャンは、いるところにはかなりいます。多数派でないことが残念ですが、そういう方々はかなりいます。
いずれも、聖書のみことばを根拠として、色々なやり方によって癒しに取り組んでいます。そうして、経験的に「このようにすれば癒しが起こる」ということを把握して、それを実践しています。

先週の投稿の冒頭でも記したように、主イエス・キリストを信じている人は、主イエス・キリストと同じわざを行います。また、それよりももっと大きなわざを行います。このことの信仰があると、主イエスと同じように癒しを行うことができ、そこに神の御業が現れます。

主イエスは福音書の複数の箇所で、「みことばによって癒す」、つまり口で信仰の言葉を言って、それによって癒しが起こる、という御業をなさっています。これと同じことを、主イエスを信じる人は、信仰によって、主イエスの名を用いることによって、行うことができます。

この時重要なのは、「その人に癒しの力がある」わけではなく、その人が信仰をもって、主イエスの名によって口で言った言葉に、神の御業が働くということです。このパターンで癒しが起こると、往往にして周囲にいる人は、この人自身に癒しの力があるのだと錯覚したり、当人が「自分には癒しの力があるのだ」と高ぶりが来たりすることがありますが、それは誤りです。主イエスの名に力があり、信仰により働く神の優れた力に神の御業が働いています。

それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。
(マタイ8:13)

↑ここは、イエス様が、ご自身の信仰によって、あることを言った時に、そのような癒しが起こったという場面です。

夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた。
(マタイ8:16)

↑ここでは、「みことばをもって霊どもを追い出し」、また「(みことばをもって)病気の人をみないやされた」ということだと解釈します。

イエスはこれを見て言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中できよめられた。
(ルカ17:14)

↑ここも、イエス様がおっしゃったことが、現実になったというタイプの癒しです。

こうした、信仰をもって何かを言うことによって癒しが起こるパターンを、弟子であるペテロが実践しているのが以下です。先週も取り上げました。
↓ペテロは主イエスご本人ではないので、信仰をもって、主イエスの名によって、何かを言ったわけです。そうして、言った通りになった。なぜならそこに、ペテロの信仰に基づいて神の力(デュナミス)が働いたからです。

ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。
彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。
すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、
彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。
人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。

(使徒3:1-9)

主イエス・キリストを信じている人は、主イエスの名を用いることによって、主イエスと同じわざを行うことができる。これが新約聖書にある主イエス・キリストの教えです。

癒しを祈る立場:悪霊の追い出しと病の癒しとは同時並行

福音書の主イエスの癒しの箇所を拾って読むと、複数の箇所で、悪霊を追い出しながら、病を癒す。あるいは、病を癒しながら、悪霊を追い出して歩かれています。

イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで人々は、さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをいやされた。
(マタイ4:24)

夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた。
(マタイ8:16)

そのとき、悪霊につかれて、目も見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが彼をいやされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。
(マタイ12:22)

イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をいやし、また多くの悪霊を追い出された。そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスをよく知っていたからである。
(マルコ1:34)

ちょうどそのころ、イエスは、多くの人々を病気と苦しみと悪霊からいやし、また多くの盲人を見えるようにされた。
(ルカ7:21)

私は、霊的な課題がある人から相談を受けると、その方の背景を色々と伺って、悪霊に関する問題があるとわかると、その悪霊に対処するための祈りをします。ある時、福音書でイエス様の癒しのやり方を追っていて、悪霊の追い出しと病の癒しを主イエスが同時並行で行なっていることに気づき、「そうか、悪霊の追い出しと病の癒しとは、同じやり方で対処できるのだ」と理解し、早速実践したことがあります。その時、癒しは起こりました。ハレルヤ!

全部が全部、このやり方で対処できるわけではないと思いますが、ある場合には、悪霊への対処と同じやり方で、病に対処できるということです。上で記した、言葉によって病に何かを言うということも、ほぼ同じことを指しています。

癒しを祈る立場:重要なこと。その人に対するあわれみ

主イエスは、あわれみが重要であると述べておられます。

イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。
すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

(マタイ9:10-13)

また、その人をあわれんで、何かのアクションを起こされたことが複数記されています。

イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。
イエスは舟から上がると、多くの群衆を見、彼らを深くあわれんで、彼らの病気をいやされた。

(マタイ14:13-14)

さて、ツァラアトに冒された人がイエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私をきよくしていただけます。」
イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」
すると、すぐに、そのツァラアトが消えて、その人はきよくなった。

(マルコ1:40-42)

こうしたあわれみの心は、主イエスがお持ちになったと同時に、天の父の思いでもあると思います。病に苦しんでいる人がそこにいる。その人を天の父もあわれんでおられる。そういう状況で、その祈る人が、同じようにその人に対してあわれみを持つ。そうして、居ても立ってもいられずに、自ずと癒しを祈る。主イエスの名によって、その人の病の癒しを祈る。そのあわれみの心が天の父のあわれみと合致して、主イエスの名によって祈る祈りに、神の御業が現れる。そのような癒しは、あると思います。また、多くの癒しは、そのような状況で起こると考えています。

 

以上が、第三者に対して祈る立場です。

癒しを受け取る立場:神の栄光が賛美されるところで癒しが起こる

続いて、自分が病で大変な状況にある時に、神から癒しを受け取るにはどうすればいいかを記します。

 

神の癒しは、つまるところ奇跡です。神の力の現れ(デュナミス)です。これは、神を愛する人たちの間で起こります。神を知らない人たちの間では起こりません。その癒しが起こった際に、神の栄光が賛美される場で起こる。主イエス・キリストの御名が賛美される場で起こる。父なる神の御業が賛美される場で起こる。そういうことは、あると思います。

目の見えない人の目が開く。耳が聞こえない人の耳が聞こえるようになる。歩けない人が歩けるようになる。こうした奇跡的な癒しは、それに続いて、神の栄光がほめたたえられる状況で起こると解釈しています。

上でも引用しましたが、癒しを神に感謝をする人がいない状況では、どうなのかなというところです。
↓主イエスは、みことばによって10人を癒したのに、神をあがめた者は1人しかいなかったというエピソードがルカに記されています。

そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。
ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、
声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言った。
イエスはこれを見て言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中できよめられた。
そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。
そこでイエスは言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。
神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」
それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」

(ルカ17:11-19)

癒しを受け取る立場:罪を犯していると、癒しが起こらない可能性がある

神の力が働くには、その人は、罪から離れる必要があります。罪を犯し続けている状況では、癒しは起こりにくいと言えます。
また、罪を犯し続けていると、病が来ることがあります。私が経験したジストニアは、実は深刻な罪を犯し続けていたことが真因だと、今では理解しています。ここで言う罪とは、十戒の罪を犯すというような罪です。

その場合、癒しが起こるには、その罪を神の前で言い表して、悔い改める必要があります。
聖書的な悔い改めの仕方は、以下の投稿でまとめています。

悔い改めること(自分ひとりでできる悪霊への対処)

 

 

 

癒しを受け取る立場:人を赦していないと、病が癒されない可能性がある

主イエス・キリストの十字架とよみがえりを通じた救いは、病の癒しの根本です。この救いは、人を赦すことによって自分も赦されるという、主イエスの教えが非常に強く関わっています。言い換えれば、人を赦していないと、その人は主イエスの十字架とよみがえりによる救いを受けられないと思います。

あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。
さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。

(ルカ6:36-37)

同じように、病の癒しも、人を赦すことによって、神の力が生き生きと働くということがあります。人を赦していなければ、神の力が働きづらい状況です。クリスチャンで深刻な問題を抱えている人の多くは、過去に何かがあった人を赦せていないという課題があるようです。親だったり、別れた配偶者だったり、自分をいじめた人だったり。いずれにしても、赦せていない人がいると、そもそもが愛である神の御業が働きにくいです。

そのため、その人を赦すようにしましょう。赦せない人を赦せるようになるには、罪がなかった神の御子イエスが、なんのために十字架にかかって命を差し出されたのか。その「なぜ?」に集中して、自分として納得いく答えを出すことです。福音書を読み込むことが必要になります。

癒しを受け取る立場:主イエスによる罪の赦しと病の癒しとが同時並行で起こることがある

主イエス・キリストは、病の癒しを求めている人に対して、「あなたの罪は赦された!」と言って、癒したことがあります。

数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。
それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。
そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。
群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。
イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。
ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。
「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」
彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。
中風の人に、『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。
人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、
「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。
すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない」と言って神をあがめた。

(マルコ2:1-12)

同じエピソードは、マタイ9章とルカ5章にもあり、当時の弟子たちが一様に驚きをもって受け止めた主イエスの御業であったと推察されます。
この中風(脳血管障害の後遺症として起こる半身のまひ)の男は、明らかに病の癒しを必要としているのに、主イエスは、「あなたの罪は癒された!」と言ったのです。この時、主イエスには、この男性の病の真因が見えていたのでしょう。それが罪から来た病であったのを、即座に見抜いたのだと思います。同じようなことは、主イエス・キリストを信じている人が聖霊から教えてもらう形で起こります。その相手が抱えている課題の真因を聖霊が教えてくれるのです。

主イエスは神の子であり、地上で罪を赦す権威がありましたから、すぐにその場で「あなたの罪は赦された!」とおっしゃったのでしょう。「あなたは癒された!」と言うよりも、「あなたの罪は赦された!」と言う方が、より根本的なところに働きかける言葉だと言うことが、主イエスにはわかったのだと思います。

罪が赦されれば、病が癒されるという図式がそこにあります。冒頭で記した私のジストニアの病も、つまるところ、罪から来ていました。それが癒されたのは、主イエス・キリストのみことばを学び、従順になり、悔い改めるべきものを悔い改めているうちに、自然と罪が赦され、主イエス・キリストの救いにあずかれるようになり、それが巡り巡って病の癒しにつながった、ということではないかと、今では理解します。

まとめ

神の癒しは、この薬を飲めばこの症状がこのように改善する、というような、一対一対応するロジカルなものではありません。むしろ、もっと全体的なものです。罪が赦されることと、自分が人を赦すことと、主イエスの十字架の救いを受けることと、信仰を育むことと、祈ることと、癒しを受けることと。それらがすべて一つのまとまりとなって、そこに神の力が働きます。

癒しのカギは、聖書のみことばの中にあり、信仰によってそれが解き放たれます。
一晩祈ったから癒される、ということもあれば、ずっと長く祈り続けて癒しがいただけるということもあるでしょう。また、信仰があるクリスチャンや教職者に祈ってもらって癒しをいただくこともあれば、悪霊の追い出しに取り組むことによって自然と癒しが来た、ということもあるでしょう。

天の父は、病に冒されている人をあわれんでいることは確かです。必ず、その人の病を癒したいという愛を持って見てられます。通例、そのことに当人は気づきません。
この天の父の癒しをもたらす愛を、主イエス・キリストの信仰によって、祈りによって、解き放つことで、そこに神の癒しが起こります。

神の癒しは本質的に奇跡です。
奇跡とは、神の力が現れて、その人の人生が神によって大きく変えられることです。そこに賛美があり、感謝が沸き起こります。

神は、神の御業をなさることによって、人を喜ばせたいと思っていらっしゃいます。神は愛だと聖書にあります。
この神の愛は、主イエス・キリストを信じる信仰を通して、この地の上にあふれます。

 

ぜひとも信仰により、この癒しを受け取って下さい。

なお、信仰をどのようにすれば育むことができるのか?ということについては、本ブログで何度も「聖書のみことばを21日以上、できれば40日間口ずさむ」ということを書いています。過去9ヶ月ほどは、ほとんどそのことばかり書いていますから、ぜひともお読みになってやり方を習得して下さい。誰でも信仰を育むことができます。ヨシュアやダビデにお手本がある、きわめて聖書的なやり方です。

ハレルヤ!