日曜投稿:主イエスを信じる者が行うわざ「デュナミス」がよくわかったこと | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Jörg Bergmann

 

 

イエス様を信じる者は、イエス様と同じわざを行うということがヨハネの福音書に書いてあります。長らく、理解できない部分がありましたが、今回ギリシャ語原典で確かめたことによって背景がよくわかってきました。

 

主イエスを信じる者が主イエスと同じわざを行うとは?

イエス様は「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行なう」とおっしゃっています。これは、そのまま素直に受け止めれば、病人を癒し、悪霊を追い出し、奇跡を行なって、神の栄光を現して歩く。「神の国は近づいた。悔い改めなさい」と福音を宣べ伝えて歩く。そういうことです。

また、よく指摘されるように、イエス様よりももっと大きな業を行うともおっしゃっています。

わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。
またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。

(ヨハネ14:11-13)

この3つの節に含まれていること、教えられていることを細かく分析すると、以下のようになります。

1. 主イエスは天の父にいる。天の父は主イエスにいる。両者はともに交わって存在している。

2. 天の父が主イエスにいるため、主イエスはわざを行うことができる。つまり、主イエスの病人を癒す、悪霊を追い出す、奇跡を行うというわざは、そこに天の父がいらっしゃるから起こる。天の父と主イエスとが一つになっているから起こる。

3. 主イエスを信じた人は、主イエスが行なったのと同じわざを行う。

4. 主イエスを信じる者が、主イエスと同じわざを行うことができるのは、そこに、主イエスと同じ状況が生じているから。つまり、主イエスに天の父がいたのと同じように、主イエスを信じる者に天の父がいる(ヨハネ14:20)。噛み砕いて言えば、主イエスを信じる信仰によって、そこに天の父がいる。それがために主イエスと同じわざができる。

5. 主イエスを信じる者は、主イエスよりもさらに大きなわざを行う。それは、主イエスが天の父の元に行くから。(ここのところはおそらく、主イエスが天の父の右の座にいらっしゃって、天の父に信徒の祈りや信仰によるわざをとりなしておられるからでしょう)

6. 主イエスを信じる者が、主イエスの名によって、主イエスに何かを求めれば、主イエスが動いて下さる。

このようなことが書いてあります。3節しかないですが、ものすごく深い、信仰の根幹、祈りの根幹、信徒が主イエスの名によって行うべき行動の根幹が記されていると思います。

ここのところは、教会一般ではさらっと読まれて、深く説明されることが少ない部分ですが、よく吟味すると実に重要なことが書いてあります。信じる者は主イエスと同じことを行うのです。

本ブログでは、信仰を持つためにはどうすればいいかということを何度も書いてきています。信仰があれば、主イエスと同じことを行うのです。ストレートに読めばそういうことが書いてあります。

ペテロが主イエスの名によって行なった奇跡の内容

この3節のところの実践例が使徒の働きにあります。ペテロが起こした奇跡です。少し長いですが、この事柄に関して重要な示唆を含んでいるので引用します。

ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。
彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。
すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、
彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。

人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。
そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。
この人が、ペテロとヨハネにつきまとっている間に、非常に驚いた人々がみないっせいに、ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところに、やって来た。


ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。
アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。
そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、
いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。
そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。

(使徒3:1-16)

まずこの奇跡の部分に着目して、以下の3節を読み解きます。

すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、
彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。


1. この生まれつき足なえの男に対して、ペテロは、主イエスと同じように、あわれみの思いを持った。そうして「私にあるもの」を上げよう、と申し出ている。この「私にあるもの」とは、主イエスからいただいた信仰と、信仰に伴う神のわざを現すことができる賜物。また、上記ヨハネ14章で主イエスから学んだ事柄。(つまり、ペテロは主イエスが教えた内容を忠実に実践している。)

2. 「ナザレのイエス・キリストの名」によって「歩きなさい」と言っている。ここに、ペテロの信仰が働いている。

3. イエス様がお約束なさった「わたしの名」が使われている。(当時「イエス」という名前は他の男性にも使われていたため、それらのイエスと区別するために「ナザレのイエス・キリストの名」を使っている。)

4. 生まれつきの足なえが癒される奇跡が起こって、この男は、「歩いたり、はねたりしながら、神を賛美」している。深く考えれば、癒しが起こった後で、すぐに神を賛美する人であったからこそ、奇跡が起こったのだとも言える。
(ペテロがこの男を見た時に、聖霊が、このような奇跡の癒しが起こることを知らせていた可能性もある。言い方を変えれば、聖霊がペテロに預言的な知恵を与えていた可能性もある。そうして、実際にそのような展開となり、奇跡によって神の御業が現された。そうして男は神を賛美した。もっと深く言えば、ここで奇跡を現された神は、男が賛美をする人間であることを予め分かっておられた。そこで、ペテロに聖霊を通じて示して、奇跡を行うように促した。ペテロはそれに従って、自らの信仰により、イエスの名によって「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言った。)

まとめれば、ペテロは、生まれつき足なえの男をあわれんで、「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言ったところ、奇跡が起こって、男の足は元気になった。そうして男は神を賛美した。そういうことが起こっています。

ここで起こったことは、人間の常識では理解ができないことで、やはり神が関与して実現した奇跡と言うしかありません。
また、こうした奇跡は、まさに主イエスご自身が御国の福音を宣べ伝えていた時に起こしていたものです。
ペテロは、主イエスの預言通りに、主イエスの名によって、主イエスと同じことを行なった。そこに神の御業(みわざ)が現れ、男は歩いたりはねたりしながら、神を賛美した、ということです。

生まれつき歩けない人が歩けるようになったのですから、これはすばらしいことです。
この男の人生を根本から変える奇跡だと言えます。

思い起こせば、主イエスが福音書で奇跡を行なって歩かれた際に、一つひとつの奇跡は、その人の人生を根本から変えるようなものばかりでした。

ペテロは奇跡をどう説明したか?

この奇跡について、ペテロは次のように、2つに分けて説明しています。

まず。

ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。

1. 「自分の力とか信仰深さとか」によってこの奇跡が起こったのではないことを断っている。

次に。

いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。
そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。


2. ペテロは、死者の中からよみがえったイエスの証人だと、自分の立場を説明している。推察すれば、「イエスが死から復活したことを証しする人」が、信仰によって、イエスの名によって、奇跡を起こすことができるのではないかと思われる。(イエスが死から復活したことを証ししない人においては、奇跡が起こらない?)

3. 「イエスの御名」が「この人を強くした」。(なおギリシャ語原典では「彼の名」。日本語訳「御名」の「御」の意味は原典にはない。)

4. 「その御名を信じる信仰のゆえに」「この人を強くした」。(同上)

5.  「イエスによって与えられる信仰」が「完全なからだにした」。

以上のことをペテロは説明しています。

まとめれば、イエスの死からのよみがえりを証しする立場のペテロが、主イエスによって与えられたイエスの名を信じる信仰により、イエスの名によって「歩きなさい」と言ったところ、生まれつき足なえの男が完全な体になった、ということです。
一言で言えば、奇跡が起こった訳ですが、その奇跡に、主イエスを証しする立場や、主イエスからいただく信仰や、主イエスの名が関わっています。これはよく吟味する必要があると思います。どういうことなのか。各自がよく咀嚼して理解すべき事柄だと思います。

ペテロは主イエスが死からよみがえったことを証しする人

私もこれを書いていて、改めて、ペテロの立場が、主イエスが死からよみがえったことを証しする人だったということを、新鮮な思いをもって理解しました。単に、主イエスが救い主だと宣べ伝えるのではなくて、「主イエスは、死からよみがえった人である」ことを証しする立場なのだなと、認識できました。これは、主イエスを信じる信仰において、きわめて重要な鍵かも知れません。

イエスが十字架によって死なれて、三日目によみがえった。死からよみがえったという、人間の常識では理解できない、きわめて特殊なケースであることを信じて、「イエスが死者からよみがえった神の子である」と対外的に証しをして歩くことが、実はかなり重要なんだろうということです。簡単に言えば、世間の常識に反することを、あえて公に証をして歩くということです。石をぶつけられる世界です。

当時の時代背景を考えると、かなり重要です。新約聖書で使われている「証しをする人」「証人」のギリシャ語の大元の意味には「殉教をして死ぬ人」という意味があります。イエスが死からよみがえった人であると公に証しして歩くことには、命の危険性が伴ったそうです。(例えば、ユダヤ教の人たちから迫害され、殺される可能性があった)
(ギリシャ語の「証し人」にどういう意味があるか、当時の時代背景はどうだったかについては、かなり前にこの投稿でまとめました。今読み返すと、欠けの多い投稿内容ですが、どうかご容赦下さい)

 

 

 

「信じる者に働く神のすぐれた力」=「デュナミス」

この奇跡。先日、英語訳聖書で"miracle"(奇跡)と訳されている部分のギリシャ語原典の言葉を確かめていて、それが「デュナミス」δύναμις, dýnamis であることがわかり、大変に驚きました。日本語聖書でも「奇跡」「奇蹟」と訳されているところの大元のギリシャ語はデュナミスなのです。

デュナミスは、通例「力」と訳されています。

以下は聖霊の「力」に関するみことば。

さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
(ルカ24:49)

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
(使徒1:8)

神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。
(第二テモテ1:7)

これらにおいて「力」と訳されているのは、ギリシャ語のデュナミスです。

また、以下は神本来の「力」。神が元々からお持ちの、神ならではの「力」に関するみことばです。

神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
(ローマ1:20)

私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
(エペソ1:19後半)

私がよく人に対するアドバイスで用いる以下のみことばの「力」も、デュナミスです。

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
(第二コリント12:9)

以上のみことばでは、デュナミスが「力」と訳されているので、まだわかりやすいです。

イエス様が行なった「奇跡」も「デュナミス」だった

非常に興味深いのは、以下のみことばで「奇蹟」と訳されているところに、ギリシャ語原典では「デュナミス」が使われているということです。

そして、イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟をなさらなかった。
(マタイ13:58)

福音書の「奇蹟」全部を確かめた訳ではありませんが、おそらくはほぼすべてが、原典では「デュナミス」になっているはずです。理由は後述します。

また、以下のマタイで「力あるわざ」と訳されている部分も、ギリシャ語原典では「デュナミス」です。

それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。
「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。
カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。

(マタイ11:20-23)

ここまででわかるのは、主イエス・キリストが福音書で行なっておられた奇跡は、神が本来お持ちの力、デュナミスであるということ。天の父のデュナミスを、御子イエスもデュナミスとして行なっており、それが日本語で言えば奇跡として現れたということです。

そうしてそのデュナミスは、主イエスを信じる人が受ける聖霊に働く「力」でもあるということ。主イエスが弟子たちに「力を着せられるまで、エルサレムを離れないでいなさい」とおっしゃった「力」は、「力と愛と慎みの霊」とパウロが書く聖霊の力。聖霊のデュナミスです。これは、天の父がお持ちのデュナミスと同じ言葉であり、御子イエスがこの地の上にいらっしゃった時に行なった奇跡のデュナミスと同じ言葉です。

そうしたことがわかってきました。こうしたことは、ちょっとしたきっかけから、するすると明らかになっていくものなのです。

「デュナミス」は新約聖書で120回、「愛」と同じ回数使われている

そしてさらに興味深いのは、パウロ書簡のコリント第一で書かれている「御霊の賜物」。聖霊によって信じる人たちに与えられるギフト(賜物)。預言や異言や病を癒す賜物がありますが、その中に「奇蹟を行なう力」があります。(なお、私は「奇跡」と書きますが、新改訳から引用する場合は「奇蹟」です)

ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、
またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、
ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。
しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。

(第一コリント12:8-11)

この「奇蹟を行なう力」もデュナミスなのですね。

つまり、デュナミスは、以下のように、いくつかの展開があります。
a. 神が本来持っておられる力、天の父が持っておられる力
b. 御子イエスが行われた奇跡、ないしは力あるわざ
c. 聖霊にある力
d. 御霊の賜物としての奇跡を行う力

これらがすべて「デュナミス」なのです。
そうして、大変に意義深いことに、ギリシャ語聖書を学ぶ人のためのギリシャ語学習辞典HELPS Word-studiesでは次のように述べています。

properly, "ability to perform" (L-N); for the believer, power to achieve by applying the Lord's inherent abilities. "Power through God's ability" (1411 /dýnamis) is needed in every scene of life to really grow in sanctification and prepare for heaven (glorification). 1411 (dýnamis) is a very important term, used 120 times in the NT.

文字通りは「実現する能力」、信じる人に働く、神からいただける能力を用いて何かを達成する力。「神の能力から現れる力」(デュナミス)は、聖化を通じて真に成長するために生活の全ての面において必要である。また、天の御国へ入る(栄化)の準備のためにも必要。デュナミスは、きわめて重要な言葉であり、新約聖書において120回使われている。

新約聖書において120回使われているとは、確かめてみると、名詞の「愛」がちょうど120回使われています(新改訳第三版)。使われている回数に着目すると、愛と同じように重要な言葉がデュナミスだということです。「信じる者に働く神の優れた力」であり、「力と愛と慎みの霊」の「力」であり、主イエスが行なった奇蹟や「力あるわざ」であり、御霊の賜物の「奇跡を行う力」です。

その人に対する「あわれみ」とともに働くデュナミス、神の力

デュナミスは、神の力であると同時に、信じる人に働く力でもあるということです。

そうして、上のHELPS Word-studiesによれば、エンジンの「馬力」のようなパワーではなくて、イメージしたものを「形にする力」というニュアンスです。
つまり、信仰によって願ったものを神に助けてもらって形にする力、ということです。

ペテロが足なえの人を癒した時にも、その人の足が丈夫になって元気になるイメージがペテロにあって、信仰により「歩きなさい」と言ったのだと思います。その、ペテロの信仰による「イメージ」に対して、神の力が働いて、それが現実に起こったということです。

信仰はイメージによって活性化する、ということも言えそうですね。
成って欲しいものをイメージするのです。そうして主イエスの名によって言うのです。

また、イエス様が奇跡を行なった場面を色々と思い起こしてみると、必ず、相手の人をあわれんで、奇跡を行なっていらっしゃいます。病人や目の見えない人をあわれんで、癒したり目を開けたりされています。悪霊を追い出して歩かれたのも、悪霊につかれている人をあわれんで、そこから解放してあげたのです。そこに働いていた力がデュナミスです。言い換えれば、「その人が癒されるようにイメージして、そのことを信仰をもって言う」時に、神の力が現れました。

ペテロが生まれつきの足なえの人を立たせたのも、その人をあわれんで、ということがあったと思います。

あわれむとは、その人を放っておけなくて、何とかしなくてはと内側から急かされて、手を置く、言葉をかける、ということです。イエス様の行動を振り返るとすべてそうです。「癒されたいか?」とお声をかけて癒す、という展開が多々ありました。

デュナミスは、自分が奇跡を行う賜物を持っていることを見せびらかすために用いるものではありません。その人が、奇跡の器と賞賛されるために用いるものではありません。
むしろ、相手をあわれんで、イエス様と同じことを行う時に現れるものです。

そうして「不思議なパワー」などではなく、「その人に、そうあって欲しいと願うイメージ」が、信仰により、神の力によって、形になるというのがデュナミスであることが、今回よくわかりました。

これは、巡り巡って、天の父が、その人をあわれんで、主イエスとともに、その人にそうあって欲しいと願う(癒されて欲しいと願う、足が丈夫になって欲しいと願う)、そうした天の父の思いが、この地の上で、信じる人において沸き起こって、そこに奇跡が起こる、ということでもあると思います。

主イエスがヨハネ14章で、わたしと同じわざを行うとおっしゃったのは、信じる人は、天の父や主イエスと同じ思いを持って、その人をあわれんで、放っておくことができなくて、「イエスの名によって歩きなさい!」と言う。そういうことだろう、ということがだんだんわかってきました。
ハレルヤ!