「隣人をあなた自身のように愛しなさい」とは、聖書で言われているところです。
主イエス・キリストの基本的な命令です。マタイの福音書にも、マルコの福音書にも、ルカの福音書にも出てきます。それだけ大切だということです。(末尾参照)
このシンプルで基本的な命令を守るにはどうすればいいのでしょうか?
自分の好きな人を愛することは簡単です。しかし、好きになれない人を愛することは普通はかなり難しいです。
自分と仲の良い人を愛することは簡単です。しかし、その人と険悪な状況になっている時に愛することは簡単ではありません。
自分の敵に当たる人を愛することは本当に難しい。しかし、主イエスは、「敵を愛しなさい」ということだけでなく、「迫害する者のために祈りなさい」とまで命じています。このことはなかなかできるものではありません。
どうすれば、このイエス様の基本的な命令を守ることができるのか?
そこにいる好きではない人。そこにいる仲が良くない人。そこにいる敵である人。
どうすればそういう人たちを愛することができるようになるのか?
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人が抱えている問題のほとんどは、人間関係の問題です。親と子の問題。夫婦の問題。男女の関係の問題。友人や知り合いとの関係の問題。職場や仕事の人間関係の問題。地域の人たち・近所の人たちとの問題。教会の中の人たちとの関係の問題。帰属する国の政府(例えば日本政府)と自分の関係の問題。などなど、などなど。
こうしたことの問題の根源は、「その人を愛せない」ということに尽きます。
ある時は好きになることはできる。しかし、別な時には好きになれない。好きになれないから、粗探しをしたりして、自分とは違うということを自分自身に納得させる。自分は正しい。その人は間違っている。自分は正しい。日本政府は間違っている。自分は正しい。教会は間違っている。自分は正しい。職場が間違っている。自分は正しい。親が間違っている。自分は正しい。子供が間違っている。などなど。などなど。
私は離婚を何度か経験していますし、人間関係の修羅場に当事者としていたことが何度もありますから、そうした問題のことはよくわかります。
主イエスが命じているのは、単にその人を好きになりなさい、というのではないことは、よくおわかりいただけると思います。好きな人を愛しなさい、というのではなく、好きな人が好きでない時に愛しなさいということであり、好きではない人を愛しなさいということです。
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時々心に浮かんでくる聖句があります。
その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。
(第一コリント8:11)
「キリストはその兄弟のためにも死んで下さった」、この部分です。
主イエス・キリストはすべての人のために十字架で死んで下さいましたから、「いま、兄弟姉妹である人」(クリスチャンである人たち)だけでなく、「いま、兄弟姉妹ではない人」(クリスチャンでない人たち)のためにも死んで下さっています。従って、ここにいる人(自分)のためにも死んで下さっていますし、そこにいる人たち、言い換えれば隣人のためにも死んで下さっています。
好きではない人のためにもイエス様は死んで下さっていますし、仲違いしている人のためにも死んで下さっています。憎しみがなかなか去らない人のためにも主イエスは死んで下さっていて、自分を迫害する人のためにも死んで下さっています。
主イエス・キリストがその人のために死んで下さっているとは、御子の父である神の愛のゆえです。つまり、その人のことを天の父は愛して下さっている。もちろん、父だけでなく、御子イエスも愛して下さっていて、父の愛と御子の愛とは一つであり全体であるという関係ですから、御子の愛がその人にあり、父の愛がその人にある。その人は父に愛されている。
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この「天の父がその人をも愛して下さっている」ということが、頭でわかるのではなく、「本当に、父の想いとして、その人を愛して下さっていること」を、愛でわかる、あるいは、聖霊によってわかる。そういうことができるようになると、「ああ、そうか。父はこの人のことを愛して下さっているんだ」と素直にうなづけるようになります。すると、「父がその人を愛している目線で」その人を見ることができるようになります。父が愛しているようにその人を見る。そういうことができるようになると、すっと、素直にその人を愛することができるようになります。「そうか、父はこの人をも愛しているんだ。お父さんが愛しているんだからオレも…」
これが頭でわかるというのではなく。
愛でわかるようになるにはどうすればいいのか?
父の愛を経験するのが最短距離だと考えます。
父は愛の方であるということを、何度も何度も経験していると、「あー、父は愛の方だ」、「私は父に愛されている」ということが、普通にわかるようになってきます。
父の愛を、経験として何度も何度もわかる、知らされる、理解させられるということを繰り返していると、父の自分に対する愛が言葉ではなく体全体でわかるようになります。腹からわかる。聖霊によって霊としてわかる。そういうわかりかたです。
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では、どうやって、天の父の愛を何度も何度も経験することができるのか?
それは、新約聖書の要約としてヨハネの福音書14章から17章に基づき、1)天の父、御子、聖霊の関係をよく理解し、2)自分が天の父、御子、聖霊とどのような関係にあるかを理解し、3)主イエスの名によって祈ると父が何でも与えて下さることを理解し、4)生き生きとした信仰を育んだ上で、実際に祈ってみることです。そうして、天の父がその祈りをかなえて下さることを、何度も何度も経験するのです。このみことばに書いてあることが、そのまま真理であり、神の言葉であって、神のお約束であり、神がお約束を違える方ではないことを、何度も何度も経験するのです。
ヨハネの福音書14章から17章を何度も推薦するのは、そこが、三位一体の神のそれぞれの神の役割をよく説明しており、きわめて大切なこととして、聖霊の役割も明確に説明されているとともに、主イエスの名の理解、および、主イエスの名によって祈ることの理解を育むことができるからです。また、この神に対して自分がどういう立場にいるか、一言で言えば、非常に近しい存在であり、主イエスのお言葉によれば「友」である、また、ヨハネ1章では「神の子ども」だと書かれている、そのことがこの4章にぎゅっと凝縮されているからです。そうして毎日毎日30分程度、ヨシュアのように(ヨシュア1:8)、ダビデのように(詩篇1:2)口ずさむのにちょうどよくまとまっています。もちろん聖書は日頃から色々な箇所を読まなければなりませんけれども。
聖書を読むだけでは信仰は育まれない、というのが、過去20年以上、クリスチャンを続けてきて、また色々な教会を見た経験から言える結論です。また、聖書を勉強するだけでも信仰は育まれません。霊である神の言葉に接する態度として(ヨハネ6:63)、近代的な学習だけでは不十分なようです。
信仰がなければ、祈りは聞かれません。祈りが聞かれた経験をしているクリスチャンは多くありません。大変に残念なことですが。過去の私もそうでした。幼子のような信仰がなかったからです。
従って、上のヨハネの福音書14章〜17章も、ただ単に読むだけでは信仰は育まれません。そのため、祈りが聞かれることを何度も経験することにはならないと思います。(祈りが聞かれることと信仰の関係は、マタイ17:20、マタイ21:21に書かれています。)
ヨシュアの時代やダビデの時代のイスラエルの民にように、神のみことばを毎日毎日愚直に口ずさみ、最低で21日間(ダニエル10:13)、できれば40日間(マルコ1:13)それを続けて、現代人固有の不信仰を洗い流し、幼子のような信仰を育む必要があります。
この信仰を育む行為は、ローマ書に「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのみことばによるのです」(ローマ10:17)とあるように、聞くことから始まります。毎日毎日神の言葉を口ずさみ、自分の耳で聞くことは、聖書が保証している基本中の基本なのです。初代教会の人たちに現れていたみことばに伴うしるし(マルコ16:20)も、彼らがみことばを聞き、信じ、そうしてペテロのように(使徒3章)イエスの名によってそれを実践することで現れました。そこに神の力が働くのです。
信仰があれば、みことばを口にすることで、神の力が働くのです。主イエスが言うように、からし種ほどの信仰があれば山は動くのです。
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ヨハネ14章〜17章を毎日毎日30分以上口ずさんでいるうちに、生き生きとした幼子のような信仰が育まれます。そうすると、主イエスの名によって祈ることにより、父が何でも与えて下さるのだということが、素朴に信じられます。そうなれば、素朴に祈ることができます。
何でもよいのです。もちろん、聖書の教えに反した祈りはダメです。(ちなみに、赦していない人がいると、祈りはかなえられません。これも主イエスの命令の基本中の基本です。)
かなえられると思ったことは、何でも祈ってみます。そうすると、かなえられます。小さな事柄で、何度か祈ってみるとよいでしょう。何かが見つからなかった時。少し遅れそうになった時。仕事で困りごとがあった時。ちょっと雨が降りそうで困った時。何かの物が必要な時。いつでもどこでも、主イエスの名によって、天の父に求めます。そうすると、それがかなえられます。
そのようにして何度も何度も祈りがかなえられる経験をすると、「ああ、天の父は、本当のお父さんなんだ」ということが素朴に信じられるようになります。
そうして、自然と、「お父さん、ありがとう!」と感謝できるようになります。
ここのブログで色々と紹介しているスポンテニアス・ワーシップの動画によって、あるいは別な形で、部屋にいながらにして、主イエスの名によって感謝や賛美をすることができるようになりますし、霊とまことによる礼拝ができるようになります。(礼拝は日曜日に教会でだけするものではありません。ヨハネ4章にあるように、霊とまことによる礼拝は場所や曜日の限定を受けるものではありません)
天の父と、主イエスを介して、話ができるようになるということも、経験できると思います。すべての鍵がヨハネ14章〜17章に書かれています。もちろん聖書の他のところもしっかりと読むべきです。読むべきところはたくさんありますし、毎日新しい発見があります。
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隣人を愛することができない問題も、おそらくは、上で書いた現代人固有の不信仰の問題が根底にあると思います。不信仰があるうちは、聖書の言葉を読んでも、信じるところまではいかず、頭で理解はできるけれども腹の底から信じることはできない宙ぶらりんなところに居続けます。すると祈りをかなえてもらうことは、まず、できません。
祈りがかなえられる経験がないと、父の愛を、「おお!お父さん!ありがとう!」と、まさに父の子どもとして歓声をあげて喜ぶ経験も、ほとんどすることはできないと思います。つまり、不信仰があるから、天の父の愛を経験することに恵まれない。神の子どもとしての実感がない。そういう連鎖が続きます。主イエスの第一の命令である「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」が、まず守れないのです。
そこにいる人を愛するには、まず不信仰を洗い流すことが必要。そのためには、みことばを毎日毎日ヨシュア(ヨシュア1:8)やダビデ(詩篇1:2)のように愚直に口ずさんで不信仰を洗い流す(この動画で証言されていることです)。
すると生き生きとした幼子のような信仰が育まれる。そうすれば、ヨハネ14章〜17章に書かれていることを素朴に信じられて、素朴に祈ることができるようになる。すると、ハレルヤ!祈りがかなえられる!天の父の愛が実感としてわかる!そういう連鎖に入っていきます。
すると、そこにいる人をも、天の父は愛されているのだなあという、素朴な実感を持つことができるようになります。
どの人をも、どの人をも、愛されているのだなあ、天の父は…ということを、素朴に感じ取れるようになります。
この有名すぎるぐらい有名なみことばも、ああなんだ、そういうことか!と素朴にわかるようになります。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネ3:16)
ハレルヤ!
◎「隣人をあなた自身のように愛しなさい」に関連した聖句
「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
(マタイ22:36-40)
律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」
イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」
そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない』と言われたのは、まさにそのとおりです。
また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」
イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て、言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者がなかった。
(マルコ12:28-34)
すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」
イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
(ルカ10:24-28)