日曜投稿:祈りがかなえられる経験を積む | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

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よくスニーカーで外出しますが、雨に当たると足がびしょ濡れになってしまうスニーカーです。天気予報が雨の場合、あるいは、これから雨が降りそうな場合、いつも次のように祈ります。

天のお父様、私がこれから○○○○に着くまでの間、どうか雨からお守り下さい。イエス様の名によって、求めて祈ります。

この祈りをすることには背景があるのですが、個人的なことなのでここでは書きません。しかし、その個人的なことは天の父も御子イエスもよくご存知です。そのため、神様には事前の説明を省いて、必要な時に、そのポイントだけをさっと祈ります。

この祈りをして、いつも雨から守られています。まことに感謝です!昨年半ばから20回ぐらい、この祈りがかなえられることを経験をしました(昨年半ばというのは、私が、聖書のみことばを20程度選び、毎朝口ずさむことを始めて40日が過ぎ、自分の中の不信仰が洗い流されたと自覚できるようになってから)。パラパラ小雨が降るぐらいはありましたが、どしゃ降りで足がびしょ濡れになることは一度もありませんでした。ハレルヤ!
かなえられた後では、いつも、すぐに感謝するようにしています。天のお父様感謝します!イエス様感謝します!と。
かなえられる度に、神様の優しさが身に染みます。

このような、天気について祈る祈り方があることは、最初に10年間通った、いわば「みことば主義」に立つ教会で、夫婦お二人で牧会されていましたが、ご婦人の牧師がよく説明していました。中身をよくわからずに聴いていた私が、今になって実践しています。お二人のご指導にも感謝いたします。

このように個人的な理由で雨から守って下さいと祈るのは、不謹慎ではないかという批判があることはよく承知しています。ある考えに立てばそうかも知れません。
しかし、この祈りもまったく聖書的な祈りであり(聖書的=聖書のみことばに根拠がある)、イエス様ご自身がこのように祈りなさいと教えているものの一つです。

ヨハネの福音書にあるイエス様ご自身の祈りに関する教えでは、第一にイエス様のお名前によって祈るということ、第二に天の父に求めて祈れば何でも父が与えて下さるということを教えています。

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
(ヨハネ15:16)

その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
(ヨハネ16:23)

イエス様は、ご自身の名によって求めて祈ることにより、天の父が、何でも与えて下さると教えています。

この背景には、創世記に記されている天地創造から、黙示録に記されている新天新地までの神のご計画における御子であり主であるイエス・キリストの位置付けと、イエス・キリストによって救われる人たちの位置付け、そこにある天の父の愛とご配慮があり、長い説明が必要です。なぜ、イエスの名によって祈ることにより、天の父が何でも与えて下さるのか?その前後関係には実に多くの事柄が存在しています。

しかし、ただ一言で説明するなら、ご自分が愛している御子イエスのお名前によって、イエスを信じている人が祈り求めることは、天の父にとってうれしいことなのです。そのため、天の父が栄光を現して下さって、祈りをかなえて下さるのです。

祈りがかなえられるということは、天の父が栄光を現されることです。聖書の数多くの箇所でそのことが確認できます。検索ができる聖書で、「栄光」をキーワードに検索してみるとよいでしょう。

栄光が現されたら、信じる私たちは、その栄光をすぐに賛美します。そうして感謝します。



小さなことについて祈って、それがすぐにかなえられるという経験を積んでいくのは、神への信頼を育む上で大きな意味があります。

例えば、昨日経験したことです。外出先で、花粉により鼻水がたくさん出て困ることがあります。いつもという訳ではありません。時々です。鼻水がたくさん出ると、ポケットティッシュ4〜6パックが一つの面談ですぐになくなってしまいます(鼻が痛くならないポケットティッシュ)。ご存知のように、現在、多くのコンビニやドラッグストアの店頭からは箱のティッシュが消えています。ポケットティッシュは稀に買えることがあります。昨日、訪問先へ行く途中で、あるコンビニへ入る前に、「神様、ポケットティッシュが買えますように」と短く祈りました。そうしたら、その店に1つだけ、4パックのポケットティッシュが残っていて、無事買えました。ハレルヤ!

 

このようなことがあると、神様は信頼できるお方だ、という信頼感がその都度、高まっていきます。

こういう小さな祈りがかなえられることは、いつでも経験しています。ちょっとした困ったこと、ちょっと足りない事柄について、さっと祈ります。基本的には、イエス様のお名前によって、天の父に祈るのですが、とっさに祈る場合には言葉を短くして、「神様、○○○○○をお願いします!」と言う時もあります。要は、自分の内側にある想いが、言葉として、神に伝えられればよいのです。そうすると、それがかなえられます。

例えば、現実的な借金の返済についても、1つひとつの返済の必要について、その都度、個別的な具体的な祈りをすることにより、それがかなえられます。この種の事柄を一般化して記すのには注意が必要ですが、いつも天の父やイエス様とコミュニケーションをしており、自分の状況をわかっていただくように務めていて、かつ、常に賛美し、感謝することを心がけていると、お金に関する個別的な事柄や具体的な事柄に関する祈りも、その都度、かなえられます。

この時、聖書で約束されている、神の子どもとして祈ります。天の父の子どもです。子どもなので、天のお父さんに「よろしくお願いします!」と祈るわけです。
(ヨハネ1:12、ローマ8:14、ガラテヤ3:26)

ヨハネの福音書では、天の父が何でも与えて下さるとイエス様がおっしゃっているので、原理原則として、何を求めてもよいのです。しかし、前回の投稿の後半で記したように、祈りがかなえられない条件というのもあります。



祈りがかなえられることについて、あるいは、かなえられないことについて、実に多くの先生方の教えを聞き、テキストを読み、時々はクリスチャン同士で意見交換をし、クリスチャンの書いたものにも多数目を通してきました。

わかるのは、個別の教会ごとに祈りに関する教えは異なっていること。また、教職者やクリスチャンの一人ひとりにおいて、祈りに関する信仰は異なっていることです。同じ教会や会派に所属しているクリスチャンでも、祈る際には、祈りの焦点が異なっていることがあります。
ある超教派のイベントで、多数の牧師が日本のため地域のために祈る場にいたことがありますが、祈りのスタイルは牧師ごとに大きく異なっていました。信仰の中身に大きなバリエーションがあるのだなという印象を受けました。

祈りに関する信仰は一人ひとりで異なっている、と考えると無難かと思います。

そのため、自分の信仰とひき比べて「あの人の祈りについての信仰は××××だ」とか、「あの教会ではこれこれのことに関する祈りが××××だ」とかやると、キリがなくなってしまいます。また、イエス様が厳しく戒めている、他人を裁くことにもなってしまいます。

よって、そういう風にはせずに、まず自分が聖書を読み、聖書のみことばによって信仰を育み、根拠聖句に基づいて、かなえていただけると信じられるものを神に祈り求めるのが、最も正しいのではないかと思います。



デリック・プリンスは、"Shaping History through Prayer and Fasting"(祈りと断食によって歴史を形作る)の中の、祈りのあるべき形について述べている箇所で、以下のことを言っています。

・神に対するミニストリーと、人に対するミニストリーとがある。
・人に対するミニストリーとは、自分や家族や友人や所属する教会や地域のために祈ること。人間のために祈ること。
・神に対するミニストリーとは、神のために時間を使うこと、何かを捧げること。例えば断食すること。例えば、神と一緒にいる時間をできるだけ長く持つこと。
・使徒の働きやエステル記などの事例に基づくと、あるいは、福音書の中にあるイエス様の祈りの姿勢に基づくと、人に対するミニストリーをする前に、神に対するミニストリーをしている。これが重要である。

この本では特に、祈りと断食とは不可分のものだということを、聖書に根拠を求めて説明する内容であるため、神に対するミニストリーとして断食は大変に重要だということを主張しています。しかし、私は断食をよくする方ではなく、昨年の春頃に少ししただけです。これからする必要が出てくるかも知れません。
そういう私の解釈ですが、神に対するミニストリーとは、神と一緒の時間をできるだけ多く持つということだと捉えています。簡単に言えば、神と話をする時間を多く持つということです。



神と話をすることについては、過去に何度か書いていますが、以下の投稿が比較的まとまっていると思います。

日曜投稿:神と仲良くなる(2)- 神の子どもとして天の父と話す
 

神と話をすることを多く心がけるようになると、神と仲良くなれます。この神とは、天の父の時もあり、主イエスの時もあります。あるいは、聖霊の時もあります。いわゆる三位一体ということがありますから、どの神に向かっても、別な二つの神が関係しています。あまりこだわる必要はないでしょう。イエス様に話しやすい人は、イエス様と話をすればよいのです。

困った時だけ何かを求めるのではなく、うれしいことがあったら報告する、楽しいことがあったら報告する、神の助けにより良い事があったらすぐさま感謝する。そのように、前向きのことを日頃から話すように心がけると良いでしょう。
たとえ、お答えになるお言葉が聞こえないような状況でも、一方的で良いので、「イエス様、こんな良い事がありましたよ」と素朴に話せば良いのです。
「天のお父様、あのことはすばらしかったですね!」と、過去にいただいた恵みを振り返って、そのことについて話すのもよいでしょう。

そのように神と話すことができることの聖書的な根拠は、上の投稿に書いてあります。

このようにして、ふだんから神と話をするということを心がけていると、神に対するミニストリー、言い換えれば、どのような時間の持ち方をすると神が喜んで下さるかが、だんだんとわかってきます。ひとりで神と向き合う礼拝だと言うこともできます。スタイルは色々とあると思いますので、皆さん工夫してみて下さい。

第一ペテロでは、私たちは、王である祭司だと書いてあります(第一ペテロ2:9)。王である祭司として、神に礼拝することができるのです。そのため、もっとくだけた形で、ダビデのように神と親密になることもできます。

このような神に対するミニストリーをふだんから心がけていると、何かの必要があって祈った時にも、すぐにかなえていただけるようになると確信しています。
天の父も、主イエスも、ご自分を愛する人を愛して下さいます。そのため、その愛する人が何かを祈れば、さっと栄光を現して下さって、祈りをかなえて下さるのです。

祈りがかなえられるということは、本質的に、奇跡が起こることです。
神の栄光が現されます。人間の理性では理解できない、神にしかできない神の御業がなされるのです。内容が小さなことでも、内容が大きなことでもそうです。すべては聖書のみことばによって保証されています。

また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
(エペソ1:19)

そのため、祈りがかなえられたら、すぐに賛美し、感謝することが大切です。
その賛美と感謝があると、改めて、神がそれに応えて下さるでしょう。

そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。

(黙示録21:3-4)

ハレルヤ!