まず、大前提は、神は愛です(第一ヨハネ4:8)。
神は、人間を愛しておられるがゆえに、ひとり子のイエスをこの世に遣わし、信じる者をすべての悪から救うようにされました。神の愛は、ご自身のひとり子を十字架にかけて犠牲にしたところにあります(第一ヨハネ4:10)。人知をはるかに超えた愛です。
現在は新型コロナウィルスによって日本だけでなく、世界の国々が大変な状況にあります。過去2ヶ月の投稿で書いてきたように、これは聖書で預言されていることであり、イエス様がおっしゃっていた終わりの日(終わりの日々)の始まりだと解釈するのが順当です。とは言え、イエス様は、ご自身の再臨まではいくつかのステップがあると説明しています(マタイ24章、マルコ13章、ルカ21章)。従って、その間は、イエス様がおっしゃっているように耐え忍ぶことが必要です。とは言え、神は愛ですから、祈りの中で、天の父や御子イエスと交わりを持つなら、そこにはいつも神の愛があふれるでしょう(第一ヨハネ1章)。
世には患難があります(ヨハネ16:33)。しかし、主イエス・キリストを信じている人には聖霊が働いており、いつも神の守りがあります(詩篇91)。
その人が自覚さえすれば、詩篇65で歌われているような、喜びと感謝、神への素朴な賛美があふれてくるでしょう。聖書のみことばにある神の働きを信じましょう(ローマ10:17)。
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イスラム教が支配的であるシリアで、現地にいるクリスチャンを励ます活動をしているレバノンの教会のリーダーと、数年前にちょっとだけ立ち話をしたことがあります。彼は「迫害を受けていないなら、クリスチャンではない」と言っていました。
なるほど、パウロ書簡では、イエス・キリストを真剣に信じている人は迫害に遭うという意味のことが書いてあります。
確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。
(第二テモテ3:12)
戦火にあるシリアで、しかもイスラム教が支配的である地域で、クリスチャンとしての信仰を守っていくことには多大な困難があるはず。そこでは迫害が日常茶飯事かも知れません。レバノンの教会のリーダーが上の発言をした時には、上の成句を思い浮かべながら、そのような日常を振り返っていたのでしょう。
そして、終わりの日には、クリスチャンが迫害を受けることをイエス様が預言しています。
戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりは、すぐには来ません。」
それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、
大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現われます。
しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕らえて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。
それはあなたがたのあかしをする機会となります。
それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。
どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。
(ルカ21:9-15)
この迫害について、考えてみたいと思います。
なぜクリスチャンは迫害を受けるのか?
迫害する人たちは、なぜ迫害をするのか?
また、主イエスは何と教えているのか?
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聖書の中で、迫害をテーマにした書にエステル記があります。紀元前5世紀、ペルシャ帝国のアハシュエロス(クセルクセス)王の時代、最高位の高官ハマンが発案した政策により、民族としてのユダヤ人全員が殺されようとしていた時に、ユダヤ人であった王妃エステルがモルデカイとともに神の助けをいただいて、ユダヤ人を危難から救った展開が記されています。
この酒宴の二日目にもまた、王はエステルに尋ねた。「あなたは何を願っているのか。王妃エステル。それを授けてやろう。何を望んでいるのか。王国の半分でも、それをかなえてやろう。」
王妃エステルは答えて言った。「もしも王さまのお許しが得られ、王さまがよろしければ、私の願いを聞き入れて、私にいのちを与え、私の望みを聞き入れて、私の民族にもいのちを与えてください。
私も私の民族も、売られて、根絶やしにされ、殺害され、滅ぼされることになっています。私たちが男女の奴隷として売られるだけなら、私は黙っていたでしょうに。事実、その迫害者は王の損失を償うことができないのです。」
アハシュエロス王は王妃エステルに尋ねて言った。「そんなことをあえてしようとたくらんでいる者は、いったいだれか。どこにいるのか。」
エステルは答えた。「その迫害する者、その敵は、この悪いハマンです。」ハマンは王と王妃の前で震え上がった。
(エステル7:2-6)
なお、ユダヤ人は、主イエスを十字架にかけた古い教えの人たち(律法の民)ですが、パウロによれば、アブラハムから始まった祝福はユダヤ人全体から消え失せることはなく、我々異邦人の信仰が完成する時(終わりの日々)に、ユダヤ人も悔い改めに導かれて、イエスをメシアとして受け入れるようになると書かれています(ローマ11:25-29)。いずれにしても、ユダヤ人が我々異邦人でクリスチャンになった者の信仰の先輩であることに変わりはありません。ユダヤ人を尊び、愛することは聖書的です。
エステル記には、ハマンがユダヤ人の迫害者だと書いてあります。ここでのユダヤ人は、新約の時代に、主イエス・キリストを信じることによってアブラハムの子孫ともなったクリスチャンの霊的な原型です(ローマ4章、4:16)。
ハマンが迫害者であるのは、私たちクリスチャンにとって迫害者であるのと同じ図式です。ハマンは、アブラハムを祖先とする「神の民」を迫害していたのです。
同じ図式は、エジプトの王パロとイスラエル人の間にもあります(出エジプト)。パロはすさまじい災害が何度も起こっても、イスラエルの民が荒野で神である主を礼拝するのを認めませんでした。
その他、イスラエル人と戦ったアマレク人やペリシテ人などの異邦人との間でも、迫害に似た状況があります。例えば、ダビデが戦ったペリシテ人ゴリヤテが口から出す敵意ある言葉の中に、迫害を読み取ることができます。
ゴリヤテは立って、イスラエル人の陣に向かって叫んで言った。「おまえらは、なぜ、並んで出て来たのか。おれはペリシテ人だし、おまえらはサウルの奴隷ではないのか。ひとりを選んで、おれのところによこせ。
おれと勝負して勝ち、おれを打ち殺すなら、おれたちはおまえらの奴隷となる。もし、おれが勝って、そいつを殺せば、おまえらがおれたちの奴隷となり、おれたちに仕えるのだ。」
そのペリシテ人はまた言った。「きょうこそ、イスラエルの陣をなぶってやる。ひとりをよこせ。ひとつ勝負をしよう。」
(第一サムエル17:8-10)
詩篇22には、ダビデが受けたと思われる迫害のシーンが記されています。
しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。
私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。
「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」
(詩篇22:6-8)
ちなみにこの部分は、福音書の中で迫害を受ける主イエスにおいて、ある種の預言として成就しています。
同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。
「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。
彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」
イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。
(マタイ27:41-44)
申命記では、迫害する主体を「敵」と記しています。上で見たペリシテ人のような存在です。神の民であるイスラエルに敵対する者です。
私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことが、あなたに臨み、あなたの神、主があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたがこれらのことを心に留め、
あなたの神、主に立ち返り、きょう、私があなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、
あなたの神、主は、あなたの繁栄を元どおりにし、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。
たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。
あなたの神、主は、あなたの先祖たちが所有していた地にあなたを連れて行き、あなたはそれを所有する。主は、あなたを栄えさせ、あなたの先祖たちよりもその数を多くされる。
あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。
あなたの神、主は、あなたを迫害したあなたの敵や、あなたの仇に、これらすべてののろいを下される。
あなたは、再び、主の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を、行なうようになる。
(申命記30:1-8)
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こうした迫害はなぜ起こるのでしょうか?
イエス様は、迫害する人たちを総称して「世」ないし「この世」と呼んでいます。
もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。
もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。
しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。
しかし彼らは、わたしの名のゆえに、あなたがたに対してそれらのことをみな行ないます。それは彼らがわたしを遣わした方を知らないからです。
もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。しかし今では、その罪について弁解の余地はありません。
わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいるのです。
もしわたしが、ほかのだれも行なったことのないわざを、彼らの間で行なわなかったのなら、彼らには罪がなかったでしょう。しかし今、彼らはわたしをも、わたしの父をも見て、そのうえで憎んだのです。
これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。
(ヨハネ15:18-25)
この当時のパリサイ人は、旧約聖書を知り尽くしているのにも関わらず、預言されているメシアが目の前に現れて盲人の目を開けたり、足のなえた人を歩かせたりしているのを見ても、それがメシア=キリストであると認めませんでした。これは、彼らが文字として書かれた聖書ないし律法を尊んではいても、生ける神を礼拝する立場からは遠いところにいたからです。生ける神を真に礼拝していたならば、天の父が、イエスは御子であると示して下さったはずです。事実、バプテスマのヨハネはイエスを神の御子であると、一目で認めました。
主イエスは、「わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいるのです」とおっしゃっています。すなわち、本当の神を礼拝していないため、言い換えれば、本当の神を知らないために、目の前にいるキリストがわからないのです。それゆえ、キリストであるイエスを憎み、イエス・キリストには天の父が直接的に働いておられましたから(ヨハネ14章-17章)、天の父をも憎んだということになるのです。
これが「この世」の立場です。
この世とは、本当の神である天の父を知らず、また、本当の神の御子であられる主イエスを知りません。
知らないために、それが目の前にあると、認めることをせず、逆に迫害するのです。
その背後には、「この世の神」と呼ばれるサタンがいます。
それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです。
その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。
(第二コリント4:3-4)
「この世の神」は、以下のエペソでは「空中の権威を持つ支配者」と記されています。
あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――
キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
(エペソ2:1-6)
整理すると、イスラエルの民(アブラハムの子孫)=主イエス・キリストを信じる人々を迫害する「この世」があり、その背後で「この世の神」であるサタンが動いています。
◎
この地の上でサタン(この世の神)が動くようになった経緯は創世記の冒頭に記されています。
いわば、サタンによって汚染されてしまった人間を救い出すために、神の子であるイエスがこの地に遣わされたのです。
主イエスを信じる人々は、この世の者ではないと、イエス様がはっきりとおっしゃっています。
わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。
彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。
わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。
真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。
あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。
わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。
(ヨハネ17:14-19)
上でイエス様が「彼ら」とおっしゃっているのは、イエスを主であると信じる人々全員です。そういう人々は「この世のものでない」のです。
よって、この世は、そのような人々を憎む、あるいは、迫害する、ということが言えます。
信じているものが違うのです。片方は、天地万物を造りたまいし神のひとり子であられる主イエス・キリストを信じています。そういう人たちはアブラハムに連なる神の民です。また、新約聖書では、神の子どもであるとも書かれています。
一方は、この世の神に動かされています。この世の神は、パリサイ派のようのイエスを絶対に認めようとせず、逆に迫害します。それは、神の敵であるサタンが働いているからです。
◎
このような迫害に対して、主イエスは何と教えていらっしゃるか?
第一に、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と教えています。これは、エペソ6章のパウロの霊的な戦いの教えにあるように、私たちの戦いは血肉(=簡単に言えば人)に対するものではなく、人のうちに働いているサタンないし悪霊である、ということがあります。
つまり、人が迫害をしているのではない、人を動かしているサタン・悪霊が迫害をさせているのだ、という捉え方です。そのため、その人自身を愛し、その人のために祈ることが必要だ、ということになります。
『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。
また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。
だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。
(マタイ5:43-48)
私たちも、振り返ってみれば、イエス・キリストを本当に信じ、聖霊が内に働くようになる前には、様々なこの世の霊によって動いていた時期があったはずです。聖霊を内にいただいて振り返ってみれば、その時期の私たちは、確かに、悪い霊によって動いていました。今、主イエス・キリストの十字架と血によってあがなわれ、聖められてみれば---ハレルヤ!---その当時は悪い霊に動かされていたということがはっきりわかるはずです。
従って、今、目の前で自分を迫害している人も、いずれは、神様の働きにより、主イエスの十字架によって救われて、聖霊によって歩むようになるかも知れません。それがあるために、祈りなさいと、主イエスは教えておられるのです。
具体的には次のように祈るとよいでしょう。あくまでも、祈り方の例です。
天のお父様、ハレルヤ!御名を賛美します。
今、私のそばで、私を迫害している○○○○さんのことを、イエス様のお名前によって、心から赦します。
また、私が○○○○さんに対して、これまで罪を犯したことがあったかも知れません。そのことを、どうぞ、イエス様が流された尊い血によってお赦し下さい。
その上で、天のお父様、あなたに求めて祈ります。
どうか、○○○○さんが、いつか、主イエス・キリストにあって救われ、悔い改めに導かれますように。私がいただいている救いと同じ救いを、○○○○さんもいただけますように。
主イエス・キリストの尊いお名前によって、御前にとりなしてお祈りします。
アーメン
このように、迫害している人のために、とりなして、その人自身も、主イエス・キリストにあって救われるように祈ります。これがイエス様の教えです。1つめです。
◎
2つめは、迫害されたなら、「喜び踊りなさい」と教えておられます。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。
あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
(マタイ5:10-13)
これは、その人たちの中に働いているこの世の神が、迫害されているあなたのことを、「主イエス・キリストの側につく人間であり、神の国を受け継ぐ者であると認めた」ということを示しているからだと思われます。
つまり、敵(その人の中にいるサタン・悪霊)がはっきりと、あなたが神の民であることを認めているということです。それゆえに、主イエスは、喜び踊りなさい、とおっしゃっているのです。
これは、私たちの救いが、神の国における永遠の命であるということと大いに関わっています。すでに、永遠の国に入っているあなたを、迫害によって引きずり出そうとしているという図式がそこにあります。
永遠の命については、また別な機会に説明します。
◎
3つめは、人の前で主イエス・キリストを認めなさい、と教えています。これは、黙示録で「イエスのあかし」(イエスの証)と呼ばれているものです。
また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい。というわけは、確かなことをあなたがたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせないからです。
弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。
弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。
だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。
わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。
からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。
また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。
だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。
ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。
しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。
(マタイ10:22-33)
ナザレのイエスが神の子であり、メシア(救い主)であると人前で証することが、殉教と結びついていた時代がありました。初代教会の頃から、キリスト教がローマ帝国の国教となった頃にかけてです。
殉教者という意味の英語”martyrdom”の語源、音訳ギリシャ語”martus”には、「証をして死んだ人」という意味があるそうです。この言葉がそのような意味を持つに至ったのは初代教会以降。その頃、イエスを証しすることは、殉教に結びつく可能性のある行為でした。ペテロもパウロも殉教したと伝えられています。ペテロは、主イエスと同じ十字架は恐れ多いとのことで、逆さ十字につけられることを求めたという伝承があります。
黙示録には、信徒たちは、主イエスを証して、サタンに打ち勝ったという記述があります。
兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。
(黙示録12:11)
このように、自分の命が脅かされる可能性があるとしても、そこでなおイエスを証するということを、主イエスは教えておられます。
一方で、その際には、聖霊が証のための言葉を教えて下さるともおっしゃっています。
だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。
こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。
彼らに捕らえられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。
(マルコ13:9-11)
イエス様を証するとき、そこに必ず、主イエスがおられます。聖霊も豊かに働いて下さいます。そのことを黙示録では、「イエスの証は預言の霊」と記しています(黙示録19:10)。
◎
迫害された時、負けっぱなしでよいのか?という疑問があります。なるほど、主イエスは、右の頬を打たれたら左の頬も向けなさいとおっしゃっています(マタイ5:39)。
しかし一方で、私たちには、敵に打ち勝つすべての権威を授けたともおっしゃっています。この敵とは、上述のように、血肉=人ではなく、迫害する人の中で働いているサタン・悪霊(目に見えない存在)です。
さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」
イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。
確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。
だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」
(ルカ10:17-20)
イエス様は、イエス様を信じる者は、イエス様と同じわざを行うと明言しておられます(ヨハネ14:12)。
このことには色々なことが含まれますが、悪霊に対して権威を持って当たる、ということも含まれます。悪霊を追い出す、悪霊を縛るないしつなぐ、ということも含まれます。いずれにしても、悪霊に対して権威を持った存在として迫り、立ち向かい、主イエスの名で何かを口から言って、それによって悪霊を退かせたり、繋ぎ止めたりすることができます。根拠聖句には、マタイ16:19、ヨハネ14:14、マルコ16:17-18があります。
わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。
(マタイ16:19)
(このみことばは、ペテロ一人に与えられたと解釈するのではなく、イエスを生ける神の御子キリストとして心の底から信じる信仰を与えられた人すべてに与えられたみことばだと解釈する。そうして信じる)
あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。
(ヨハネ14:14)
信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、
蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。
(マルコ16:17-18)
聖書に書かれていることを信じて、口で言うなり、祈るなりすると、そこに神の力が働くという原理があります。主イエスが説いている、「私と同じわざを行う」とは、そういう意味です。イエス様のように、権威を持って、対象に言う(宣言する)のです。そうすると、言った対象はその通りになります。山が動く教えも同じことを言っています。
従って、信仰が育まれていれば、そのことができます。上の根拠聖句に基づけば、迫害している人に働いている、目に見えないサタンないし悪霊に対して、主イエスの名で何かを言うと(その人の前ではなく、どこか陰ででも)、そのサタンないし悪霊の動きが繋がれる、ないし、縛られるということが起こります。これは、主イエスの名で求めたことに、イエス様がご自身が動かれる、あるいは、天の父が動かれることによって起こることです。神のわざですから、信仰が必要です。
また、すでに記したように、迫害する人自身については、赦してかかる必要があります。また、その人自身も主イエスにあって救われるように、とりなして祈らなければなりません。
その上で、その人の中に働いているサタンないし悪霊を、主イエスの権威ある名によって、つなぐ、ないし、縛ります。
そのような対処の仕方もあります。負けっぱなしでいる必要はないです。
私たちは、神の国に入ることを認められた王である祭司であり(ペテロ第一)、上のように、あらゆる敵に打ち勝つ権威を主イエスから授けられています。
迫害にあっては、主イエスを正々堂々と証すると同時に、働いているサタン・悪霊に対しては、主イエスの名によって力強く縛ることで臨むことができます。
そうして、主イエス・キリストの御名をほめたたえ、天の父に感謝します。
ハレルヤ!