神は言葉であり、その言葉は聖書に書かれています。
また、その神の言葉が、人であるイエスとしてこの地に現れ、福音を宣べ伝えた後、十字架にかけられ、三日目によみがえって、サタンに対して完全な勝利を遂げられました。
神の言葉は、イエスが神の子であると信じる者の支えとなり、永遠の命を与えます。
まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。
(アモス3:7)
従って、イエスを神の子であると信じる者は、神の言葉に従って生きなければなりません。
イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。
(ヨハネ14:23-24)
これは、信仰がすわらないうちは、ある種の強制のように受け止められるものですが、信仰が確立すると、ああ、なるほどそうかとわかるようになります。すなわち、イエスを愛する人はイエスの言葉を守って当然だと受け止められるようになります。(信仰を確立するためには、ひたすらみことばを口ずさむ日々を一時期持つ必要があります。過去投稿で何度か書いています)
例えば、クリスチャンの兄弟と何かの口争いがあったとします。自分から見れば全く相手の方が悪い、相手に避難すべきことがある。そこを筋道立てて彼に説明すると、なお火に油を注ぐような状況になる。そういう時に、「イエス様は何と教えていたか?」と心の中で尋ねる。そうすると、すぐに、みことばが思い浮かぶ。おそらくは聖霊が助けて下さっている。
「人を赦しなさい」(ルカ6:37)、
「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)、
「互い足を洗い合うべきです」(ヨハネ13:14)。
ああ、そうか。ああ、そうかとなります。
ローマ書に書いている「肉」である自分には、こうした神の言葉を守ることが大変に難しいのが普通です。
しかし、信じる私たちはローマ書に書いてある「御霊」によって歩むことができますから、御霊=聖霊の助けを受けて、神の言葉をすっと守ることができます。
すぐに、「イエス様のお名前によって、○○○○さんのことを赦します!」と天の父に告白する(第一ヨハネ1:9)。すると、聖霊が助けて下さって、その兄弟に対するマイナスの思いがさっと消えます。そのようにして、神の言葉を守ることができます。ハレルヤ!感謝なことです。
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今回の新型コロナウィルスの状況に関しても、対処方法の原理は同じです。
まず、聖書に何と書いてあるか自分で確認する。
聖書に書いてあることに基づいて、自分がどう行動すればいいのかを理解する。
そうして、イエス様がおっしゃっているように、みことばを守る。
それだけです。
そうすれば、聖書で約束されているアブラハムの子孫に与えられる祝福、神の子どもとしていただける祝福、神の国とその義を第一に求めていることで与えられられるすべての必要なものが与えられます。私たちが信じているのは神ですから。神に不可能なことは一つもありません。特に、詩篇91編には、恐ろしい感染病の中から神の民を守る神の力強い救いが書いてありますから、それを何度も口ずさんで信仰を確立することにより、その神の守りが現実化します。神の言葉は信仰あるところに神の力となって働くのです。
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自分で聖書を調べるというクセをつけることは大切です。
聖書は大海のような書物の集まりですから、最初は当てもなくて右往左往することが多いと思いますが、何度も何度もトライしているうちに、コツがわかってきます。インターネットの検索も役立ちます。また、聖書を読み進めて行って、聖書の色々な部分が頭の中に入ってくると、どこをどう調べればいいかわかってきます。
武漢で新型コロナウィルスに由来する肺炎が報道された時にも、すぐにこれはイエス様が預言していた「疫病」ではないかと思いました。それでその関連のところを調べてみる。マタイ、マルコ、ルカの3章に、大変に似た記述で終わりの日のことが記してあります。総合すると、書いてあることにほぼ合致します。ここまで確かめたら、あとは、祈りの中で、神に直接尋ねます。
神と応答するやり方については、過去に何度か記してきました。そちらをご覧下さい。教えていない教会も多いと思いますが、そこも、聖書に基づいて理解します。聖書には何と書いてあるか?これが原理原則です。聖書の神の言葉に耳を澄ませます。上記ヨハネ14:23-24など。
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元々IT企業の情報屋であったため、情報への感応度は高いです。また、IT産業では欠かせない将来予測をよく業務として行っていたため、その方法はわかっています。信頼できる情報ソースをできるだけ多くインプットして状況認識のマップを頭の中に作り、そのマップを見て方向感を得ます。その辺は過去2ヶ月の投稿で書いてきました。
そして得られた結論は、ルカ21章でイエス様が預言なさっている終わりの日に入ったことは、ほぼ間違いない。また、黙示録6:8で記されている状況にも近い。では、クリスチャンはどうするべきか?(→新型コロナウィルスの状況を聖書的に理解する(下))
、ノンクリスチャンの方はどうするべきか?(→ノンクリスチャンの方がどのようにして終わりの日に救われるか?)
書いていいいことかどうかわかりませんが、中国武漢の感染拡大が報道され始めた頃、祈っているときに、膨大な数の死者が布にくるまれている光景が見えました。それが、神が見せて下さったものなのか、私の心的な作用から出てきたイメージなのか確たることは言えませんが、武漢で、そして、イタリア北部で、そうした状況が生起しています。
神は、この状況で、怒っておられるのか?
私が受け止めているのは、むしろ、神の愛です。いつにも増して、愛であられる神が天で控えておられます。この神とは、三位一体の神の分類で言えば、父なる神のことです。
父なる神は、「御子イエスの救いの中に入りなさい」とおっしゃっておられるようです。
聖書で預言されている上記の事柄からすれば、御子イエスの再臨は今日、明日起こるという緊迫度ではないにしても、比較的近い将来に起こる可能性があると解釈できます。従って、
「御子イエスの救いの中に入りなさい」という天の父のメッセージは、
「今のうちに」という時間の締め切りが付いたメッセージであると解釈しています。
これは、マタイ24章、マルコ13章、ルカ21章の記述とも合致し、聖書的であると解釈できます。
主イエスが来られる前に、イエス・キリストを主として受け入れて、悔い改めをするなり、聖書に書いてある整えをして、主イエスの再臨にあって、しっかりと真正面からイエス様を迎えられるようにしなければならない。それには、先々週の投稿で書いた油を整えるということも含まれます。
神はどのように解釈しても愛であられる方ですから、常に人間に手を差し伸べています。
人間はそれに気づかないといけません。何によって?聖書の神の言葉によって。そして祈りによってです。
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この2ヶ月で理解できたことは、こうした主イエスの預言に基づく終わりの日に関する理解や解釈をしていない教会が多いということです。私からすれば、この世で起こっていること、特に、日本以外のイタリア、スペイン、米国のニューヨーク州などで現在進んでいることとと、ルカ21章の記述や黙示録の記述を照らし合わせると明々白々であるのに、どうして多くの教会リーダーたちはこれがイエス様の預言なさっている事柄であると捉えないのか?素朴な疑問が湧いてきます。
これについては、2つの理由づけをしています。1つは、「新しい事柄」を社会的に受容する際には、必ず、少数派から多数派へと時間のかかる推移をしていくという、社会学者エベレット・ロジャーズのイノベーション普及理論の中身が「終わりの日の理解」についてもまったく当てはまるというもの。
ロジャーズのイノベーション普及理論についてはインターネットで多く解説されていますので、興味のある方は検索して見て下さい。
ポイントは、現在目の前で起こっていることがルカ21章などで預言されている終わりの日だという認識は、キリスト教界全体で(日本でも欧米でもその他の国々でも)まったく新しい認識であるので、最初はロジャーズが説明するように成員の2.5%程度のみが理解する。続いて成員の12.5%まで拡大する…というような、新しい事柄(ロジャーズが言うイノベーション)に関する理解が時間をおいて拡大していく、そのようなパターンだろうということです。(似たことは、ルターから始まった宗教改革が欧州諸国に拡大していく際にも見られたはず…)
この説明が正しいとすれば、まもなく、世界のキリスト教界の12.5%程度(アーリーアダプター層)がそのような認識を持ち、少しの広がりを得ます。日本でも、そのことを言う教会の牧師やクリスチャンのリーダーが出始めるでしょう。それから間を置いて、多数の人へとこの認識が広まっていきます。
要は、時間が早いか遅いかの違いです。私はそのように捉えています。なお早いから偉いなどということは一切ありません。いずれは皆が知ることです。聖書で書かれている通りの展開になります。
草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。
(イザヤ40:8)
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もう一つは、個々のクリスチャンも個別の教会も、主イエス・キリストの体を構成する一つの器官にすぎない。「全体」であることはできない。パウロがローマ12章や第一コリント12章で説明しているように、一人のクリスチャンは器官であるので、それぞれ働きが異なっている。全部が組み合わさって、生ける神、主イエス・キリストとしての体を構成する。個々の教会もまったく同じ。完全な教会はない。それぞれに部分的な役割が割り当てられている。預言的な教会もあれば牧会的な教会もある。信徒が愛し合うことに焦点がある教会がある一方で、信徒が外で伝道することに注力する教会もある。預言や癒しに取り組む教会もあれば、聖書の勉強に熱心な教会もある。それぞれ役割が違うということです。
一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、
大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。
(ローマ12:4-5)
確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。
たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。
しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。
もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
(第一コリント12:14-20)
このように、パウロが「器官」として説明していることをこの事柄(現在起こっていることがイエス様が預言なさった終わりの日だと認識し、教えている教会がまだ少ないこと)に適用すれば、聖書に合致した説明ができます。このブログも一つの器官であり、部分です。よって欠けは多く、不完全であり、足りないところがたくさんあります。一方で、多少は他よりも早く認識して「新型コロナウィルスの状況は聖書的に理解すればこのようなものではないか?」「主イエスの再臨はすぐには起こらないにしても、近づいているということは言える」…。そのようなメッセージをお渡しできる…。そのようなものなのだと考えています。ここでも早いから偉いなどということは一切ありません。いずれは皆が知るところとなり、主イエスの再臨を迎えることになります。聖書に書いてあることがそのまま起こります。
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上に書いたことは、聖書全体のメッセージである「主イエスが王の王となって、神の民とともに新天新地を治め、天の父の栄光が永遠にほめたたえられる」ということから比べれば、大変に小さなことです。
大切なのは、イエス・キリストです。イエス・キリストが今どう動かれようとしているか。それを聖書を調べて読み取り、各自が祈って、天の父や御子イエスや聖霊から、御心を示してもらいながら、適切に動くこと、聖書的に動くことが肝要だと考えます。
イエス様は、産みの苦しみだと表現しています。主イエス・キリストの体が建て上げられるための産みの苦しみです。
しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。
(マタイ24:8)
私が理解していることは、聖書に書いてあることが正しければ(正しくないはずはありません)、世界の混乱の度合いは想像を絶するものになります。ルカ21:26には、「人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。」とあります。経済、金融、サプライチェーン…。食料の供給…。また、軍事的なバランスも変化しつつあります。戦争についても預言されているところです。
結果として、世が騒然としてくるので、色々なタイプの教会リーダー、クリスチャンリーダーが見られるようになると思います。これもイエス様が預言なさっている通りです。
見分け方は、自分の栄光を求めているのか、神の栄光を求めているのか?です。
これもまたイエス様がおっしゃっている通りです。
そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。
だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。
自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。
(ヨハネ7:16-18)
そういうことがあるため、まず、自分で聖書を調べて、自分で理解し、それから神に祈って、神から応答をいただくということを、今からトレーニングしておくことが大切だと思います。
神の言葉に聞く。それが神に従う際の正しい方法です。人の言葉に聞かずに、聖書を調べて、神の言葉に聞く。そういう姿勢があれば、聖霊が助けて下さいますし、御子イエスも天の父もそばにやってきて、一緒に住んで下さいます。
あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
(第一コリント3:16)
神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
(第二コリント6:16)
(注、第一コリントの「神の神殿」と第二コリントの「神の宮」はギリシャ語原典では同じ言葉が使われています。神が住まわれるところです)
イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
(ヨハネ14:23)
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。
(ヨハネ16:13-14)
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
(黙示録21:2-4)
アダムがまだ堕落しなかった頃、神とは仲良く対話されていました。あの頃の状態が、主イエスの十字架によって回復したのです。主イエスの宣教の第一声、「神の国が近づいた」は、そういうことも言っていると信じています。