人間としてこの地の上に来られたナザレのイエスが、十字架に付けられていったんは人間として死んだものの、三日目によみがえられたということには、歴史的な意味、聖書の預言が成就したという意味、霊的な意味(イエスを信じる人の信仰において開かれる意味)、神のご計画においての意味、福音の基礎としての意味、サタンに対する神の戦いとしての意味など、いくつかの意味が組み合わさっています。どれも独立した1本の投稿を必要とする内容ですので、ここでは1つだけお伝えします。
主イエス・キリストを信じる道を選んだ人は、どこかで死ななければなりません。この「死」は、人間としての生命が終わってしまう死ではなく、精神的な死、社会的な役割の死、人間関係における死、仕事面の死、信仰を持った存在としての死など、自分が生きていく上で本当に死んでしまうような経験を通過することを指します。
このような生きていく上での死ぬような経験があって、そこで新たな生きるための力を、指針を、十字架に付けられて三日目によみがえった主イエスからいただくことができます。パウロはこれを、「キリストの死にあずかるバプテスマ」と呼んでいます。上で書いた「霊的な意味」に該当します。
イエス・キリストに忠実に歩もうとする者は、どこかで死ぬような経験をすることになる。しかし、主イエスとともによみがえることができる。それが、「キリストの死にあずかるバプテスマ」です。
それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
(ローマ6:3-4)
私たちはこの世の人として生まれてきていますから、性格や欲求や食べ方や時間の過ごし方などにおいて、この世の人のように動いてしまいます。他者を判断する時に、どうしても自分勝手な尺度で見てしまいます。
人に対して怒ったり、嫌ったり、憎んだりということがあります。
神に対して申し訳ないことをしてしまうこともあります。
主イエス・キリストを信じる人は、主イエスの十字架と血によって「聖なる者」とされていますが(第一コリント1:2)、24時間365日聖なる者であり続けることはできません。
一緒に暮らしている妻から見れば、夫のあらが色々見えます。その逆も言えます。
教会の中でも兄弟姉妹を見れば何かのあらが見えるでしょうし、その逆に兄弟姉妹から見れば自分自身のあらがよく見えるでしょう。教職者にしても同じことが言えます。
つまり、私たちは依然として人間的な要素を残しながらキリスト者として生きています。
主イエスの弟子になるとは、そうした部分においても、神の前で砕かれて、受難の時の主イエスのように天の父の御心に従って歩み、罵られても罵り返さず、みことばを守りきることです。それがそうはできない人間的な部分において、文字通り死ぬような経験をすることになる。それが、キリストの死にあずかるバプテスマ、だと解釈しています。
パウロも人間でしたから、ありとあらゆる経験をしたと思います。人一倍ユダヤ教の教えに通じていましたから、ユダヤ人のクリスチャンのあらもよく見えたでしょう。また、異邦人でクリスチャンになった人のあらもよく見えたでしょう。しかし一方で、主イエスは互いに愛しなさいと命じています。また、互いに足を洗いなさいと命じています。信仰を取るか愛を取るか。コリント第一の教えを基にすれば、愛を取ったはずです(第一コリント13章)。
そういう時、ギリギリのところで、主イエスの命令(主イエスのみことば)を守るのに大変な時、そこにおいて死ぬような経験をすることになるのです。主イエスは、私を愛する者は私の言葉を守りますと明確におっしゃっています。イエス様を愛する人はイエス様の言葉を守らなければなりません。けれどもこの世において展開することは、時々、それを難しくします。目の前にある状況で、人間的な思いを吐き出して相手にぶつけてしまいたい時、そこでイエス様の教えを思い起こして、それを守る。それがその場では「自分が死ぬ」ような経験になる。それが、キリストの死にあずかるバプテスマです。
パウロは毎日が死の連続ですと書いていますから、そういう経験をしょっちゅうしていたと思います(第一コリント15:31)。そのような経験を、パウロに限らず、主イエス・キリストの教えを忠実に守ろうとする人は、することになります。
そのようにして自分が死ぬと、その後から、主イエスのよみがえりが目に見えない霊的な力として自分を支えてくれる、実感として理解できるようになる。主イエスのよみがえりを霊的に自分も経験することになる。主イエスのみことばを守って死んだことによって、神が自分をよみがえらせて下さる経験へと導かれる。そういうことがあります。
主イエスが死からよみがえったことには、そうした、自分にとっても強く働く霊的な意味があります。
それもあって、イースターおめでとうございます!というお祝いの気持ちが湧いてきます。