日曜投稿:神は人が神を知るために御業をなさる | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

quisnovus

 

この新型コロナウィルスの状況は、人に、立ち止まって、色々なことを考えさせる働きを持っています。

「自分が2週間後に死んだらどうなるだろう?」
「仕事がなくなったらどうなるだろう?」
「食べるものが買えなくなったらどうなるだろう?」

人間が生きていく上で、当たり前だと思っていたことについて、再考を促す働きがあると言えます。

論理的に物事を考える人なら、哲学的な問題としてとことん突き詰めて考えて、「ならば、自分はこうしよう」という落とし所に至るのかも知れません。
また、落とし所には至らず、堂々巡りを繰り返すだけかも知れません。論理的に現在起こっている事柄を分析しようとしても、考慮すべき要素が感染状況だけでなく、経済や金融の動き、個別の企業の動きなどが複合、連鎖していて、思考をスタートさせるための前提が不確定な要素だらけです。無数のシナリオについて検討を加えて行かざるを得ず、分析には終わりがありません。

そういう中で、神に目を向ける人もいると思います。

「この状況は、ひょっとしたら、神がもたらしているのではないか?」
「自分は、これまで、宗教のことはよく考えてこなかったし、神を信じるということもしてこなかったけれど、今回だけは何か違う。神が、自分に、何かを促しているのではないだろうか?」
このように考える人が少なくないのではないかと思います。

地震があると、すぐにTwitterにアクセスして、どこが震源地なのか、震度いくつなのかを確かめます。私はテレビを長らく見ない環境にいるのと、もっとも早い情報はTwitterから来るからです。Twitterで「地震」の2文字で検索するだけで、リアルタイムで流れてくる地震情報が見られます。

先日、宮城沖で震度4の地震があった時も、Twitterにアクセスして確かめました(4月20日のこと)。
多くの人が今揺れたばかりの地震について発言していましたが、その中で半数程度の人が「現在、新型コロナウィルスで大変な時なのに、地震まで重ねて起こるとは」→「神様、助けて」というニュアンスのことを書いていました。

おそらく、現在この新型コロナウィルスの状況を目の前にしているほとんどの方々は、神の存在に気づいているのではないかと思います。あるいは、気づき始めている、と言えるでしょう。

日頃は意識することのなかった神。その神が、過去に経験したことのない状況の背後にいて、自分に何かを求めているのではないか?そういうことに薄っすらと気づいているのではないかと思っています。新型コロナウィルスは欧米やアジアだけでなく、中南米やアフリカ、ロシアにも拡がっていますから、地球上のほぼ全ての人が、そのように、神というものについて、何かを感じ取り、考え始めているのではないかと思います。



聖書の神は、人に対して、意図的に自らを現すことがあります。
自分が神であり、自分こそが本当の神であるということを、人にわからせることをなさるのです。

例えば、エジプトの王パロ(ファラオ)がイスラエルの民を奴隷のように酷使して大規模な建造物を作らせていた時、神である「主」は、イスラエルの導き手となるモーセに現れて、「エジプトが神である『わたし=主』を知るようになる」と告げました。

主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたをパロに対して神とし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。
あなたはわたしの命じることを、みな、告げなければならない。あなたの兄アロンはパロに、イスラエル人をその国から出て行かせるようにと告げなければならない。
わたしはパロの心をかたくなにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で多く行なおう。
パロがあなたがたの言うことを聞き入れないなら、わたしは、手をエジプトの上に置き、大きなさばきによって、わたしの集団、わたしの民イスラエル人をエジプトの地から連れ出す。
わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエル人を彼らの真ん中から連れ出すとき、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。」
そこでモーセとアロンはそうした。主が彼らに命じられたとおりにした。

(出エジプト7:1-6)

これは、神の民であるイスラエルの民、簡単に言えば自分の息子たち娘たちが奴隷の状態にあって大変に苦しんでいたので、神である主が見るに見かねて、そこから救い出そうと思われた。救い出す際には、エジプトが「これこそは神である!」ということをはっきりとわかるように、大いなる不思議な御業(みわざ)をなさる。そのことをお告げになったのですね。

神である主のことを、神だとは思っていないエジプトの王とその民に対して、「この方こそが本当の神である」ということをわからせるために、神にしかできない大いなる不思議な御業をなさる。そのことを宣言されたのです。

そうしてエジプトに対して10の災いをもたらし、最後のものは、エジプト中の人間から動物に至るまで初子をすべて打つ(死に至らしめる)というものだったため、エジプトは王から国民に至るまで、これこそが「主」という神である、生きている神であるということを、いやが応にも知ることになりました。

そのように、聖書の神は、自らが神であることを、神を認めない人たちに対してわからせる目的で、大きな御業をなさる時があります。それが旧約聖書には何度か出てきます。

なお、日本語訳聖書で「主」と訳されている神の名については、以下の投稿で整理していますので、何か疑問がありましたらお読み下さい。

神の名。なぜ「イエスの名」によって祈るのか?




列王記第一20:28の以下の部分も、イスラエル国に敵対しているアラム国が「イスラエル国の神は『山の神』であって『低地の神』ではない」と言っているから、神である主がご自身を現してアラム国に思い知らせる…それと同時にイスラエル国にも「私こそが『主』である」とわからせる、と告げています。

ときに、ひとりの神の人が近づいて来て、イスラエルの王に言った。「主はこう仰せられる。『アラムが、主は山の神であって、低地の神でない、と言っているので、わたしはこのおびただしい大軍を全部あなたの手に渡す。それによって、あなたがたは、わたしこそ主であることを知るであろう。』」
(列王記第一20:28)

ちなみに、「神を知る」ことは、聖書ではきわめて重要な事柄です。
ヨハネの福音書では、主イエスが「まことの神である天の父」と「イエス・キリスト」の両方を知ることが、永遠の命であるとおっしゃっています。

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
(ヨハネ17:3)

天の父と主イエスとを「知る」ことが「永遠の命である」とまでおっしゃっています。「神を知る」ことに永遠の命がある、ということを告げておられるのです。
それほどまでに「神を知る」ことは重要です。

この「知る」は、知識として知る、情報として知る、論理的に知る、というところをはるかに超えて、「これこそが生きている神である」ということを、全人格的に腹の底から知るということを意味しています。「ああ、もう、この方こそ神である」、「この方を置いて神はいない」ということを、腹の底から徹底的にわかる、というようなわかり方です。

そういうわかりかたを人に求めて、聖書の神は大きな御業をなさる時があるのです。次のエリヤのくだりも、そういう神の現れ方を示しています。

ささげ物をささげるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行なったということが、きょう、明らかになりますように。
私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」
すると、主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。
民はみな、これを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。

(列王記第一18:36-39)

ここは、悔い改めるべき部分を多々持っているイスラエル王のアハブと、邪教の崇拝者である妻イゼベルとが囲っているバアルの預言者450人、アシェラの預言者400人がカルメル山に集められ、二頭の雄牛のいけにえを前に、主の預言者であるエリヤが祈った時、神である主が大いなる御業をなさって天から火が降ってきたというくだりです。天から降ってきた火は、バアルの預言者450人、アシェラの預言者400人が見ている前で、一瞬にして二頭の雄牛のいけにえを焼き尽くしてしまいました。生ける神である主の凄まじさを目の当たりにした彼らは「『主』こそ神です、『主』こそ神です」と叫んで、ひれ伏したのです。

神がこのような現れ方をなさる場合、往々にして、人々の間に、神を侮辱するような態度があったり、神を甘く見るような姿勢があります。

ダビデが巨大な体格を持った軍人ゴリヤテを退治した際にも、同じ図式がありました。ゴリヤテは、イスラエルの神である主を明らかに侮辱し、甘く見ていました。

そのペリシテ人はまた言った。「きょうこそ、イスラエルの陣をなぶってやる。ひとりをよこせ。ひとつ勝負をしよう。」
(第一サムエル17:10)

「イスラエル」という名称は、ヤコブが神の使いと戦った後で付けられた名前です。ヘブライ語の意味は"God rules/judges/struggles"(神は治められる/裁かれる/争われる)だそうです。神である主の働きがこの名称には含まれており、その「イスラエル」をはなから侮辱してかかってきたゴリヤテに対して、ダビデが戦い、そこに主の力が働いて、奇跡的な勝利が達成されました。ここでも神の御業が現されたと見ることができます。
神を侮辱する者に対して、神である主が人知をはるかに超える御業をなさって、これは本当の神でしかありえない、というようなわからせ方をなさるのです。

似た図式は、ヨブ記のヨブに及んだ災難と、最後の場面で現れた神の姿にも見ることができます。色々な災難がヨブに及んで、友人たちと神はどのようなものか延々と議論が続く中で、本当の神である主が現れなさって、ご自身が「神とはどのようなものか」について直接的に語られます。



神は愛であられます。
神は、ご自身の被造物である人間を、一人ひとりの人を、間違いなく愛しておられます。
しかし、人の側が、そのことをよく理解しない。残念なことに。この世のものに色々と囲まれているので、神が与えて下さっているものがよくわからない。認めることができない。

神は、愛であられるので、ひとり子のイエスを地上に遣わして、十字架に架けられた。愛してやまないひとり子であられるイエス。天地創造の際にともに天地を造り、人を形作った御子イエス。そのイエスを地上に送って、人々の救いのためにいけにえにされた。
イエスを信じれば、すべての罪が赦され、永遠の命に入っていくことができるという福音。その福音を用意された神。

その神を認めず、福音に耳を傾けようとしない現代社会があります。
そこに対して、旧約の時代のように神が御業をなさっている。そのような聖書解釈が、マタイ24章、マルコ13章、ルカ21章、黙示録などから得られます。

神は、神ご自身が本当の神であることを、人々がわかるように御業をなさっている。その結果として、地球規模の感染拡大があり、経済が止まり、交通が止まり、色々な現代的な物事が停止している。神のメッセージは、人々が立ち止まって、神のことを知るようになること。また、神のひとり子であるイエスを信じれば、この状況からも救われるのだという福音に耳を傾けること。

そのように解釈すると、現在私たちの身の回りで起こっている新型コロナウィルス感染拡大と、それに伴う経済などの困難をよく理解できるようになると思います。これは神が御業をなさっているのです。本当の神がどのようなものであるのかを、人知を超えた方であることを、わからせるために。
旧約で主がおっしゃっているように、主は民に対して疫病を送ることがあります。それが起こっています。その真のメッセージは、イエス・キリストにたち返りなさい、今のうちに、ということである。そのように解釈できます。

わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。
(歴代誌第二7:14)



聖書で書かれていることによれば、これからますます困難の度合いは増していきます。私の見方ですが、産業革命以降に築かれてきた現代的な文明や現代的な経済のあり方、生活を取り巻く様々な発展が突き崩されていくのではないかと思っています。あたかも申命記28章のうしろ2/3に書かれている、聖書的な意味でいう「のろい」が展開している状況です。

それもこれも、御子イエスの救いの下に入れば、見事に救われるのです。詩篇91篇で述べられている神の助けによる救いの中に入ることができます。御子である主イエス・キリストをしっかりと信じて、聖書のみことばを守る人たちには、諸々の災難が及ぶことはありません。それは聖書の各所に書かれています。

聖書をまっすぐに読むと、今展開している物事も、これから起こる物事も、すべて、神が御業をなさっているという観点からシンプルに解釈することができるようになります。また、救いはイエス・キリストのみにあるということも、すんなり理解できます。

何も複雑なことが起こっているわけではありません。
全ては聖書に書かれていることが起こっています。

愛であられる神は、御子イエスを救いの中心として私たちに差し出されました。イエス・キリストのみ。そこが神である主が告げておられるメッセージです。そこに愛があります。

人間は、神によって造られたもの。
神を知らない人間にも、救いの道は用意されている。
イエスを知り、イエスを受け入れれば、そこからは光の生活へ入っていくことができる。

聖書の色々なところを読んで総合すると、そのような解釈ができます。
この世にいながらにして、神の国の永遠の命に入っているので、何があっても安心です。平安があり、喜びがあります。ハレルヤ!

皆様に主イエスの救いが及びますように。