日曜投稿:クリスマス、神の子イエス、神の子どもである私たち | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Daniel Lerps

 

なぜ、聖書のみことばをすんなり理解するのが難しいのか、度々考えてきました。それも特にこの日本で、なぜ、そうなのか。

つまるところ、福音を聞けなくさせる敵の目に見えない働き、あるいは、福音のメッセージをすんなり通らないように邪魔をする敵の目に見えない働き。そうしたものを想定すると、ああそうかと、立ちどころに物事が見えてきます。ああそうか、敵が邪魔をしていたのかと。次のパウロの言葉は、そこのところをうまく説明しています。

その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。
(第二コリント4:4)

「この世の神」というものがある。それが「不信者の思いをくらま」せたり、「福音の光を輝かせないようにし」たりする。

この世の神とは、聖書では、黙示録12章で「この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇」と書かれているサタン、ないし、悪魔ですね。サタンとは、ヘブライ語の大元の意味は「抗うもの」(あらがうもの)。神に反抗する者。その延長で、よりわかりやすく記すと、神の意図の正反対を行う者(あまのじゃくですね)。また、神の言葉の反対の言葉を吐く者、ということにもなって行きます。

神は、神の意図を、神の言葉によって成し遂げますから、神の言葉がわかりにくい状況には、神に抗うサタンの影響が働いている可能性があります。
聖書のみことばがすんなり入っていかないという状況は、おそらく、敵の霊(=サタンないし下位の悪霊)が働いているケースが多い…。その辺がよくわかってきました。
(しかし、このことは、さほど深刻に捉えて悩む必要はない、ということもよくわかってきました。イエス・キリストが私たちに与えて下さった権威(ルカ10:19)によって、また、御国の鍵(マタイ16:19)によって、その影響を縛る、ないし止める、という祈りをすると、それで主イエスが働いて下さいますから(主イエスの名によって祈るので)、それで働きが止む。それで済む話です。そのことが、最近わかってきました。)

この悪魔ないしサタンが、創世記で、創造されて間もないアダムとエバに働きかけ、神の言葉とは少し違う言葉を吐いて、騙して、人間が神の意図に背くようにさせた。それにより、創世記の最初で人間に与えられた神からの祝福は去り、現在につながるこの世の大変さ、苦しみ、聖書で言う呪いがもたらされた。

この世の神とは、神が作った本来的に良いものを、自分の側の性質を帯びるように染め上げると言うか、引きずりこむと言うか、ぐるぐる巻きにするというか。とにかく、神の祝福の反対へ、反対へと、人を引っ張って行きます。

なので、本来は、ものすごい意味を持っている福音、つまり、イエス・キリストによってこの地の上にもたらされたすばらしいものに関する、この上なくすばらしい知らせも、なんとなく、頭で理解できるだけのもの、聖書でお勉強をするだけのもの、というものになってしまっています。悲しいことですが。

福音とは、実は、ものすごいものだ。それに最近ようやく気付きました。実際、ものすごいです。



イエスは、この世にお生まれになって、神の国の福音を説かれました。神の国の福音、ないし、御国の福音を説かれたという記述が、福音書には何箇所も出てきます。

神の国とは何か。
一般的には、死んでから行く永遠の命があるところと理解されています。簡単に言えば、天国。

しかし、主イエスが意図していたのは、「この世」と主イエスが何度も言及していた、サタンの目に見えない影響(=霊的な影響)が覆っているこの世。それに対比できる「主イエスの原理が生き生きと働くこの地の上の国」であることが、聖書をよく読み込むとわかってきます。

例えば、主イエスの名によって病んでいる部分に命令すると、そこに神の力が働いて癒される。それが神の国です。
また、主イエスの名によって悪霊に命令すると、主イエスの権威やその名の権威によって悪霊が逃げていく、ないしは、出ていく。それが神の国です。
それがそうであることは、以下のみことばから知れます。

しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。
(ルカ11:20)

神の指によって悪霊どもを追い出すというのは、神の権威によって悪霊を追い出す。あるいは、天の原則によって、この地の上で力を振るっている悪霊を追い出す。あるいは、イエス・キリストの権威=神の子の権威によって悪霊を追い出す。いずれも同じ意味になりますが、そういうことです。

そういう事態が起こっているなら、そこに神の国が来ている。しかも、「あなたがたに来ている」とおっしゃっています。
神の国は、イスラエルのどこかに来るのではなく、特定の教会の建物の中に来るのでもなく、あなたや私のところに来るのです。それは、主イエスが以下のようにおっしゃっていることとも符合します。

『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」
(ルカ17:21)

神の国は、天にあって、死んでから入る永遠の命というだけでなく、私たちが生きている間に入ることができる、ある種の状態であることが、このみことばからわかります。

ある意味、天の永遠の命を、この地の上で先取りする状態だと言えるでしょう。それが神の国です。天の原理が働く状態。イエスの名によることばに、神の力が働く状態。マルコ16:20で「みことばに伴うしるし」のことが書いてありますが、あれも、神の国が現れている状況では、そうしたものが伴う、現れる、ということです。



主イエスが説いていることは、サタンが目に見えない形で覆っているものを、祈りによって取りのけることにより、鮮やかな意味を持って、聴く人に迫ってきます。本ブログで何度か説明してきた、みことばを最低でも21日口ずさむということは、そうした敵の邪魔をどかすための、もう1つのやり方です。みことばが本来持っている霊としての命が、それによって生き生きと働くようになります。それと並行して、祈りによって、敵の邪魔をどかせることもできます。福音書で何度も主イエスがおっしゃっていることです。

日本は客観的に言ってもクリスチャンの比率が極めて低い特殊な国です。周囲を見渡すと、非聖書的なものがあふれています。この目に見える状況の背後で、目に見えない世界において、様々な敵の邪魔が働いていると言えるでしょう。そのことがよくわからなかったのは、戦う人が少なかったからだと言えそうです。それは誰かの責任という訳ではなく、そうした状況も敵がもたらしたもの。しかし、そこを、ほじくっても何も始まりません。聖書のみことばを手掛かりに前に進めば良いだけです。そこに主イエスが働かれます。

信じる者は、イエスと同じことをします。イエス様がおっしゃっている通りです。また、もっと大きなことをします。これもイエス様がおっしゃっている通りです。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。
(ヨハネ14:12)

このみことばも、ストレートに入っていかないのは、諸々の敵の影響がうっすらと、あるいは、強力に、潜在意識や先入観念などにあって、読んだ途端に色々なプロセシングが脳の中で始まって、主イエスが伝えようとしているメッセージがごちゃごちゃになってしまうからです。このみことばも、ストレートに読んで、ストレートに解釈するのが正しいです。何ら象徴的なものをおっしゃっている訳でもなく、難しい原理を述べているのでもありません。イエス様は、まさに、そのままのことをおっしゃっているのです。

単純に言えば、敵の邪魔を取り除ければ、そこに神の国が現れる。イエス様がこの地の上で行なっていたことと同じことを行うと(福音を宣べ伝え、病人を癒し、悪霊を追い出して歩くと)、そこに神の国が現れる。みことばにしるしが伴う。そうして、その神の国がどんどん拡大していく。そういうことをおっしゃっています。それを日本でも行えば、そのようになるのです。目に見えない領域がまず大きく変化し、それが目に見えるようになります。



考えてみて下さい。主イエス・キリストは、私たちに、そうしたたくさんの良いものを与えるために、十字架でご自身の命を差し出されました。

神の子である方が、人間として、恥辱に満ちたムチ打ちを受け、肉は裂け骨がむき出しになり、裸にされて、手や足を図太い釘で打ち抜かれて十字架に付けられ、しばらくの間、激痛を忍ばれたのです。しかも、サタンがこの地の上に持ってきた最悪のもの、人間を縛り付けていた最悪のものである死さえも打ち破って、サタンに完璧な勝利をされました。

この主イエス・キリストの尊い犠牲と勝利。信じるだけで、それにあずかることができるのです。
 

神の子ですから、あずかることができるものは、人間の想像や理解をぶっ飛んでいます。そうなのです。主イエス・キリストを信じることで私たちに与えていただけるものは、全知全能の神から来るものなので、天からのものなので、ぶっ飛んでいるのです。


そのぶっ飛んでいるものを一言で言えば、神の国、ということになります。
確かに、死後に得られる永遠の命と神の国とは直結しています。しかし、主イエスが説かれたのは、信じる人は自分と同じことをするから、そこに神の国が現れるよ、ということです。

実は神の国の福音は、非常にラディカルなものを含んでいますし、この世の常識を突き崩すものです。使徒の働きやパウロ書簡から窺われる初代教会の信徒の活動には、そうした、この世の常識を突き崩すものが確かにあります。祈りや賛美によって、牢獄が震い動き、鎖で繋がれていた人が解放されて出てくる、そういう奇跡がしばしば起こっていた世界です。



なぜ、そのようなものすごい神の国が、信じる私たちに与えられるかと言うと、私たちが、御子イエスと同じ父親を持つ「神の子ども」になるからですね。

日本語の聖書では「神の御子イエス」と、信じる者がなることができる「神の子ども」という表現の違いが、いまひとつ明確ではありませんが、御子イエスは「神の息子」。それも「ひとり息子」。英語では"Son"。アブラハムにとってのイサクです。天の父の直系のひとり息子ですね。

イエスを信じる者が特権としてなることができる「神の子ども」とはChildないしChildren。御子イエスを長子として、その下に連なる多くの子どもたちです。

神の子どもですから、天の父から、実に多くのものを受け継ぐのですね。受け継ぐものは、新約聖書にたくさん書いてあります。それを、御子イエスが主であると信じることによって、天の父から与えていただける。この状態は、敵であるサタンよりも圧倒的に強い、という状態です。主イエスの名や、その他の聖書に書いてある武器などによって太刀打ちすれば、サタンは必ず逃げていく、そういう状態です。

それだけでなく、もっとポジティブなものがたくさんいただけます。例えば、祝福。この祝福も、天にあるすべての霊的祝福と、エペソの冒頭に書かれていますから、実は想像を絶するほどものすごい祝福です。そうした、聖書に書いてあるものを、いただけるわけですね。神の子どもとして、天の父からいただけるのです。それがあるから、神の国が、それだけ豊かに生き生きと実体を持ったものとして、信じる者の周囲に展開します。

この神の子どもとなることの大元は、天の父の愛であり、子であるイエスの愛です。その愛は、アダムの昔から、本来は神の似姿として造られた私たちに覆いをかけているサタンの影響から解放してあげたいという一心で、私たちに向けられているものです。本来なら、私たちは、何もなしで神の国にいて当たり前なのです。敵の邪魔があるがために、その神の国がわからない、神の国が遠い、神の国が想像できない、そういう状況に置かれています。

それがそうではない、というのが、イエスの説かれた福音です。



クリスマスに、御子であられる主イエスがお生まれになったという意味も、敵に囚われた状態になっているすべての人を、十字架とよみがえりによって解放する神の子が、この地に遣わされた、という意味があります。
すでに、十字架に付けられることが預言されている神の子として、お生まれになったのです。まことに尊いこと。言葉にならないほど、尊いことです。王である。すべての人を解放する王の王である。しかし一方では、人間として十字架に付けられることが預言されている。そうした方としてお生まれになりました。

主イエスがこの地の上にいらっしゃる間に説かれたことは、すべて4つの福音書に書かれています。また、この福音を、より現実的な行動規範として、私たちが実践しやすいように、パウロなどが書簡の形で記しています。そうしてそれは、神のことばとしての位置付けを持って、私たちに渡されています。

私たちは、イエスの弟子として、このみことばに忠実に動いて、そこに神の国を現していくことが求められていると信じています。また、そこには天の父の愛のゆえの、神の子どもとしての特権があります。

神の御心は、神の御心をこの地の上で、御子イエスを信じる者が実践することです。そこに神の国を現していくことです。主イエスと同じことをすることです。主イエスは、それを愛によってなしていました。人に対する愛と、父に対する愛と、両方の愛で行なっておられました。

主イエスを信じる人が、神の子どもとなることは、ひとつの奇跡です。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

(ヨハネ1:12-13)

神の子どもたちは、神がこの世に生まれさせたのです。それは、神のことをするためです。すなわち、主イエスと同じことをするため。その根本は、主イエスの愛、天の父の愛です。

 

主イエスも、神のことを行うために、この世にお生まれになりました。

私たちも、主イエスを通じて神のことを行うために、神の子どもとなるのです。