聖書的な癒しについては、わからないことが多々ありましたが、最近、いくつかの出来事があって、理解を深めるように促されました。その出来事の中には、先日の投稿で記した、ノンクリスチャンの方の病が癒されたことと、Facebookで知見をシェアしあうグループで、ある姉妹が病の癒しについて報告していたことが含まれます。
それがあって、聖書を調べ、長いこと霊の祈りをする中で、聖霊に聞き、主イエスに聞いて、その理解をいただきました。
なお、主イエス・キリストが行う癒しは、以下に記すものだけではないことを前もってお断りしておきます。盲人の目が開くこと、死人がよみがえること。そうした奇跡中の奇跡というべき癒しについては、私はまだわかりません。
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まず、病は、神が癒すものであるということ。
福音書(新約聖書の中のマタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書の4書)には、イエス・キリストが病を癒して歩いたという記述が多くあります。新約聖書で記されている信仰により、イエス・キリストを信じている人は、イエス・キリストと同じことができるので、病の癒しができます。これは基本です。(色々な例外があるとしても、聖書に記してあることに基づけば、これが基本です)
詩編にも次のように歌われています。
わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。
わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、
あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。
(詩編103編1:5)
「あなたのすべての病をいやし」とありますから、神である主は、すべての病を癒して下さるのです。
神の言葉=聖書の言葉をそのまま信じるのが、聖書的な信仰です。信じれば、そこに神の力が働くので、神の言葉通りのことが起こります。
聖書的な癒しにはいくつかのパターンがあるようです。
主イエス・キリストが癒す場合と、天の父が癒す場合とがあります。本投稿では、主イエス・キリストが癒すパターンを説明します。天の父が癒すのは、ヨハネ福音書16章23節に基づきます。聖書的な癒しとは、「ここにこう書いてあるから、このように癒される」と理解して、信じて、口で言って、そこに神の力が働いて癒されるということです。
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次に、人に生じた病を主イエス・キリストが癒すのには、次のような図式が大前提としてあります。
・創世記においてアダムが罪を犯す前の状態には、罪も死もなかった。病もなかった。
・アダムがサタン(悪魔)にそそのかされたことによって罪を犯し、人間に死がやってきた。それと並行して病ももたらされた。
・イエス・キリストは、神であられるのに人の子として生まれ、福音を宣べ伝えられ、人の病を癒して歩かれた。その後、聖書の預言に従って十字架に架けられ、人間の身代わりとなって死なれた(旧約聖書に記されているユダヤ教の牛や羊の犠牲とそれによる罪の赦しがベースにある)。そうして三日目に神の力によってよみがえり、死を克服された。すなわち、サタンの力に完全に打ち勝った。
・主イエスがサタンの力に完全に打ち勝ったことにより、サタンがもたらした病からも完全に解放して下さることができる。
つまり、病はサタンがもたらした。主イエスがサタンに勝利したことにより、病に冒されている人をも病から解放して下さることができる、ということです。
そうして、イエス・キリストを信じている人は、イエスと同様に、病の癒しを行うことができる、となります。
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新約聖書を調べてみると、病の癒しと、罪の赦しとは、分けることができないほどに結び付いていることがわかります。
例えば、以下の聖句。
キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
(ペテロの手紙第一2:22-24)
これは、主イエス・キリストの信仰に基づく癒しの根拠となる聖句です。
分解すると、次のことが書かれています。
・主イエス・キリストには罪がなかった。
・しかし、私たちのために罪を背負われて十字架に架けられた。
・それは、私たちが罪を離れて義のために生きるため。イコール、私たちが罪を赦されて、神の前で正しい人となって生きるため。
・キリストの打ち傷があるから、私たちは癒される。イコール、キリストが打ち傷を受け十字架に架けられて私たちの罪を負われたがために、私たちは癒される。
ここのところが最も大事です。
「それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」
罪を離れること、イコール、罪を赦されて正しい人となって歩むことと、癒されることとが、並行して書かれています。
癒しの信仰では「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」だけ抜き出して引用されることが多いですが、それに先立つ「それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです」も癒しに大いに関係していると見るべきでしょう。
それは、福音書の以下の記述によってよくわかります。
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まず、マタイの福音書から。
主イエスの中風(卒中などで体の一部が麻痺している症状)の人の癒し方をよく見て下さい。
イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。
すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。
すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている」と言った。
イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。
『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。
人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。
すると、彼は起きて家に帰った。
群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。
マタイの福音書 9章1~8節
中風の人を癒すのに、まず、「あなたの罪は赦された」と言っています。
これは、人間的な考え方をすれば不思議なことですが、神から見れば、上述のようにサタンがこの世にもたらした罪と病とは、複合しており、切っても切れない関係にある。よって、罪の赦しが病の癒しにもつながる、ということだと解釈すべきでしょう。
続く場面で、主イエスは、「あなたの罪は赦された」と言うことと、「起きて歩け」と言うことを、どちらがやさしいか難しいか論じています。これは、両者の中身が基本的に同じものであることを物語っています。中身が違うものであれば、前者と後者でどちらが簡単かと論じるのは、おかしなことですから。
つまり、主イエスの視点では、罪が赦されることと、起きて歩くこと、イコール中風が癒されることとは、同じものとして見えているわけです。
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このエピソードが重要であることは、マルコの福音書でも、ルカの福音書でも、ほぼ同じ展開として記されていることからわかります。主イエスは、どちらにおいても、罪が赦されたと言うことと、起きて歩きなさいと言うこととを、「どちらがやさしいか?」と論じています。
中風の人に、『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。
人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、
「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。
(マルコの福音書2:9-11)
『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。
人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために」と言って、中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。
すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。
(ルカの福音書5:23-25)
罪が赦されることと、中風の麻痺が癒されて起きて歩くことと、どこまでが一緒で、どこからから分かれているのか、明確に分離することはできませんが、両者が相互に強く関係しているということは理解できます。この理解が、自分の病が癒されるように祈る時、および、人の病が癒されるように祈る時に、大変に重要です。
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この中風の病の人のエピソードから、もう一つのことがわかります。
この人は、何らかの罪を犯していたということです。
主イエスは神の子ですから、人の罪がわかります。霊として理解するのでしょう。
その人の罪が見えた。なので、その人が床のまま運ばれてくるのを見るなり、「あなたの罪は癒された」と言ったのでしょう。
主イエスから見れば、その人が罪を犯していた。だから中風の病になってそれが出ている。そういう理解があるのです。
これを私たちに引き寄せて考えるならば、自分が罪を犯していた。だからそれが病となって出ている。そういう考え方が成り立ちます。
そうして、主イエスの視点では、
・その人に罪がある
・罪が中風という病に結び付いている
・癒されるためには、罪の赦しが必要だ
・だから「あなたの罪は赦された」と言おう
という流れがあって、即座に、その言葉が出たのだと解釈できます。
癒しをもたらすために、「罪が赦された」と宣言したのです。
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ここで、最初に引用した第一ペテロに戻れば、主イエスの十字架/打ち傷のゆえに、罪を離れて義のために生きることと、癒されることとが同時並行でした。
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
(ペテロの手紙第一2:24)
これらのことからわかってくるのは、まず、病が、何らかの罪のゆえにもたらされているのではないかということ。
従って、その病が癒されるためには、前提となっている罪を悔い改め、それを赦してもらうことが先決ではないかということです。
これを書いている私もずいぶんと多くの気づかない罪があり、気づかされる度に悔い改めてきました。例えば、ある症状が消えないのは、自分がまだ気づいていない罪のゆえではないのか?ならば、その悔い改めるべき罪を聖霊に教えてもらう、ないしは、主イエスに教えてもらうことが必要ではないか?そういう流れへと導かれます。
主イエスに赦されていない罪がどこかに隠れている。それが病となって出ている。悔い改めていない罪はないか?自分で点検する。と同時に聖霊に教えてもらう。あるいは主イエスに教えてもらう(ヨハネ14:21による)。そういうことが必要かと思います。
さらに続きがあります。
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主イエスの教えによれば、人を赦せば、自分も赦されるということがあります。人を赦さないならば、自分も赦されないという意味のことをおっしゃっています。
さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。
(ルカの福音書6:37)
従って、自分の罪が遠因となって出ている病について、主イエスの癒しを求める祈りをするのならば、その前段階として、自分が赦していない人はいないかどうか点検してみて、赦していない人がいるようであれば、例えば以下のような祈りをして、神の前に、その人を赦すことを明確に言い表す必要があります。一人なら一人。百人なら百人必要だと思います。
「天の父よ。私はこれまで誰それさんのことを赦してきませんでした。イエス様の戒めに背いていた罪をここで言い表します。どうかこの罪をお赦し下さい。主イエスのお名前によってみ前に言い表します。私は、誰それさんのことを心からお赦しします。アーメン」
そのように、まず、人を赦すことによって、自分の罪を赦してもらうことができるようになります。
その上で、病の遠因となっているであろう、自分がまだ赦してもらっていない罪、長く気づかなかった罪について、赦しをいただくように祈ります。例えば、次のように。
「天の父よ。私には、まだ、悔い改めていない罪があるかも知れません。どうか内なる聖霊が、私にそのことを気づかせて下さいますように。そうして、主イエスの十字架により、その血によって、その罪を悔い改めさせて下さい。主イエスの名によってお祈りします。」
「天の父よ。私は長らく、これこれの罪について気づきませんでした。そのことを心から悔い改めます。これこれの罪について、み前に言い表します。神は真実で正しい方ですから、罪を言い表すことによって、赦していただけますことを感謝します(ヨハネ第一1:9による)。また、主イエスの血により、この罪からきた一切の汚れを清めて下さい(ヘブル9:14による)。主イエスの名によってお祈りします。アーメン」
そうして、病の癒しを求めます。例えば、以下のように。
「天の父よ。主イエス・キリストが病を癒して下さる神であることを心から感謝します。主イエスが福音書で多くの方々の病を癒して歩かれたように、どうか、私の病も癒して下さい。第一ペテロ2:24にありますように、主イエスの十字架のゆえに、主イエスの打ち傷のゆえに、私は罪を離れて、神の前に正しい人となって生きますから、どうかこの◯◯◯◯の病(具体的に言う)を癒して下さい。どうぞ私の罪を赦して下さい。そうして私の病を癒して下さい。主イエスの名によってお祈りします。アーメン」
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このようにして祈ってくるなかで、おそらく、気づくことがあるかも知れません。
それは、自分が自分を赦していないのではないか?ということです。
どういうことか?
人を赦せば自分も赦されます。というのが、主イエスの説かれた原理です。
しかし、実は、奥の深いところで、自分が自分を赦していない、ということがけっこうあります。
神は自分の罪を赦して下さるのに、肝心の自分が、奥の深いところで、自分を赦していない、ということが、現代では多くありそうです。
よって、そこをも、赦していくことが必要になります。
神のみ前で、言えばよいのです。
「天の父よ。私は、長らく、自分のことを責め、自分で自分を赦していませんでした。いま、そのことに気づきました。私は、主イエスの名によって、私自身のことを心から赦します。これこれのことを(具体的に言う)、心から赦します。そのことを、み前に言い表します。主イエスの名によって、お祈りします。アーメン」
このように自分を赦すことによって、主イエスが自分を赦して下さり、それによって、病が癒されるという流れができるでしょう。
ハレルヤ!