昨日、米国ベテルチャーチ(Bethel Church)のビル・ジョンソン(Bill Johnson)主任牧師の説教の動画を見ていて、あーなるほど、この方は「油注ぎ」というものを、日常的に信じ、受け止め、それに関する事柄を実践しているのだな、ということがよくわかりました。
そしてまた、ベテルチャーチの賛美礼拝=スポンテニアス・ワーシップに、なぜ、非常にしばしば油注ぎを感じるのか、その理由がわかったように思いました。
それは、主任牧師の信仰により、教会全体として、油注ぎを大切にしており、それがワーシップメンバーたちの信仰と賛美にも現れているからなのだと。簡単に言えば、その信仰が、賛美に現れ、それが歌と演奏に現れるのです。
信仰があれば、そして信仰に基づいた言葉を発すれば、そこに神が働かれます。その結果として、油注ぎが、賛美礼拝に参加している人たちにも与えられるのです。
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では、その油注ぎとは何か?
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もっとも中立的に説明していると思われる"Got Questions"の説明から抜き書きします。このサイトでは、キリスト教関連の事柄に関する質問について、聖書を根拠とした回答を記しています。
What is the anointing?(油注ぎとは何か?)
・ペンテコステ派およびカリスマ派の教会では、いわゆる「新しい油注ぎ」というものを教えている。(今泉注:それ以前の会派では教えられていなかったことから、「新しい」という形容詞が付いている。油注ぎ自体は、旧約新約の複数箇所に記載がある聖書的な事柄。)
・新しい油注ぎとは、神の聖霊が信徒の上に新たに注がれることを指し、信徒がより力を、より喜びを、より聖性を経験することができるように助ける。(今泉注:この「力」とはルカ24:49、使徒1:8、コリント第一2:4、テモテ第二1:7にある、教会が、および、信徒が聖霊により受けることができる力のこと)
・一方で、聖書の各所に油注ぎに関する記述があるものの、「新しい」油注ぎをクリスチャンに教えることは、必ずしも聖書的ではないとも言えるし、そうは言っても、よく吟味し、よく霊的に咀嚼されたものであるならば、そのような教えは聖書的であるとも言える。
つまり、ここの説明では、「油注ぎを尊重すること」=「新しい油注ぎ」が教会史的に新しいものであり、場合によっては聖書的でない可能性もあるものの、しっかりと指導がなされるならばそれが聖書的である可能性もある、という、ある種の玉虫色的な解釈をしています。
私は、プロテスタントの伝統的な会派の教会にも5年間いたことがあるので、「新しい油注ぎ」がその教会で話題にされるならば、それがあたかも異端の教会の活動のようにみなされる可能性が、かなりの確率で、ある、ということは、よく理解しています。伝統的なプロテスタントの会派の教会では、聖霊に親しむ、聖霊と交わる、ということへの取り組みが残念ながらほとんどなされていませんから「聖霊から与えられる力」(ルカ24:49、使徒1:8、コリント第一2:4、テモテ第二1:7)、という聖書的な事柄についても、かなり遠くにある概念であり、よくわからないことであり、よって近づかないし、取り組まない、という姿勢が、多く見られます。
以前はそのような姿勢を否定的に考えていましたが、現在では、日本全国…だけでなく、世界各国にあるキリスト教の教会は、主イエス・キリストの「体」(エペソ4:12など)でありますから、色々な取り組みも姿勢も是とされるのが聖書的であると、考えを改めました。「異言による祈り」を教えているかどうかで、その教会の聖霊に対する姿勢がおおむねわかります。昨年、ブダペストとロンドンのプロテスタント教会に2ヶ月ほど伺ってみましたが、どちらも異言を取り扱ってはいませんでした。
直感的な理解ですが、おそらく、異言を取り扱っている教会は、米国でも欧州でも少数派だろうと思います。日本の多数の教会において、聖霊に対する姿勢が儀礼的なものであるとしても、世界的に見て日本だけが違うということにはならないでしょう。
なお、フェアな議論という意味で記しておくと、聖書のみことばをおろそかにして、あるいは、バランスを欠く解釈をして、「新しい油注ぎ」を強調しすぎて、教会活動が、あるいは信徒の活動が、極端な例として「油注ぎばかりを求める活動」になることがあるとすれば、それはある種の偶像崇拝ということになってしまい、限りなく異端に近いものになる、ということがあります。そのことは認めます。
また、油注ぎを尊重しすぎるあまり、油注ぎを尊重しない信徒や教会を裁く姿勢がもたげてきて、彼に対して我が優越であるという認識が出てくるならば、それは、主イエスが戒めた「互いに愛し合いなさい」に外れる態度であり、非常にまずいと、今では考えています。
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その上で、「新しい油注ぎ」の、上のGot Questionsの説明に戻ります。
この説明は、新しい油注ぎを肯定も否定もしていないようでありながら、その実、「新しい油注ぎというものは、聖書的なものとして、あるよ」ということも教えています。注意深く取り扱うならば、それは聖書的なものである、ということを、きちんと言っています。(なお、この文章の末尾では、筆者の見解として、かなり否定的な見方を記しています)
過去3〜4年間、油注ぎというものを経験してきて、また特にこの半年間、みことばを基点とする祈りの中で、ありがたくも油注ぎを受け、その中で、言葉によって祈り、霊によって祈り、従来のように聖霊から何かを教えていただくだけでなく、主イエスからも応答をいただき、父なる神からもみこころを示していただく、ということを日々経験している上で、以下を記します。
油注ぎは、真の意味で、信仰にかかっているということ。
信仰にかかっているというのは、聖書のみことばの何を信じているか?ということ。
信じていることに応じて、油注ぎという「神の働き」が現れるということ。
例えば、以下のように、私たちは王国である、王である、ということが書かれています。
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
(第一ペテロ2:9)
また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。
(黙示録1:6)
私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。
(黙示録5:10)
油注ぎは、サウルの場合でも、ダビデの場合でも、王となる者になされるのが、ユダヤの伝統的な事柄でしたから、私たちが、主イエス・キリストにあって王であり、王国である時に、それを証するものとして、聖霊から来る油注ぎ、主イエスから来る油注ぎがあってもよい訳です。
また、私たちが油を受けていることは、新約聖書に明示的に書かれています。
私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油をそそがれた方は神です。
(第二コリント1:21)
あなたがたには聖なる方からのそそぎの油があるので、だれでも知識を持っています。
(第一ヨハネ2:20)
あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、――その教えは真理であって偽りではありません――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。
(第一ヨハネ2:27)
こうした聖書のみことばに、子どものように素直に耳を傾けて、信仰を持つならば、そのことが起こる。そういうことは、考えられないでしょうか?
信仰があれば、聖書に書かれていることが起こると思います。
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例えば、パウロ書簡では、私たちが神の神殿であるということが、書いてあります(第一コリント3:16)。これは、ヨハネの福音書の中で、イエス様も天の父も、私たちのところに来て一緒に住む、とおっしゃっているお言葉と一致します(ヨハネ14:23)。
このことを素直に子どものように信じるならば、そのことが起こります。
そうすれば、主イエスは、いつもそばにいらっしゃり、天の父も、呼べば、お答えなさるという関係で、そこにいらっしゃる。そういうことが現実になります。そういうものではないでしょうか?
このことが、多くの教会では教えられておらず、取り組みがなされていないということは、よく知っています。
しかし、だからと言って、そのことが「ない」と言うことはできないし、そのことが聖書的ではないと言うことはできないと思います。なぜなら、イエスがおっしゃったことであり、パウロが書いていることだからです。
ポイントは、その聖句を正直に取り上げ、信じると言うことに取り組むかどうか、というところではないかと思います。
伝統的に、多くの教会では、取り組まれてこなかったこと。信じられてこなかったこと。しかし、使徒の働きやパウロ書簡をよく読むならば、初代教会では確実に取り組まれていたこと。預言も異言も癒しも奇跡も、ということですが(御霊の賜物として)。
それを信じるかどうか、ということだと思うのです。
主イエスは、ある場合に、現れて下さると、はっきりおっしゃっています(ヨハネ14:21)。
主イエスがおっしゃっているのだから、それは、そうだと思うのです。