この投稿が、主イエス・キリストの十字架にあって、死の苦難の中にある人たちの参考になりますように。主イエスの名によって、心から願います。
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
(ローマ人への手紙6:4)
その人のクリスチャンライフにおいて、いつ起こるかわかりませんが、真剣にイエス・キリストの道を歩むなら、いつかは、ローマ書において「キリストの死にあずかるバプテスマ」と記された経験をすることになるのではないかと思います。
それは、神が、その人を、聖なる者として御前に立たせるためであり(エペソ5:26)、豊かに実を結ぶ者にならせるためです(ヨハネ15:2)。
あるいは、ローマ書における肉と御霊の対比として記されている「肉」の自分が、主イエス・キリストの十字架と血によって、完全に「御霊」の自分として歩むようになるためです(ローマ8章)。
神は霊ですから(ヨハネ4:24)、神を真に礼拝するためには、大祭司である主イエス・キリストを通じて(ヘブル書各章)、自らも霊として、まことにより礼拝しなければなりません。しかし、この地の上では、ありとあらゆる非聖書的な言葉があふれ、それらが頭の中に入り込んでいますから、また、この世の神(第二コリント4:4)から来た非聖書的な霊の影響が大なり小なりありますから、肉としての自分は、大祭司イエスに連なって、霊とまことにより神を礼拝するということが、大変に難しいです。
新約聖書には、神に近づきなさい、ということが書いてあります(ヤコブ4:8)。恵みの御座に近づきなさい、ということが書いてあります(ヘブル4:16)。これは、頭では理解できるのですが、具体的にどうすればいいのかがなかなかわかりません。
そこで、肉としての自分が砕かれる必要が出てきます(詩編51:17)。
それを神が行うのが、「キリストの死にあずかるバプテスマ」であり、文字通り、死ぬような経験です。
◎
この経験は、おそらく、この世の事柄を全部諦めて、すべてを捨てて、もう捨てるものが何もないという状態、かつ、このまま行けば文字通り死ぬだろうという真っ暗な状況、かつ、あてにできる人がこの地上には一人もいないという絶対的な孤独。そういったものだろうと思います。
こうした経験について、パウロは次のように書いています。
兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、
ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。
ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。
(第二コリント1:8-10)
キリストを追い求める者は、キリストの十字架の死を、何らかの形で、追体験することになるのではないかと考えられます。それが「キリストの死にあずかるバプテスマ」です。パウロが書いている、自分の心の中で死を覚悟するような経験がその典型です。そうして、このようなことは、キリストの信徒にも起こります。
ヨハネの福音書では、イエス様は、「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行なう」とおっしゃっています。これは、十字架の死に相当するような、死ぬような経験をするということも含むのではないかと考えられます。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。
(ヨハネの福音書14:12)
なぜ、このような死が必要なのか?それは、死んで、よみがえるためです(ローマ6章)。いったん死ななければ(肉的に)、よみがえりはありません(御霊による)。おそらく、そういうことだろうと思います。このことは、大変に理解が難しいイエス様のお言葉、「友のためにいのちを捨てる」にも関わっていきます。ここで言う「友」は、私たちにとってのイエスです。
人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
(ヨハネの福音書15:13)
こういう経験をする時、神は、すべてを見て下さっていますから、その信徒をほんとうに死に渡すようなことはなさいません。必ず、脱出の道も備えて下さっています(第一コリント10:13)。また、過ぎ去ってみれば、「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」とあるように(ローマ8:28)、苦しかったすべての経験が、主イエスにあって益となります。ハレルヤ!
主イエスにあって益になるとは、みことばが生き生きと働くものになるということです。信仰が活性化して、神に喜ばれるものとなるということです(ヘブル11:6)
◎
イエス様も十字架に付けられた時には、想像を絶する苦しみと痛みと孤独と恥辱の中にあって、文字通り死ぬような経験をなさいながら、信仰のギリギリのところを歩いておられたと思います。
以下の十字架の上でのイエス様のお言葉は、一般的には、天の父に対する信仰が失われてしまった状況における叫びだと捉えられていますが、実は、元になっている詩編22をよく調べてみるならば、神への賛美なのです。
三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる」と言った。
(マタイ27:46-47)
そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言った。
(マルコ15:34-35)
以下は、イエスが引用なさった詩編22の冒頭です。
わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。
わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。
けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。
私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。
彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。
(詩編22:1-5)
イエス様は、十字架の上で、この詩編22の冒頭を口に出されたのです。おそらくは、それに続く節も唱えられたのかも知れませんが、周囲の人には聞こえなかった、ということなのかも知れません。
この詩編22には、大変に興味深いことに、イエス様の受難の預言が含まれています。まさに福音書の中に、同じことが書かれています。
私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。
「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」
(詩編22:7-8)
彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。
(詩編22:18)
主イエスは、十字架の上で、日頃慣れ親しんでおられたであろう詩編22を口に出され、まさに、詩編22と同じ状況が自分において起こっていること確かめられ、そうして、詩編22を貫いているイスラエルの賛美をなさっていたのだと解釈できます。
詩編22に含まれる賛美とは、以下が主なものです。
けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。
私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、会衆の中で、あなたを賛美しましょう。
主を恐れる人々よ。主を賛美せよ。ヤコブのすべてのすえよ。主をあがめよ。イスラエルのすべてのすえよ。主の前におののけ。
まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。
大会衆の中での私の賛美はあなたからのものです。私は主を恐れる人々の前で私の誓いを果たします。
地の果て果てもみな、思い起こし、主に帰って来るでしょう。また、国々の民もみな、あなたの御前で伏し拝みましょう。
まことに、王権は主のもの。主は、国々を統べ治めておられる。
この、十字架の上のまさに死を目前にした中で、神に対する賛美を切々と口に出される信仰。これが、ヘブル書で「信仰の創始者であり、完成者であるイエス」と言われるゆえんです。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
(ヘブル人への手紙12:2)
この、イエスの、死を目前にした中で、堅く保って口で告白した信仰のゆえに、神は、その天地万物を創造なさった絶大なる力を働かせて、愛する御子を、死の中から生へと、よみがえらせなさいました。
イエスは文字通り、この世の肉体としては死んでしまわれましたが、これは、私たちの身代わりのゆえの死であり、私たちは、肉体の死を経ずに、「キリストの死にあずかるバプテスマ」によって、主イエスとともに、御霊により、よみがえることができます。
それは、圧倒的な、死ぬような経験の中にあって、神が、最後のギリギリのところで、主イエスにすがる信仰を授けて下さるからです。この信仰により、死ぬような経験を、通り過ぎることができるのです。そしてこの信仰は、神から来ます。
聖書には、私たちが世界の基が置かれる前から選ばれていたこと(エペソ1:4)、神が予め私たちをご存知であったこと(ローマ8:29-30)、神のご計画によって神に召された者であること(ローマ8:28)が書かれています。従って、最後の最後、ギリギリのところで、愛により、手を差し伸べて下さるのです。穴から助け出して下さるのです(詩編103、107)。
◎
おそらくダビデも、このような経験を潜り抜けているはずです。
また、三度も、イエス様を知らないと言ったペテロも、よみがえられた主イエスに会う前に、このような死を経験したものと思います。
上述のように、パウロもそうです。
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
(ローマ人への手紙6:6)
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
(ガラテヤ人への手紙2:20)
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
(ガラテヤ人への手紙5:24)
このような死を経験するのは、しみやしわのない、聖く傷のないものとなった栄光の教会の一員として、神の御前に立つためです。
キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。
(エペソ人への手紙5:26-27)
その日には、と、主イエスが預言なさっているように、御子イエスが御父とともにおられる中に、私たちも招き入れられ、愛されて愛する関係の中に交わり入るためです。
その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。
(ヨハネの福音書14:20)
預言されている通りに、神の子どもとなるためです。