日曜投稿:食物としての神の言葉 | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

イスラエル国テルアビブのパン

 

日ごろ、私たちは、様々なものを読んでいます。SNSの投稿を読み、ニュースサイトの記事を読み、付けられたコメントを読みます。検索して資料を読み、商品のレビューを読み、レストランの評価を読みます。
生き方に関するベストセラーを読んで、影響を受けようとすることもあるでしょう。名著を読んで、見識を深めようとすることもあるでしょう。

そうした「読むもの」は、大きく分けると、「人から来たもの」と「神から来たもの」に分けることができます。

旧約聖書の中の一つの核であるイザヤ書という預言者イザヤが書いた書では、「人から来たもの」を「腹を満たさない食糧」であると、はっきりと言い切っています。

それを食べても(咀嚼しても)意味のないもの。
それを買って読んでも、腹の足しにならないもの。
それを何度読んでも、繰り返し読んでも、自分がよりよく生きるのには役立たないもの。
そういうものだと言い切っているのです。

なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。
イザヤ書 55章2節



「わたし」=聖書で言う「主」=「イエス・キリスト」。
この「わたし」に聞き従って、良いものを食べれば、どんどん元気になると言い切っています。

「脂肪で元気づく」とは、当時の最良の食べ物である牛肉。それにくっついている牛の脂肪。その牛の脂肪を、赤身とともに焼いて食べるとおいしいですよね。そのおいしいものを食べると、特に、パンと野菜だけの粗食の後に牛の肉と脂肪を食べると、もりもりパワーが付く。
そういう当時の、精がつくごちそうという意味で言っています。
おそらく現在で言うホルモンの部分も含まれていたかも知れません。とすればなお精が付きます。

「わたし」=「イエス・キリスト」に聞き従って、良いものを食べるとは、イエス・キリストの言葉に聞き従うことを意味します。

実は、人は、言葉で生きているからです。



人は、進路で右に行こうか左に行こうか迷う時に、必ず、頭の中で、人が言った言葉、どこかで読んだ言葉、自分の言葉などを響かせています。
「あの時、あの人はこう言った」。「あの本には、こう書いてあった」。「親はこう言っていたな」。「私はこう考え続けてきた」。そうした言葉を頭の中で色々に響かせながら、右に行くか左に行くかを検討します。

これと同じことを、私たちが生きている時には常に行っています。

何を食べるのか。何を着るのか。
その日何をするのか。

こうしたことを決める際に、頭の中では、誰かの言葉が鳴っています。自分の言葉であることも多いですが、人の言葉であることも多いです。

こういう時に、「神の言葉」を聞くようにすると、その人は粗食の後に牛の肉と脂肪を一緒に食べる人のように、どんどん元気づく。ということを預言者イザヤは言っています。



神の言葉は、聖書に書かれています。聖書全体が神の言葉なのですが、初心の人には、特に、イエス・キリストが言った言葉、イエス・キリストに関する言葉を中心に読む=耳を傾けるとよいでしょう。
それらは新約聖書の4つの福音書の中にたくさん載せられています。

イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。
というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」
そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」
イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

ヨハネの福音書 6章32~35節

神の言葉は天からのパンです。その人を本当に生きさせます。
死んでいた自分が天からのパンによって生き返るといういことは、よくあることです。

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ご参考。

聖書を買う場合、現在では、スマートフォンで読む人が多いと思います。スマホは常時持ち歩いているので、どこでも読めます。

スマホの聖書アプリにはいくつかあります。

・無料のものとしては、戦後、翻訳された「口語訳」があります。これはこれでよい翻訳ですが、意味がとらえにくい個所もあるように思います。現在の教会では、使っているところはほとんどありません。

・有料のもでは(3,000円程度)、「新改訳」がお勧めです。中でも、「新改訳第3版」がお勧めです。理由は書き切れません。格調高い神の言葉としての品位があることが、もっとも大きな特徴です。そこには翻訳した人たちの、いわば命をかけた信仰が載っています。

また、この聖書を使っている教会がお勧めです。