聖書が説く恵みに関して、もう一つのポイントは、「信仰」と一対になっているということです。
信仰があるところに恵みがある。恵みが与えられる時には、それに先立って信仰がある、という関係があります。
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
(エペソ2:8)
人が救われるのは、修行をしたからとか、善行を3年間行ったからとかではなく、ひとえに恵みによるというのが、主イエス・キリストが現れて以降の新約聖書の教えです。そうしてそれは、主イエス・キリストにあって真理です。聖書のどこを探しても、必ず、最後には、そのことが出てきます。旧約の色々なところにも顔を覗かせています。
恵みによるとは、人間が行うのではなく、天地万物を創造して下さった神が行うのです。神から下って来るのが恵みです。例えば、自然の樹木や空や海や草原には、神の創造物の特徴である美しさが現れています。また、純真な子どもにも、同じような美しさが現れています。そうした、神から賜って備えられるもの、美しいもの、よいもの、かけがえのないものが、この「恵み」です。知れば知るほど、尊いものであることがわかってくるでしょう。私もまだすべてがわかったわけではありません。この恵みのすばらしさを、これからまだまだ経験していくことを信じています。
この恵みをいただくために、パウロはその手紙の中で、信仰が不可欠だと説いています。上のエペソ2章8節では、救われたのは恵みによっているということ。その恵みの大前提が信仰であることが語られています。
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聖書では、信仰を初めて持ったのが、アブラハムであると書かれています。
アブラハムは、神から、大いなる祝福がいただけることと、子孫が星の数のように多くなることを言われて、それをそのまま素直に信じました。その、信じた、ということがポイント中のポイントです。
わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。
(創世記22章)
また、創世記では、アブラハムが大きな試練に遭うことが描かれています。ひとり息子のイサクを、いけにえとして神に捧げなさいと、神から言われます。アブラハムは素直な人でしたので、この命令にも逆らわずに、素直に従って、息子イサクをいけにえに捧げようとします。
創世記のここのくだりは、大変に感動的ですので、ぜひともご自分の聖書でお読みください。創世記22章です。
アブラハムには、神が必ず約束を果たして下さるという信仰があったので、この試練を乗り切ることができました。
信じたので、奇跡が起こったのです。信じたので、神が働かれました。
この、信じる → 神が働かれる という関係は、ひとつの型です。
そうして、アブラハムは、すべての信じる者の型です。
信仰を持つものは、すべて、アブラハムにならう者となるのです。そうして、約束された恵みを受けます。
そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。
(ローマ4:16)
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信じるには、どうすればいいか?
信じるには、神の言葉を聞く、ということが、図式として、聖書の中の至るところに表れています。
アブラハムも、神の言葉を聞いて、それを信じました。上で型であると書いたのは、そういうことです。
現在では、神の言葉は、聖書に書かれています。それを、生きた神の言葉として受け止めて「聞きます」。この時、読んで自分の耳から聞くといこともあるでしょうし、心で聞くということもあるでしょう。
そうして、神の言葉を聞いて後、それを信じるのです。
このとき大切なのは、イエス・キリストに関する神の言葉(みことば)がカギだと、ローマ書に書かれています。
そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
(ローマ10:17)
イエス・キリストが語った言葉。イエス・キリストに関する言葉。それを聞くのです。そうすると信仰が生じます。
その信仰により、神が恵みを下さいます。なぜなら、イエスは、神のひとり子。天の父が愛する唯一の息子であるからです。
神は愛する息子を信じるすべての人に、恵みを与えて下さるのです。無条件に。必ずです。
その、信じる人に、無条件で、必ず、というところが、恵みのポイントです。