神の国に入るのに、悔い改めが不可欠であることは、イエス様の宣教の初めの言葉が、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ4:17)であることからも、明らかです。
自分が特定の悪霊から解放されるためにも、まず、その悪霊にまつわる過去の自分の間違ったところ、あるいは罪を、心から悔い改めることによって、その悪霊が自分の内に持っている足場を失います。
(このような悔い改めを、特定できた悪霊すべてについて、一つずつつ行います)
(多くの場合、しつこい悪霊は、その人が頑なに悔い改めることを拒んでいる何かを足がかりとして、がっちりその人を捕まえています)
自分の罪を神に赦していただくためには、悔い改めが不可欠です。
また、生きていて、あ!と過去の自分の何かに気づく時、悔い改めに導かれることがあります。
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悔い改めは、一度やれば、イエス様の十字架と血によって、あがなわれ、赦されたのだから、十分だと、という考え方があります。それも一理あります。一つの悔い改めるべき事柄について、心から、悔い改めるなら、一回で完結するはずです。
しかし、イエス様の道を生きてきてわかるのは、人間がいかに過去の罪を忘れているかということです。また、思わぬ悪霊が自分の内に潜んでいたということに、気づくこともあります。
また、親やその先の先祖が犯した罪について、悔い改めに導かれることもあります(出エジプト20:5)。
これらを総合すると、生きていて、悔い改めが必要になる場面は、かなり多いです。
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過去20年、3つの教会に通って、悔い改めの具体的なやり方について、教わった記憶がないので(その根本原因は、サタンが多くの教会に働いて、イエスの血の意味が教えられていないからだと思います)、ここで簡単にまとめておきます。
・イエス・キリストの十字架についての信仰がベース
まず、イエス・キリストの十字架の意味を理解して、イエス・キリストが自分をすべての罪からあがなって下さる存在だという信仰を持つこと。
少し長いですが、この信仰を持つために必要な聖書のみことばをまとめた投稿が以下です。参考にして下さい。
信仰があると、悔い改めが実を結びます。信仰がなくて、頭による理解だけだと、悔い改めをしても、霊的に完結しない可能性があります。(単なる反省に終わる可能性があります。)
・悔い改めるべきものを、口で言うこと。
信仰を持って、何かを口で言う時、それは霊的な力を持ちます。世界は目に見えるものと、目に見えないものとでできあがっています(第二コリント4:18)。新約聖書で目に見えないと書かれている事柄は、霊的な事柄のことです。主も御霊です。聖霊も目には見えません。
信仰がある人が、祈りを、あるいは、悔い改めを、口から言葉で言うと、それが霊的な言葉となって、天の父が、御子イエスが、聖霊がすぐに聞かれます(マタイ17:20)。
口で言い表すことによって、赦しが起こるということは、以下の聖句で保証されています。
しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
ヨハネの手紙 第一 1章7~9節
・イエスの血を適用した悔い改めの言葉を言うこと。
上のヨハネ第一の聖句にも、イエスの血の清めが含まれています。
悔い改める都度、イエスの血を自分に適用していただくことで、イエスの血による罪のあがない、罪の赦し、汚れからの聖め(ヘブル人への手紙9:11-14)が成就します。
私も長らく、イエスの血、ないし、イエスの血潮の意味がわからなかった一人です。これについては、稀代の聖書学者デリック・プリンスによる非常に貴重な講義の動画を観るのが、もっとも近道です。この投稿にリンクしてあります。
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最終的に、次のような言葉によって、悔い改めます。あくまでも例ですので、自分で、信仰を持ってアレンジしてお使い下さい。
天の父よ。イエス様のお名前によって、悔い改めをします。どうか、私がこれまで行ってきた○○○○について、イエス様の血によってあがなって下さい。イエス様の血によって赦して下さい。イエス様の血によって、その汚れから聖めて下さい。心から、悔い改めます。
イエス様の十字架と血に感謝します。
イエス様のお名前によって。アーメン
悔い改めをすると、心が軽くなって、自由になった感じがします。御子イエス・キリストが、自由にしてくれているからです。ハレルヤ!