自分の中の「この世の人の要素」が洗い流されて、主イエス・キリストを信じる信仰がメインの生き方になってくると、祈りがかなえられるようになります。
この生き方は、子どものような信仰を持つこと、と言い換えても良いでしょう。イエス様がおっしゃったことを、そのまま信じる。そういうことがだんだんとできるようになると、祈りはかなえられます。祈りがかなえられることについては、新約聖書の各所に書かれています。
(マルコ11:24、ヨハネ第一5:14-15など)
祈りがかなえられることは、信仰によります。聖書で書かれている神の言葉を信じる。そうして祈る。すると、その信仰のゆえに、神が恵みとして動いてくださって、その結果として祈りがかなえられる。そういう順序だと思います。
何かを頑張ったから祈りがかなえられるのではないと思います。純粋に神の言葉を信じる信仰があり、それが純粋にイエス・キリストに軸足を置いたものである時に、その信仰のゆえに、恵みとして、かなえられるのです。
もっとも、特殊な事柄に関しては、断食が有効なことがあるだろうと考えられます。(マタイ17:21、ダニエル10章)
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祈りがかなえられることには、ローマ人への手紙10章9-10節で、「信じて口で言うこと」の大切さを述べていますが、その原理がそのまま当てはまると思います。
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
ローマ人への手紙 10章9~10節
心で信じる。そうして口で言う。そこに神の力が働きます。信仰を伴う言葉(口から出す言葉)には霊の特性があります。神は霊であられるので、その霊による言葉(祈りの言葉)を受け取られるのです(コリント第二3:17)。
例えば、目の前にいる人が、何かが見つからなくて探して困っているときに、「あの方の探し物がすぐに見つかりますように。イエス様のお名前でお祈りします」と祈ると、比較的すぐに、その人が「見つかった!」と叫ぶ…というようなことが、ごく普通に起こるようになります。ハレルヤ!
自分のことだけでなく、人に関することでも、祈りがかなえられます。祈りがかなえられたら、すぐに感謝し、賛美の言葉を出して、天にお返しします。
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こうした状態は、自分の罪を言い表して、イエス様の血によってあがなっていただき、赦していただき、すべての悪から聖めていただいている…(第一ヨハネ1:7-9)ことによって、可能になるようです。自分がイエス・キリストと一致していて、罪から解放されている状態になっていると、神の言葉に関する信仰も混じり気のないものになる、と言うことが言えるでしょう。
そのためには、ひたすら、イエス・キリストの十字架のあがないを、聖書で勉強して、しっかりと信じる。イエス様の血による聖めを、聖書で勉強して信じる。そのようにして、神の言葉で、自分を洗っていくような過程が必要です。祈りがかなえられることについては、ほとんど条件はありませんが、「イエス様の名による祈りはかなえられるのだ」という信仰を持つためには、神の言葉を自分の中に取り入れていく日々が不可欠です。
イエス様は、私たちの中に神の国があるとおっしゃいました(ルカ17:21)。この世の言葉を洗い流して、神の言葉で私たちを満たすとき、私たちの中に神の国が現れる…そのように解釈できると思います。
私たちの中に神の国が現れていれば、イエス様の名によって祈ることにより、祈りはかなえられるのです。
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。
ヨハネの手紙 第一 5章14~15節
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イエス様はこの世に神の国をもたらすために、福音書の中で、悪霊を追い出して歩かれていました。
自分たちの中に神の国が現れるためには、悪霊への対処も不可欠です。それには、過去の罪や先祖の罪を言い表して悔い改めることも含まれます。悪霊を排除することの根幹は悔い改めにある、と言うことは、イエス様の宣教が、まず、悔い改めを勧めたことからも理解されます。
この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
マタイの福音書 4章17節