イエスの血に関する信仰は、どれだけ育んでも、それが行き過ぎるということは、ないと思います。
イエス様ご自身が、イエス様の血は、まことの飲み物だとおっしゃっています。毎日でも、信仰により、自分のからだの中に入れて、罪からのあがないをリフレッシュし、自分を清めてもらうことを新たにし、それらによって、自分を聖なる者としていただく、尊い働きを、信仰により、自らに受けなければいけません。
わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
ヨハネの福音書 6章55~56節
自分の努力や修行や行いによって、聖なる者になるのではないのです。ただひたすらに、神の御子であられるイエスの血によって、その血を信じる信仰によって、聖なる者となるのです。
イエスの血に関する聖書の記述は、多岐にわたっており、教師の手ほどきによって、正確な理解ができます。何度か書いたように、このテーマに関しては、稀代の聖書学者であるデリック・プリンス先生の以下の動画にまさる教材はありません。何度も繰り返して見て、イエスの血に関する信仰を、引用されている聖書の言葉によって、深めるのが良いでしょう。
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イエスの血について、少し前に、啓示をいただいたことがあります。啓示とは、聖霊が教えてくれる、聖書の事柄に関する新しい理解です。
すなわち、天使には、血がありません。よって、天使は、血のことがよくわかりません。
サタンは、天から落とされた、悪しき天使です。サタンも、血そのものの理解がありません。要は、血に対して、無防備です。
イエス様は、神であられるのに、人の子として、この地上に来られ、聖書の預言に従い、父の御心に従って、十字架に付けられらて、血を出されました(デリック・プリンスの動画による勉強が不可欠です)。
この、神の御子の血ということが、サタンには、よく理解できず、脅威です。それが、どれほどのものであるのかを、サタンはよく理解できません。よって、きわめて恐ろしい存在として、目の前にあります。
サタンに対する時に、イエスの血が、大きな力を持つ、ということは、そういうこと「でも」あります。
しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、
また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、
まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。
ヘブル人への手紙 9章11~14節
こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。
ヘブル人への手紙 10章19節
おそらく、サタンは、このヘブル9章10章で書かれていることを理解しません。
従って、サタンのやり方として、このような、イエスの血の理解に関するクリスチャンの動きを止めようとします。クリスチャンが、イエスの血に関して、よく理解しないように立ち回ります。ありとあらゆる目に見えない方策を使って。
教会一般、クリスチャン一般に、イエスの血に関する信仰があまり見られないのは、そういうことの結果ではないかと考えられます。
従って、教会一般、クリスチャン一般がとるべき態度は、むしろ、イエスの血に関する聖書の言葉に基づいた理解を深める。むしろ、イエスの血に関する、発言を多くする。むしろ、イエスの血について証する。そういうことが、重要なのではないかと、思われます。以下の黙示録にある通りです。
兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。
ヨハネの黙示録 12章11節
アーメン