聖書を普通に読んでいると、ハッキリと書いてあることなのに、教会で教えられていない事柄、真理として信じられていない事柄が、複数あるのに気づきます。
例えば、イエスの名によって祈ったことは何でもかなえられるということ。
またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。
ヨハネ14章13節
また、コロサイ一章の、万物と御子に関する記述。
なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。
聖霊のバプテスマに関する理解が、1900年代初頭のアズサ・ストリート・リバイバルを契機として、キリスト教界に広まったという事実があります。
このように、聖書の中には、「今は、理解されていないけれども、歴史のある一点から理解されるようになる」、または、「今は、信じられていないけれども、ある時期から、急速に信じられるようになる」という、聖書的真理が、まだまだあるように思います。
大きく見れば、キリスト教界全体の聖書理解も、まだ発展中だということです。
なので、現在、自分で聖書を読んでいて、「どうも、教会全般が理解し、教えている内容と違うな」と、疑問に思うところがあるのならば、それは取って置き、将来において、聖霊が解き明かしを下さるまでじっくりと待つ、という姿勢が適当なのではないかと思います。
また、新しい聖書理解を開拓する人というのも、どこかにいて、そういう人は、大変に苦しい思いをしながら、周囲からは、ほとんど異端のように扱われながら、新しい理解を育み、キリスト教界に流布していくのではないか、とも思います。ルターが行ったことが、その一例ですね。
例えば、イエスの名によって祈ったことが、何でもかなえられる、という信仰を「開拓する人」というのが、広い世界のどこかにはいて、その信仰を育み、何でもかなえられる実績を積み、ある時から、盛んに証を始めて、イエスの名によって祈ったことが何でもかなえられる信仰を、キリスト教界に広めていく。そういうことも、ありなのではないかと思います。
そんな形で、聖書の中には、まだまだ、信じられていないこと、理解されていないことが、たくさん埋まっているように思います。