最近、経験していることに、きわめて深刻な霊的な汚れを、聖書に基づく祈りによって、主に清めていただくと、それによって目に見える世界も見違えるほどによくなっていく、ということがあります。
具体的に記すのは憚られるので、よしますが、原理的な部分を記すと次のようになります。
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まず、普通一般に、日本の土地、地域、場所、建物、社会は、霊的に汚れています。何をもって霊的に汚れているというのか、私が説明することではありません。各自、聖書を読んで、汚れているものと、聖なるものを判断する基準をお持ちください。
聖書の神は、汚れている場には、いることができません。例えば、以下の聖句からもそのように知ることができます。旧約聖書には、汚れたものに対して、主が行った数々のわざが記されています。
それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。
(第二コリント6:17-18)
日本は偶像崇拝を続けてきた歴史があります。日本の至るところに、聖書で言葉を出されている「主なる神」以外のものを拝むための建物、施設、枠組み、習慣、祭りなどがあります。
こういう環境に長く住んでいると、クリスチャンであっても、普通は、霊的に何が汚れており、何が聖であるかの、実際的な感覚が曇らされがちです。例えば、家の中にある仏壇についてどう感じるか。例えば、家の中にある神棚をどう思うか…。
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霊的に汚れている場所には、汚れている霊が集まるように思います(同語反復のような言い方ですが)。別な言い方をすれば、汚れた霊ないし悪霊を多く持った人たちが集まります。
聖書の文脈で言う悪霊(あくれい、と読みます)については、何本か書いていますので、参考になさってください。
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類は類を呼ぶということが、こういう状況でも当てはまります。また、「悪の温床」という言葉もあります。ある種の悪霊を持った人たちは、霊的に汚れた場に集まり、そのようなコミュニケーションをします。非聖書的なコミュニケーションです。
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汚れた霊は汚れた言葉を話す、ということもあります。聖書に記された事例では、ルカ8章のゲラサ人の話から類推することができます。霊的に汚れた場には、霊的に汚れた人たちが集まり、汚れた言葉が話されます。
なお、クリスチャンが取るべき姿勢としては、霊的に汚れた人、悪霊を宿している人を、さばいてはいけません。あくまでも、イエス様の命令を守るべきです。さばかずに、祝福する。その人のためにとりなして祈る(イエス・キリストの贖罪が及ぶように祈る)。感謝する。イエス・キリストにあって救われることを祈る。それがクリスチャンの取るべき態度です。
しかし、中にいる悪霊に対しては、聖書の記述に則り、毅然とした態度で臨みます。
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そのように、霊的な汚れた場があれば、そこに、神様の力によって清めていただくための祈りをするとよいでしょう。
おそらく、もっとも理解しやすく、もっとも祈りやすいのが、御子イエス・キリストの血を、その場に適用していただく祈りです。イエス様の血は、以下のみことばにあるように、すべてのものを清める力がありますから(神のひとり子の血ですから。神の血ですから。万物の創造に天の父とともに携わった御子の血ですから。万物は御子によって成り立っていますから)、御子イエスの血によってある対象を清めて下さいと祈る祈りは、すぐれて聖書的な祈りであり、神のみこころにかなう祈りになると思います。
まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。
(ヘブル9:14)
それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。
(ヘブル9:22)
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霊的に汚れている場について、御子イエスの血によって清めていただくための祈りの例。
天の父よ。
あなたの愛する御子イエス・キリストのお名前によってお祈りします。
どうか、私がいま向き合っている「○○○○の場」を、イエス・キリストの尊い血によって清めて下さい。
どうか、すべての悪から清めて下さい。どうか、すべての悪霊をイエス様の血によって追い払って下さい。どうか、あなたの御力を現して下さい。
イエス様の血をこの場所のすべてに満たして下さい。どうかこの場所に、あなたのみこころをなさって下さい。イエス様をお迎えするのにふさわしい場所になるように、イエス様の血によって清めてください。
イエス様のお名前によって、お祈りします。アーメン
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イエスの血の力についての信仰を持ち、この祈りを神がかなえて下さるという信仰があって祈るなら、神は恵みとして、この祈りに応えて下さいます。
その場所が、日を追うごとに、霊的な汚れを清められていくと思います。
そうして、それと並行して、目に見えるものも、きれいになっていくということに遭遇すると思います。目に見えるものは、パウロが書くように、目に見えないもので成り立っています。
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
(第二コリント4:18)
イエスの血によって清めるのは、自分ではありません。神の力により、イエスの血が適用されるのです。それによって清めが起こります。自分にその場を清める力があるなどと思うべきではありません。わざをなさるのは神です。我々は信仰を持つことはできます。祈ることはできます。それ以上は、神の領域です。
そのようにして、見えるものもきれいになっていくのです。