仕事でロンドンに滞在して2か月になります。おかげさまで、本当の偶然で、当地のスターバックスで仕事をしていた時に、あるクリスチャンの姉妹(日本語を勉強しているガーナ系のご家庭のロンドン生まれの女性)と知り合い、彼女が通っている教会に毎週日曜日に伺っています。旅先でも毎週日曜日に行く教会があるということは、大変に恵まれています。また、そこの教会の中で何人かの知り合いもできました。感謝なことです。
これを書いている今は、12月25日の朝です。日本時間では12月25日クリスマスの日が終わろうとしています。
クリスマスイブやクリスマスを一人で過ごす人も少なくないと思います。人生のある時期、あるいは大変に長い期間にわたって、イブやクリスマスを一人で過ごす状況になっているという人のことを思います。私もある時期そうだったですから。
キリスト教に関心があれば、イエス・キリストに関心があれば、聖書に関心があれば、近くの教会に行って、クリスマスイブの夜に行われる礼拝に参加するのは、よいことです。クリスマス当日が日曜日に当たっていない場合、クリスマス礼拝(12月25日に行う礼拝)を行う教会もあれば行わない教会もありますが、イブ礼拝はほぼすべての教会が行いますから、イブの夜に教会に行くと、キリスト教的な枠組みの中のクリスマスというものを味わえます。教会員でなくとも、初めての訪問であっても、誰でも歓迎してくれるはずです。
クリスマスイブの礼拝は、夜7時頃に始まって、礼拝が終わった後で、キャロリングと呼ばれる、クリスマスにちなんだ讃美歌を歌いながら、地域を行進して歩くことが行われる場合もあります。これも、興味が沸くようなら参加すればよいでしょう。
キャロリングはおそらく欧州の教会に古くから伝わる習慣で、寒くて暗い欧州の冬のクリスマスの時期の夜を、ろうそくの火を灯して、聖歌を歌って歩くという、「暗い街路に、イエスの誕生を告げる歌を歌いながら、光を投げかける」、象徴的な意味がある行為です。
また、イブ礼拝は夜の礼拝ですから、夜の教会の雰囲気を味わうことができます。これもこれで、なかなかよいものです。
当教会は、教会に行くことができない人のための教会ということを念頭に置いていますが、イエス様が命じているように、基本的にクリスチャンは二人でも、三人でも、集まって、イエス様のことを語り合う、聖書を勉強する、讃美歌を歌う、霊とまことの礼拝を行うべき存在です。いつか、そういう時期が来たら、リアルな教会に集まって、みんなで礼拝を行うべきだと考えています。
それができない時期でも、イブ礼拝は、ちょっとさわりを覗く感じで伺ってみるのも、よいことでしょう。すべてを神様は微笑んで見ておられると思います。
一人でいるクリスマスイブやクリスマスは、世間様が盛んに、にぎやかなクリスマスのイメージをあふれさせていますから、一言で言って、つらいものがあります。
しかし、本来のクリスマス=救い主イエスのご生誕は、静かで厳粛なものであり、浮かれて飲み食いをするような出来事ではありません。むしろ、一人で静かに御子のご生誕のことに思いをはせることの方が、クリスマスにはふさわしいことです。
この際ですから聖書をお買い求めになって、御子のご生誕に関するところを何度か読んで、色々な事柄を発見するのがよいでしょう。イエス・キリストのご生誕については、マタイの福音書の一章とルカの福音書の二章に書かれています。(なお、聖書は、新改訳聖書第三版をお勧めします。スマートフォンで読めるアプリが一番購入しやすいです。こちらの「聖書用語検索」のサイトでも書名を検索することで読めます)
https://www.tuins.ac.jp/~takao/biblesearch.html
イエスは、この世の闇の状況に光を掲げる存在としてお生まれになっています。ご生誕のくだりに書かれている「インマヌエル」という別名は、「ともにおられる神」という意味です。どのような人にも、イエス・キリストが救い主であると口で告白し、十字架にかけられて三日目に死からよみがえった方であると信じるなら(ローマ人への手紙10章)、イエスはともにいて下さいます。また、その証拠として、聖霊という神が自分の内に宿って下さいます。それまでの孤独から完全に解放されます。
孤独は、現代社会においては、ほぼすべての人が抱え持っている重たい問題です。しかし、イエス・キリストの内にあるなら、その人は孤独から完全に解放されます。完全にという意味は、そのまま文字通りの完全に、ということです。その人が、ある場所で、一人でいようがいまいが、家族といようがいまいが、友人が、愛する異性の連れ合いが、いようがいまいが、会社に所属していようがいまいが、学校で友人がいようがいまいが、北極にいようが、ロンドンにいようが、旅先であろうが、自分の部屋にいようが、いつどこにいてどういう状況であっても、孤独から完全に解放されます。もはや孤独を実感することは一切ありません。なぜなら、自分を造って下さった神がともにいるからです。神がともにいることが常に実感できます。これほどの喜びや平安はありません。この世のどのようなリゾートもレストランも人間的な交友関係も、この、造り主であられる神とともにある喜びや平安にまさるものを与えることはできません。どれだけのお金があっても、この喜びや平安には変えられません。そういうものを、イエスを信じることによって、得ることができます。
イエス・キリストは救い主であって、造物主ではないのでは?という疑問を持たれた方は、聖書を勉強してください。そのことがわかるようになります。
ということで、まとめますと、一人でいるクリスマスというのは、イエスを信じることによって終わりを告げます。一人でいるクリスマスは、ある意味で、預言的です。一人でいる状況にイエス・キリストのご生誕によって光が射し、一人でいる状況が終わります。すなわち、一人でいるクリスマスは、一人でいるのではないクリスマスです。