大晦日の振り返り | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル



これを書いているのは、ロンドンの時間で、12月31日の午後10時頃です。


2月にベトナムのホーチミンからスタートして、途中、大阪や東京にいましたけれども、ブダペストなどを回って、このロンドンには2ヶ月の滞在となっています。


途中の行程をFacebook の投稿でサマライズすると書きながら、何もできずに申し訳ありません。毎日いろんなことが起こって、てんてこ舞いでした。


仮想通貨の新規事業は道半ば。しかし、やりようが見えてきました。夏から始まったもう一つの新規事業は、おかげさまで、ブダペストの教会で優秀なプログラマーに巡り合い、3月上旬にローンチできる目処が立ちました。1年弱試行錯誤してきて、ひとまずは、出来上がりが見えたのが幸いです。神様のおかげです。


この世にどっぷりと浸かり続けてきて、過去1ヶ月ぐらい、悔い改めをしてきています。多種多様な事柄を悔い改めました。


私の場合、だいたい、次のようなパターンで行動し、聖書の言葉をいただくか、神様から示しをいただくなどして、次に進みます。


・聖書のお約束、ないしは、過去にいただいた預言を信じて、突き進む。神様のためと信じて、新規事業で突っ走るなど。

・壁にぶち当たる。聖書に書かれてあることと、現実とが違うのでは?という状況に行き当たる。

・祈る。聖書を読む。異言で祈る。スポンテニアス・ワーシップにより聖霊と交わる。

・自分の誤りに気づく。

・聖書を読む。祈る。異言で祈る。

・悔い改めが必要だとわかる。また、過去の事柄から来る呪いがあるとわかる(デリック・プリンス先生の講義動画にある聖書的な文脈の呪い)。悔い改める。聖書的なやり方で呪いから自由にしていただく。

・イエス様に堅く結びつく。

・また事業や取引に突き進む。


こういうことを何度も繰り返して、2月から10ヶ月やってきました。ものすごいとしか、言いようのない経験も何度もしました。なぜこのような経験をしなければならないのかと、一人で悶々としたこともありました。


一方で、長くいる都市では、偶然の巡り合わせで良い教会を見つけることができ、その教会を通じて恵まれるということも、何度も経験しました。


それとは別に、Facebookで見られる異端の動きに対して、対抗的な動きをするという活動も、夏頃から始めました。有志の兄弟姉妹とともに、Facebookの非公開グループに集まって、情報交換をして、必要と思われる措置を講じていくという活動でした。この活動を通じて、心を通わせることのできる複数のクリスチャンや教職者の方々とめぐり合うことができ、大変に幸せです。


当初は大変にラディカルに動いていましたが、現在では、大変に反省もして、悔い改めて、活動内容を模索しているところです。


その土地に来て、祈らされると言いますか、祈るように仕向けられるという経験も、二度ありました。一度目はモルドバの首都チシナウで。二度目はこのロンドンで。いずれも現在の霊的な状況に大きく関わる歴史的な出来事や長く続いてきた過去の事柄について、祈るように仕向けられるというもので、最初は何で私が祈らなければならないのか?とびっくりしますが、神様のみこころだとわかるので、そのように受け止めて、言われる祈りをします。


5月から8月にかけては東京にいましたが、あの頃に、京都で起こる地震について、預言的な想いがものすごく募り、また、霊的な布置が極端に強まったということがあって、預言者の端くれとして、これを言うのが良心だという信念のもとに、京都に地震が起こるという預言を投稿の形で出し、また、友人知人にもDMで知らせました。その後、急速にその霊的な布置が弱まって、ああもう起こらないのだとわかり、その預言は取り消しましたが(取り消すのも預言者としての良心だと思って、そうしました)。


このことも良い経験となりました。親身になって、京都の地震の預言の投稿は削除した方が良いと、アドバイスして下さった姉妹もいました。この方も預言がわかる方でした。しかし、この経緯を残しておくことにも、潔さがあると考えて、それらの投稿は残しています。(預言者が預言をした後、何らかの霊的な動きが起こり—-祈る人が多数現れるなど—-預言した事柄が成就しない方向に進むことは、あることだと考えています。預言はコミュニティに対する警告という位置付けのものもあり、預言が出たことにより祈りなどによって、コミュニティの方向性が改まれば、警告の役目を果たしたことになるので、預言の内容がむしろ成就しないで済んで、よかったということになります)


預言については、ロンドンでお世話になった教会で、日曜日の説教も担当される教職者の方と、二人で、バイブルスタディの時間を持った時に、私は正直に、教会を建てるように言われたこと、預言者として召命を受けたことなどを明かしました。その後、預言者は新約の時代に成立するかどうかの議論を、聖書をもとに行ったことがあります。この方は大変にジェントルマンでいらっしゃって、新約の時代に預言者は成立しないということを、根拠聖句とともに説明して下さいました。私としては…上から言われたものは言われたことなので、それは否定のしようがない…というところだったのですが。


預言者を振りかざして、Facebookの上でケンカをしたことも何度かありました。今では、そういう姿勢は、悔い改めています。

異端を裁いてかかることも、もうしないと思います。


人を裁いてはいけない。というイエス様の命令には、大変に深いものがあります。その人が天に行き、自分も天に行った場合に、未来永劫、その人と同じ天で暮らすことになります。裁いたままで天に行くと、永遠にそれを引きずります。


上に記した異端に対処する活動を行なっていく中で、ある歴史ある会派を否定する結論を得たことがあります。今では悔い改めています。たとえ聖書に照らして、明らかに誤りがある教会、会派であったとしても、それを正すのは、神であって、人ではありません。人は、イエス様のお名前で、祈ることができるだけです。


パウロ書簡にあるように、私たちは、イエス様のみからだを構成する一つの器官に過ぎませんから、足の小指が肘の関節に向かって、どうのこうの言うことはできません。イエス様のお言葉を正しく守って、そのことを兄弟姉妹にも伝え、お互いに励ましあって、イエス様の道を歩む。いやむしろ互いに愛し合いなさいという命令を噛みしめる。いやむしろ友のためにいのちを捨てる愛に想いを馳せる。そのようでなくてはならないと、ここ最近になって、ようやく気づいた次第です。悔い改めることしきりです。


へりくだりの重要性にも、最近になって、気づきました。


もっと重要なのは、イエス様を愛するということです。


突っ走っては、ぶつかり。突っ走っては、ぶつかりして、イエス様の基本がようやくわかってきた、というのが、この10ヶ月の道筋です。


今の私にとっては、以下のみことばが到達点です。



私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

ガラテヤ人への手紙 2章20節