自分の親父さんが本当のアル中だとわかったのが大学の後半の頃。働くようになって、30代前半ぐらいに、親父さんのアル中の大変にしんどい様を目の当たりにして、「よーし、オレは絶対にアルコールをがまんしないぞ」、「アルコールをがまんしないから、アル中にはならんぞ」と大変に愚かしい決意をしました。

それ以来、がまんしないことを大義名分に、ほぼ毎日、ビールか安いワインを飲み続けてきて、今年の正月まで来ていました。これはもちろん、むかしのアル中のイメージとは異なりますが、やはりアルコール依存ですね。

海外出張に出かけると、空港に着くなりビールが飲める店を探し、ホテルで荷ほどきするなり外に出てスーパーでビールを数日分買ってくるとか。飛行機の中では二回ビールをお代わりするとか。ワインの小瓶なら二本もらうとか。

もう、さもしいんですよね。アルコール依存だから、どこに行ってもまずアルコールの調達から入る。ディズニーランドはノーアルコールの場だから絶対に行かないとか。休みの日は昼ごはんの時に必ずビールかワイン。アルコールが入らないと休みの日の昼ごはんを食べた気がしないとか。もう一事が万事そんな風でした。

◎自分の努力に頼ると失敗する
聖霊様に頼ることができるようになると、こうしたアルコール依存がうそのように消えます。自分で体験しました。

もっとも、何事もなくてすぐにアルコール依存がなくなるという訳ではなくて、まず、自分の決意が必要です。アルコール依存を100%克服するという決然とした覚悟。もう人生からアルコールを追放してやるというぐらいの気構え。これがあれば、あとは聖霊様が助けて下さいます。

アルコール依存の人がアルコールをやめようと思って、多種多様な「自分の努力」に頼るパターンがありますね。あれは、私の場合は、効かなかったです。「自分でアルコールを止める」という努力は、肉から出たもので、人間的な取り組みですから、多くの場合は途中で失敗します。


止めて1週間とか1ヶ月とかはいいけれども、何かの拍子にアルコールが入る機会があると、それまで「肉によってガマンしていた」ということがあるものだから、反動がきます。それで元のもくあみになってしまう。

聖霊様に頼るアルコールの断ち切りは、それとはまったく違うアプローチを取ります。

◎聖霊様に100%ゆだねるとアルコールに無関心に
聖霊様に頼るというのは、自分のアルコール断ちの弱さやこれまでの断酒の努力の無力さの一切合切を、聖霊様に100%ゆだねるということです。それも、心の中の決意だけではなく、口で言います。一種の祈りです。口で言うことが大切です。

「聖霊様。私は今日、アルコールを断つことに決めました。これまで、何度も断酒に取り組んできて失敗しました。自分の肉の力に頼ったからです。私は、自分の肉の力の限界を知りました。聖霊様。どうか、聖霊様の神様の力によって、私を助けて下さい。100%私自身を聖霊様におゆだねしますから、私の断酒を助けて下さい」。例えば、こういう形で、100%聖霊様にゆだねます的な祈りをします。

そうすると、不思議なことに、その日から、ビールを見ても、ワインを見ても、何ともなくなるのですね。
夏の暑い日に電車に乗っている最中に、車内にかかっている各社のビールのポスターなどを見ても、一切飲みたいとは思わない。
自分の頭の中の「アルコール飲みたい中枢」みたいな部位があるとして、その中枢が完璧に麻痺してしまったかのような、アルコール関連のあらゆる刺激に反応しなくなるということが起こります。これは私のケースですね。起こりました。これは奇跡と言ってよいと思います。ハレルヤ!

今年の正月からこれを初めて、30代以降初めて、3ヶ月の完全断酒を実現でき、それからずっと続いています。何の努力も要りません。ガマンし続けているというのではないのです。アルコールが自分の頭の中でゼロになってしまった。無関心あるのみという感じです。
禁煙を継続できている人の頭の中からは、タバコという概念がなくなっているはずですが、あれとまったく同じ状況です。

◎人間的な努力によって歩まずに聖霊様によって歩む
今では、少しゆるめて、特別な時はワインを飲んだりしますが、それでもその特別な時が過ぎると、また、まったくアルコールには無関心な日々が延々続いていきます。別段努力しているわけではないので、ストレスもありません。ただその日その日を送り暮らしていて、結果的にみるとアルコールというものの存在しない日がずーっと続いているという状況。これも不思議なものです。

これが聖霊様に頼るということです。

パウロ書簡では、聖霊(御霊)と肉(人間的な努力)とを対比させて、肉によりすがるうちは何ともならないが、聖霊に頼ると万事オッケーというニュアンスのみことばがあります。

ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。(ローマ8:12-15)


ここの部分を、平たい言葉で言い換えると、次のようになります。

・私たちは、肉(=人間的な努力)によって歩む必要はありません。
・肉(=人間的な努力)で生きていこうとすると失敗します。しかし、聖霊様(御霊)によって、肉(=人間的な努力)をチャラにすることができますから、それによって失敗しないようになるのです。
・聖霊様(御霊)によって歩むとは、神様の子どもとして歩むということです。
・あなたたちは、この世にはびこっている「奴隷の霊」によって、びくびくしながら生きる必要はありません。むしろ、聖霊様(御霊)によって神様の子どもになったと思いなさい。
・聖霊様が私たちの内に宿って下さっていますから、ためらいなく神様に、「お父さん!」と呼びかけることができるのです。

こういうわけで、聖霊様によりたのむと、肉(=人間的な努力)を必要とせずに、神様の助けの中を毎日毎日、一瞬一瞬歩むことができるようになります。

ハレルヤ!

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スポンテニアス・ワーシップの賛美礼拝についてたくさん書いています。これは、自分の部屋の中で個人礼拝賛美を行うためのフォーマットとしては大変に優れています。

 

■毎週日曜日の礼拝参列

 

しかし、Youtube動画のスポンテニアス・ワーシップにより自室で個人礼拝賛美をたくさん行っているからと言って、リアルな教会に行かなくてもよい、というものではないと思います。信者は必ず、1つのリアルな教会に結び付いているべきです。そして、

毎週日曜日の礼拝に参列することは、信者の責務です。主は教会を愛しておられます

 

毎週教会の礼拝に参列する以上は、礼拝の時にだけ席に座っていて、終わったら誰とも話をしないでさっと帰ってくる、というのではなくて(私は一時期そんな風でした。今は違います)、最低でも3人の兄弟姉妹と「やあやあ最近はどうだい?」(ヘルマンヘッセ風)というようなやりとりをして、いわゆる信徒間の交わりをして、それから教会堂を後にすべきです。本来ならば、何らかの奉仕の役割を1つ持って、それについてはしっかりとやるのが望ましいです。

 

(もっとも何らかの恐怖症があって、人前に出られない、家から出られない、教会に通えないというような状況であるのでしたら、話は別です。私も若い頃にそういう時期があり、ずいぶん大変な思いをしたからわかります。多くの場合、セラピーで解決できる問題ではないので、聖霊様の積極的な介入が不可欠ですが、聖霊様の積極的な介入の前提として、いわゆる悪霊の追い出しに取り組まなければならないケースもあります。

悪霊の追い出しについては多種多様なことを経験し、見聞きしましたが、現時点の認識としては、「霊とまことによる礼拝」に真剣に取り組むことにより、悪霊が逃げ出すことがあるため、それを当てにするのがよいという認識を持っています。悪霊の追い出しに取り組んでいる教会に在籍していない場合は、自室で当ブログで紹介したベテルミュージックのYoutube動画を活用して、真剣な賛美礼拝としてこれに取り組むと、悪霊がいづらくなり、しまいには出て行くことが期待できます。その代わり、本気中の本気で、心の底から、霊とまことの礼拝に取り組む必要があります。要は、動画の中の賛美リードに従い、動画の中のみなさんと一体化して歌えばいいわけですが。

悪霊の追い出しは、多種多様な経験をしたことをベースに言えば、必ず、教会の中で受けるべきです。教会の外で、独立系のミニスターなどにやってもらうと、後から面倒になります。教会からはぐれた羊になる可能性が大きいです。ということから、自室でYoutube動画を活用したスポンテニアス・ワーシップに取り組む方が得策です。

私は、多くの教会において、牧師先生が信徒の悪霊の追い出しに取り組むことを希望しています。しかし、そういう状況にありません。悪霊の課題を持っている信徒は、セカンドベストとして自室で「霊とまことの礼拝」をガンガン行う。自分専用の賛美チームがいるわけではないので、便利なYoutube動画を使い、ジェン・ジョンソンのような優れた賛美リードのスポンテニアス・ワーシップにより、主の臨在を毎回経験する。主の臨在により悪霊がいられなくなり、逃げて行く。逃げて行った後に聖霊様が満ちる。あとは聖霊様が問題解決に当たる。このような順序で問題が解消していくことを想定しています。

ベストオブベストは、教会において主の臨在が現れる賛美礼拝が毎週日曜日に持たれ、教会として悪霊の追い出しに取り組んでいるという状況です。)

 

 

■信徒はみことばにより聖書にひも付けられる

 

賛美礼拝は必ず、牧師先生による説教(礼拝メッセージ)によって補完されるべきです。賛美礼拝で聖霊様の注ぎが豊かにあり、主の臨在が強く現れて、みんなが天国にいるかのような状況を味わっているとしても、説教の時間になったら、クールな頭を持った牧師先生が現れて、冷徹な聖書理解による冷徹なみことばの解き明かしを行う。これは大変に重要なことだと思います。

 

賛美礼拝は五感と内住する聖霊様とリンクした自分の霊によって受け止める、優れて感覚的なものです。この感覚的なものだけで終始していると、みことばの足場がぐらつきます。

 

感覚的な賛美礼拝100%で過ごしているクリスチャンがいるとすれば、そしてその人が聖書を読まないとすれば、それは大変に危ないです。限りなく「スピリチュアル」に近い状況になるでしょう。スピリチュアル→非聖書的→反キリスト→サタンという図式があります。

そこをぐっと聖書のみことばに踏み止まらせるために、教育を受けた牧師先生による、聖書のみことばに根ざした説教は不可欠なのです。

 

説教も望むべくは、社会問題を論じるというよりも、人生論を論じるというよりも、聖書のキモとなる聖句からできるだけ多くの霊的な命の水を汲み出したものであって欲しいと、一信徒として思います(^o^)。

 

 

Photo courtesy of sparty lea


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

聖霊強化月間とは、楽しくやりましょうということです(^o^)

 

異言で祈ることの効用を書きます。

 

異言で祈ると、聖霊様が祈っている格好になるので、祈りがどんどん進んでいきます。慣れると、30分間祈るのは平気になりますし、何かの状況が整えば、1時間、2時間、ノンストップで祈ることも普通にできるようになります。

 

長いこと祈っていると、1)その異言の祈りが自分のためのものである場合には、聖霊様が、その祈りの内容のうち自分が知った方がいいものを教えて下さる、2)その異言の祈りが他者のためのものである場合には、聖霊様が、ビジュアルなどでその他者の置かれた状況を見せてくださる時がある、という風になるようです。

 

私はよく、解決すべき問題がある場合には、「愛する天のお父様、◎◎◎◎◎のために、聖霊様の助けを借りて、異言でお祈りします」と言ってから祈ります。しかし、聖霊様は、自発的に自分の祈りを祈るので、私が「◎◎◎◎」と言った内容とは違うことを祈っているように感じる時もあります。また、まさにそのことを祈っているように感じる時もあります。後者だともちろんうれしいわけです。いずれにしても聖霊様が祈る内容を(異言で祈っている祈りの内容を)、こちらの方がコントロールできるものではないようです。


御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。(ローマ8:26-27)

 

このみことばもパウロ書簡の他の多くの御霊に関する記述と同様に謎な要素を含んでいますが、少なくともここでは、聖霊様が祈る内容は、内住している人の気持ちや意思を離れて、自律的なものだということを言っていると思います。

 

この自由に祈って下さる聖霊様が、時と場合に応じて、上述のように自分のために祈って下さる時があるわけです。それは大変にありがたいものです。

 

そして1時間とか2時間とか祈っていくと、どんどん祈りの内容が深くなって、何というか、自分に関する何かが啓示されていくような感じになります。聖霊様が自分のことについて、今までわからなかったことを気づかせて下さる感じです。

それによって、問題解決のまったく新しいやり方が示されたり、やる予定のなかったものが教えられて「なるほど、その手があったか!」と小躍りするようなこともあります。

 

異言は…教会の中では教えていないけれども、何かのきっかけで聖霊のバプテスマを受ける格好になり、異言も出るようになった、という人がちらほらいるようです。

また、米国の高名な牧師先生の講演で、福音派の教会に通っていた若い頃に教会では異言の祈りを教えないので、自室で聖書の記述を参考に色々と試しているうちに異言が出るようになった、という経験談を聞いたことがあります。

 

以下のイエス様のみことばは、異言に関しても適用できると思います。


わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。(ルカ11:9-12)

 

異言が与えられることは、クリスチャンの基本である聖霊様の、そのまた基本でもありますから、さほど難しいことではないです。新約聖書の関連箇所を色々とピックアップして、よく読み込んで、「天のお父様、イエス様、聖霊様。どうか異言で祈れるようにして下さい!」と祈り続けていると、よいチャンスが巡ってくると信じています。

 

Photo courtesy of Steve Hall