聖霊のバプテスマも、謎と言えば謎な概念です。平たい言葉で言うと、「聖霊様に浸された経験の初回」というところだと思います。初回に遭遇した後では、一つの霊の突破口が開かれていますから、聖霊様が自由に満ちることができるようになります。

以下は、「聖霊はセラピーをはるかに上回る自由を与える」という投稿の最後の方に書いた部分のコピペです。大変に長い投稿だったので、終わりまで読んでいる方は少ないと思い(^o^)、再録してみました。イタリックのところは今回追記した部分です。

 

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イエス・キリストが主であると信じ、告白し、水のバプテスマを受けてクリスチャンになった後で、すべてのクリスチャンは、聖霊のバプテスマと呼ばれるものを受けるチャンスがあります。


私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」(マルコ1:8)

 

ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」(使徒1:5)

 

私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。(マタイ3:11)

 

ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。(ルカ3:16)

 

「聖霊のバプテスマ」と「聖霊と火のバプテスマ」とは同じものか、違うものかという議論があります。私は、後者は、聖霊様のパワフルな側面をも形容表現に取り込んだというぐらいで、本質的には同じものだと思っています。

 

この聖霊のバプテスマを授けていただくと、「聖霊に満たされやすいからだ」になります。パウロは、この「聖霊に満たされやすいからだ」のことを「神の宮」、「神の神殿」と呼んでいます。

 

神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(第2コリント6:16)

 

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。(第1コリント3:16)

 

私たちが「神の宮」、「神の神殿」だというのは、三位一体の神のひとつの位格であらせられる聖霊様が私たちの内に内住して下さっており、かつ、旧約に「生ける神」という表現が多くあるように、生き生きとして動いておられるので、それを「宮」「神殿」だと言っているわけです。

聖霊様と仲良くなって、聖霊様のことを日常的に実感できるようになると、「あー、いらっしゃるな」という感じになります。そしてまた、親しい存在ではありますが、依然として神であらせられるので、神々しい、畏れ多い存在という側面もあります。そうした方が自分の内で動いて下さっています。(なので、もう悪いことはできません(^o^) )

 

聖霊様は、通例、自分のおへその辺りに内住して下さっていると、多くの方が言いますし、私自身もそのように感じます。ハッピーな時は一緒に喜んで下さいます。また、やばい方向に行こうとしている時には、アラームを発して下さいます。アラームは、お腹のあたりが黒くなると言いますか、日本語で「腹黒い」という言葉がありますが、あの言葉にぴったりな状況がおへその辺りで発生します。慣れてくると、聖霊様からのアラームだとわかるので、いったん歩みを止めて、どこに行くのがまずいとおっしゃっているのか確かめて、そちらには行かないようにします。すると、アラームが収まります。

 

自分の内側に聖霊の満たしが起きやすくなると、例えば、次のような経験をするようになります。

 

・日曜日の礼拝に出席した後、自宅に帰るまでの間に、賛美、礼拝の間に受けた聖霊、感じ取った主の臨在、現れた主の栄光の「残影」のようなものがからだじゅうに満ち満ちて、ぼーっとしながら、感激しながら、この世のものではない喜びに浸りながら、てくてく歩く。
・何の前触れもなく、歩いている自分の内側に、聖霊が満ち満ちて、ある種の陶酔状態が訪れる。多幸感に包まれる。
・物質的な意味で、あるいは経済的な意味で、何かが不足していたり、乏しい状態にあるとしても、霊的な喜び、天的な豊かさが内に満ち満ちるので、ひたすら「満ち足りた」こころもちになる。

 

しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。(第1テモテ6:6)

 

そうなのです。聖霊様が満ち満ちて下さることによって、目に見えるものや物質的なものが、豊かにあるかないかにかかわらず、「ひたすら満ち足りている」という実感を持つことができるようになります。これは実にすばらしいことです。

 

満ち足りて「浸された感じ」が「バプテスマ」(ギリシャ語原義は浸す、漬ける、沈める)という言葉にふさわしいですね。「聖霊のバプテスマ」には一回こっきりというニュアンスがあるのは確かですが、そのプロセスがクリスチャンの生涯の間続いていくものである、ということも言えそうです。

 

そして、この聖霊のバプテスマの経験が初回に自分において起こった時、異言が出てくるというのが、多くの牧師先生がたの解釈ですし、私もおおむねそうなのだと思います。

しかし、使徒行伝の冒頭に記されている「劇的な聖霊体験」のようなことがなくても、異言が出てくることはあります。すなわち、聖霊のバプテスマ的な経験がなくても、異言が出ることはあります。その場合、上で、聖霊に浸された感じのプロセスがクリスチャンの生涯の間続いていく、と書きましたが、そのようにゆるやかに続いていくプロセスが、その方にとっての聖霊のバプテスマなのだと思います。

 

Photo courtesy of Ricardo Mangual

この記事もGoogleのキャッシュから復活しました。オリジナルは9月21日付けの投稿。JESUS YEAH!

 

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m-floのVERBALがプロテスタントのクリスチャンであることはよく知られています。

クリスチャントゥデイ
「m-flo」のバーバル、神についていけば星のように光れる(2008/3/25)

HIGHFLYERS VERBALインタビュー
僕は大学1年の時にキリスト教と出逢い、クリスチャンになったんです。(2013/9/8)

それとはまったく別な話として、m-floは、本ブログ投稿者にとって生涯トップ10アーティストに入るミュージシャンなわけですが、新作がなかなか出にくいところがあり、少し残念です。

昨年1月、交通事故で大変な経験をしていたことをこの記事で初めて知りました。
しかし、すでにコラボレーションユニットPKCZ(R)としては再起を果たしていて、以下の「INTO THE CIRCLE feat. METHOD MAN (Wu-Tang Clan) , EXILE THE SECOND」では彼らしいフューチャリスティックなクリスタルHIP HOPサウンドと、VERBALラップを披露しています。よかったです。

 

 

ぜひともm-floとしてもヘブル暦5778年にふさわしいフューチャリスティックなリバイバル・ウェーブのサウンドをゴーズ・オンしてほしいです。

■ひとりで戦っていた(と思われる)VERBAL

VERBALが置かれた状況は、日本の特に若いクリスチャンが置かれていた状況を象徴的に表していると思います。

 

すなわち、周囲にクリスチャンの友だちなり職場の同僚なりがいないなかで、ひとりで、クリスチャンとして生きて、ひとりで、クリスチャンとして戦って、ひとりで、クリスチャンとして傷ついて、時々、クリスチャンの友人と話をしたりする。これはウィークデーの話です。日曜日になれば教会に行くかも知れない。行かないかも知れない。行けば教会のメンバーがいる。若い人がいない教会かも知れない。話が合う人がいない教会かも知れない。1人か2人の気の合う兄弟姉妹は教会の中にいる。しかし、若い教会員の絶対数が少ないので、気心が知れた教会内の友だちが多いとは言えない。そして、月曜日からウィークデーの5日間が始まる。そこでまた、ひとりで、クリスチャンとして生きて、ひとりで、クリスチャンとして戦って…の連続になる。

VERBALも音楽界にいて、クリスチャンとしては、ひとりで戦う場面がものすごくたくさんあったと思います。商業的な音楽の世界に身を置いているアーティストとして、従来の日本では、コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージック分野でメジャーになる道はなかったため、聖書的なメッセージをフルに含む音楽表現はひとまず置いて、リスナーが受け入れやすい表現を選択する。これは過去の話です。そして、非教会的なワールドの中に入って行って、非聖書的なメッセージをたくさん送り出すアーティストや作品やライブ・アクティビティの中に入り交じり、孤軍奮闘する。これは過去の話です。聖書的なメッセージをフルに含んだ音楽作品を選ぶとマイナーになるしかない状況があるなかで、そうではない道を選ぶ。孤軍奮闘する。これは過去の話です。

■愛を言うのにシャイが先立つ

 

最近のm-floの作品で、若い人が現在置かれた状況を歌った「Young & Restless」があります。正統派m-floサウンド全開の作品です。

 

”Restless”とは、平安がない状況を表しています。現在の若い人たちには、平安がないと思われる状況がたくさんある。それをストレートに歌にして、そこに、クリスチャンであるVERBALの、良心から来るメッセージを組み入れています。

 

 

「Maybe love is a remedy calling」(たぶん愛が痛みをやわらげる声)
「Maybe love’s trying to tell us something」(たぶん愛が何かを言ってくれるはず)
「Maybe love. Maybe love. Maybe love got us running for nothing」(たぶん愛が。たぶん愛が。たぶん愛が、無に向かって走るオレらをつかまえてくれる)

主イエス・キリストを信じれば、すべての愛と、すべてのいやしと、すべての必要なものがその日からドッカーン、みたいなストレートなメッセージではなくて(リンク先投稿のチャド・ビーチ牧師のような←リンク先後日再掲します10月19日記)、VERBALなりのシャイなものの言いがあります。私はそういう、商業音楽で福音メッセージを伝えるのに、シャイさでワンクッション置く時代はもう終わったと思っています。これからは聖霊様が猛烈な勢いで味方してくれます。むしろ、ストレートにガンガンやることが、ナチュラルでパワフルでクールでファッショナブルな時代になるはず。

 

■ロックフェスでJESUS, YEAH!

日ごとにお伝えしている、スポンテニアス・ワーシップは、実は、ビートルズが結成されて以来のポップミュージックの歴史の中で、もっとも新しい、もっとも現代的な音楽表現なのではないかと、ひそかに考えています。英語で言うなら”more than music”。音楽以上のものを彼らはやっています。

 

それはもちろん、音楽以上のものなはずです。主を仰いだ礼拝と賛美ですから。

パンキッシュなサウンドでも賛美礼拝表現は可能だという実例に、先日行われたクリスチャン・コンテンポラリー・ミュージックのイベントで接しました。すごいですよ。パンクで賛美ができるんですから。証しの言葉を天に放り上げることができるんですから。

VERBALは時代感覚をつかむのがうまい人ですから、おそらく、ものすごく大きなリバイバルの霊の大波がやってくると、バリバリ、ストレートなエバンジェリスティック(福音的)ラップ、ないしは、ビブリカル(聖書的)ラップをホーリー・スピリチュアル・ヘブンリーHIP HOPのサウンドに乗せて、m-floでリリースするなり、新ユニットでリリースするなりしてくるのではないかと期待しています。むしろその方が新しいサウンドになるでしょう。新生m-floです。LISAもぜひフィーチャーしてほしい。

 

そして、まわりを見渡せば、バリバリ、ストレートなエバンジェリスティック・パンクや、バリバリ、ストレートなビブリカル・テクノポップをやっているアーティストが多数出現していて、バリバリ、ストレートなホーリー・スピリチュアル・ワーシップ・バンドなどとVERBALが、ロックフェスで「JESUS, YEAH! 」とハイタッチする…という感じになるんではないかと夢見ております(使徒2:17)。

 

Photo courtesy of Sean Rowe

 

この「聖霊強化月間」で取り上げる話題は、すべて、聖霊様と仲良くなることで手に入れることができる、聖書で保証された、大変にラッキーでハッピーな状況です。ラッキーでハッピーとは、別な言葉で言えば、福音(よい知らせ)ということです。

それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。(ローマ15:16)

上のみことばから、異邦人であるわれわれが、聖霊様によって聖なるものとなり、神に受け入れられる供え物となる。そのことが福音に含まれている、ということがわかります。平たく言えば、聖霊様によって神様=イエス様に近いかたちに変えられていくのです。

われわれがイエス様と同じかたちになるという預言も、パウロ書簡の中にはあります。

主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第2コリント3:17-18)


聖書の中の言葉は、そのまま信じれば、そのまま現実になるという優れた力があります。神の言葉ですから。

上の第2コリントでは、御霊の働きにより(=聖霊様の働きにより)、「主と同じかたちに」(=イエス様と同じかたちに)、われわれが変えられていくと書いていますから、それを信じれば、それが成就するのです。すなわち、この世の影響を受けた存在から、天からの影響を受けた存在へと、根本的な変化がもたらされるのです。これが福音の本質です。

今思いましたが、太宰治がこのことを腹の底で納得することができていれば、自殺することはなかったと思います。おそらく、そのことをストレートに告げてくれる兄弟姉妹や先生が周囲にいなかったのでしょう。彼は聖書は読んでいました。

■聖霊様に生き生きと働いていただく


聖霊は三位一体の神のひとつの位格です。聖霊様も神であらせられます。聖霊様は「イエス様は私の主です!」と言って、クリスチャンになった人には必ず内住しておられる、大変にありがたい神様です。


聖霊様の生き生きとした働きをフルに受け取るには、内住しておられる聖霊様に活性化してもらわなければなりません。聖霊様が生き生きと動けるための、ある種の場を作ることを、私たち信徒がしなければなりません。英語で言うと、聖霊様にアクティベートしていただきます。アクティベーション、アクティベーション。

私は、聖霊様が活性化されていない状態で約15年間のクリスチャン生活を送った経験を持っています。その間は、異言のまねごとぐらいはできましたが、よくはわかりませんでした。御霊の賜物に関する知識は…現代国語レベルの知識はありましたが、本質的な理解はゼロ。前の投稿で書いた、アルコール依存から離れることもできませんでした。「肉」と「御霊」の対立は、現代国語レベルでは理解できるものの、その本当の腹に迫った理解はできませんでした。聖霊様の助けというものが何かわかりませんでした。聖霊様が活性化されていなかったからです。

■聖霊に満たされるとはどういうことか


聖霊様に活性化していただくということと、聖書の中の表現の「聖霊に満たされる」とは、ほぼ同義です。

聖霊に満たされるとはどういうことか?聖書のみことばから見てみましょう。

さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。(ルカ1:67)

さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、四十日間、悪魔の試みに会われた。その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。(ルカ4:1-2)

すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。(使徒2:4)

そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。(使徒4:8)

彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。(使徒4:31)


しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」(使徒7:55-56)

しかし、サウロ、別名でパウロは、聖霊に満たされ、彼をにらみつけて、言った。「ああ、あらゆる偽りとよこしまに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵。おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。(使徒13:9-10)


聖霊様はイエス様のみことばを思い起こさせます(ヨハネ14:16)。そのため聖霊様に満たされると往々にして何かを言いたくなるんでしょうね。そのことばはイエス様から来ています。

聖霊に満たされるとは、ローマ書でパウロが肉と御霊とを対比させて書いているところからわかるように、肉(=人間的な思考や人間的な努力)から、御霊(=神の働かれる領域)へと移行することで、可能になると考えられます。


簡単に言うと、自分の思考や努力をいったん停止して、すべてを神にゆだねるのです。すると、自分の思考や努力が空(から)になっていますから、そこに聖霊様が入って満ちる余地ができます。すると聖霊に満たされるのです。

自分の内に、神が働く余地を作る。自分の思考や努力をいったん停止する。自分を神にゆだねる。そこに「神の息」である聖霊様が入ってこられて満ちる。それが大切です。

■異言は聖霊様に自分をゆだねた後の話


以下のローマ書8章は、自分の肉にしがみつくことをやめて、聖霊様(=御霊)にゆだねるプロセスを記しています。

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。
肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
肉にある者は神を喜ばせることができません。

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。(ローマ8:1-9)

異言はその後です。

異言で祈れるようになると誰もがわかりますが、異言で祈っている間は、完璧に自分の思考や努力を神に、聖霊様にゆだねきっています。自分の思考や努力を神にゆだねきることができるから、そこに聖霊様が満ちて、異言も出てくる、という順序だと考えてよいでしょう。それができるようになった一つの大きな区切りが、聖霊のバプテスマと呼ばれているものだと考えればよいでしょう。

 

Photo courtesy of Francesco