この「聖霊強化月間」で取り上げる話題は、すべて、聖霊様と仲良くなることで手に入れることができる、聖書で保証された、大変にラッキーでハッピーな状況です。ラッキーでハッピーとは、別な言葉で言えば、福音(よい知らせ)ということです。

それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。(ローマ15:16)

上のみことばから、異邦人であるわれわれが、聖霊様によって聖なるものとなり、神に受け入れられる供え物となる。そのことが福音に含まれている、ということがわかります。平たく言えば、聖霊様によって神様=イエス様に近いかたちに変えられていくのです。

われわれがイエス様と同じかたちになるという預言も、パウロ書簡の中にはあります。

主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第2コリント3:17-18)


聖書の中の言葉は、そのまま信じれば、そのまま現実になるという優れた力があります。神の言葉ですから。

上の第2コリントでは、御霊の働きにより(=聖霊様の働きにより)、「主と同じかたちに」(=イエス様と同じかたちに)、われわれが変えられていくと書いていますから、それを信じれば、それが成就するのです。すなわち、この世の影響を受けた存在から、天からの影響を受けた存在へと、根本的な変化がもたらされるのです。これが福音の本質です。

今思いましたが、太宰治がこのことを腹の底で納得することができていれば、自殺することはなかったと思います。おそらく、そのことをストレートに告げてくれる兄弟姉妹や先生が周囲にいなかったのでしょう。彼は聖書は読んでいました。

■聖霊様に生き生きと働いていただく


聖霊は三位一体の神のひとつの位格です。聖霊様も神であらせられます。聖霊様は「イエス様は私の主です!」と言って、クリスチャンになった人には必ず内住しておられる、大変にありがたい神様です。


聖霊様の生き生きとした働きをフルに受け取るには、内住しておられる聖霊様に活性化してもらわなければなりません。聖霊様が生き生きと動けるための、ある種の場を作ることを、私たち信徒がしなければなりません。英語で言うと、聖霊様にアクティベートしていただきます。アクティベーション、アクティベーション。

私は、聖霊様が活性化されていない状態で約15年間のクリスチャン生活を送った経験を持っています。その間は、異言のまねごとぐらいはできましたが、よくはわかりませんでした。御霊の賜物に関する知識は…現代国語レベルの知識はありましたが、本質的な理解はゼロ。前の投稿で書いた、アルコール依存から離れることもできませんでした。「肉」と「御霊」の対立は、現代国語レベルでは理解できるものの、その本当の腹に迫った理解はできませんでした。聖霊様の助けというものが何かわかりませんでした。聖霊様が活性化されていなかったからです。

■聖霊に満たされるとはどういうことか


聖霊様に活性化していただくということと、聖書の中の表現の「聖霊に満たされる」とは、ほぼ同義です。

聖霊に満たされるとはどういうことか?聖書のみことばから見てみましょう。

さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。(ルカ1:67)

さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、四十日間、悪魔の試みに会われた。その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。(ルカ4:1-2)

すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。(使徒2:4)

そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。(使徒4:8)

彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。(使徒4:31)


しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」(使徒7:55-56)

しかし、サウロ、別名でパウロは、聖霊に満たされ、彼をにらみつけて、言った。「ああ、あらゆる偽りとよこしまに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵。おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。(使徒13:9-10)


聖霊様はイエス様のみことばを思い起こさせます(ヨハネ14:16)。そのため聖霊様に満たされると往々にして何かを言いたくなるんでしょうね。そのことばはイエス様から来ています。

聖霊に満たされるとは、ローマ書でパウロが肉と御霊とを対比させて書いているところからわかるように、肉(=人間的な思考や人間的な努力)から、御霊(=神の働かれる領域)へと移行することで、可能になると考えられます。


簡単に言うと、自分の思考や努力をいったん停止して、すべてを神にゆだねるのです。すると、自分の思考や努力が空(から)になっていますから、そこに聖霊様が入って満ちる余地ができます。すると聖霊に満たされるのです。

自分の内に、神が働く余地を作る。自分の思考や努力をいったん停止する。自分を神にゆだねる。そこに「神の息」である聖霊様が入ってこられて満ちる。それが大切です。

■異言は聖霊様に自分をゆだねた後の話


以下のローマ書8章は、自分の肉にしがみつくことをやめて、聖霊様(=御霊)にゆだねるプロセスを記しています。

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。
肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
肉にある者は神を喜ばせることができません。

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。(ローマ8:1-9)

異言はその後です。

異言で祈れるようになると誰もがわかりますが、異言で祈っている間は、完璧に自分の思考や努力を神に、聖霊様にゆだねきっています。自分の思考や努力を神にゆだねきることができるから、そこに聖霊様が満ちて、異言も出てくる、という順序だと考えてよいでしょう。それができるようになった一つの大きな区切りが、聖霊のバプテスマと呼ばれているものだと考えればよいでしょう。

 

Photo courtesy of Francesco